今作は1956年のハンガリー暴動から幕を開ける。ソビエト連邦の支配に業を煮やした民衆が放棄し、ブダペストの街は戦火に燃え盛ることとなる。主人公であるディニと兄のガボルの父親はこの街から逃げ出そうとするのだが、母親はそれを良しとせず廃墟の中で彼らを育てることを決める。この下りは数分しかないが今作のハイライトで、崩れた街並から燃え立つ白い炎の光景はかなり印象的だ。
物語はそれから10年後の1963年、反抗的な青年に成長したディニの姿を描く訳だが、それを通じてこの時代の文化が生き生きと描かれている。学校は男子と女子、別の部屋に分けられており、もちろん体育も別々なのだが、男子は上半身裸でバスケとかやったりしているのだ。その時デニは友人と一緒に女性の裸を映した写真を見てニヤニヤしている辺りは、まあ今の日本と変わらない感じではある。
そしてこの時代の反抗の象徴はやはり“アメリカ”文化という奴である。ロックンロールがガンガン流れる中、不良集団が学校の窓ガラスを割りまくるなどお馴染みの風景が現れたり、アパートの狭苦しい部屋で若者たちが踊り狂うなんて場面もある。その時、デニたちの憧れの的なカリスマ不良ピエールがとある飲み物を口にしてブッ!と吐き出し、この変な飲みもん一体なんだ?と聞くのだが、それがコカコーラなのだ。60年代の社会主義下ではかなり珍しい飲み物だった事情が伺えたりする。
監督の演出はかなり不思議で、全編に煙が焚かれたかのような曖昧な感触が宿っている。80年代当時からあの頃を振り返るという感じだろうか。ある意味で表現主義的な手法は、若者たちの反抗の姿をどこか夢見心地のものとして浮かび上がらせていく。あと印象的なのが登場人物のバストショットがかなり多いという点。バストショットを保ったまま人物から人物、風景から風景に長回しのまま進む様はちょっと「サウルの息子」のネメシュ・ラースローを想起させる訳で、これはハンガリーの伝統なのやも。というか長回しの先達には偉大も偉大なミクローシュ・ヤンチョーがいるし。
だが全体から言うとあんまり良くない。冒頭のハンガリー暴動の下りで家族の物語になる様子が伺えたかと思えば、デニ1人に焦点が絞られてしまい勿体無い。しかも行動のよく読めないデニの片想いの相手マグダや、デニと新任教師の微妙な関係性、“人民の敵”と見なされた父親のせいで教師たちから目をつけられるデニたちの悲哀などなど良い感じになるサブプロットは多いのに、散漫であまり印象に残らない。しかも浅いのに妙に絡み合いすぎてどうも焦点の合わない感じが辛い。
監督のGothár Péter ゴタール・ペーテルは今作が2作目、何と第1回東京国際映画祭で監督賞を獲得している。脚本はハンガリーを代表する脚本家のBereményi Géza ベレメーニ・ゲーザだ。今作は初期作で後には監督業にも進出、第2長編の「ミダスの手」(原題“Eldoládó”、昔NHKで放送されたみたいだ)はハンガリー映画界史上の傑作として名高い、らしい。今は小説家として活躍中である。
そして最後に脇道にそれるが、少しびっくりしたのが、この同年に東京国際で同じくハンガリー映画界の超重鎮Mészáros Márta メーサーロッシュ・マールタの代表作「日記」(原題“Napló gyemekeimnek”)が上映されてたりするのだ。東京国際映画祭にはチケット関連で去年酷い目に遭わされたり色々言いたいことはあるが、東欧映画の采配は毎回外さない気がする。去年のルーマニアの「フィクサー」「シエラネバダ」やクロアチアの「私に構わないで」はどれも完成度の高い作品だった。私は観られなかったがスロバキアの「ザ・ティーチャー」やブルガリアの「グローリー」も評判が良かった。谷田部さん、カルロヴィ・ヴァリで審査員なんかしてるし、更なる東欧映画のクオリティアップに期待。
完全に80年代アメリカ映画風ポスターになっているが、これが正に内容にあってる訳だ。