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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

ジョージ・アーミテイジ論~のらりくらりと中指突き立て

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さて、皆さんはジョージ・アーミテイジという映画作家を知っているだろうか。正直、彼を知っている人はそう多くないだろう。唯一彼の監督作「マイアミ・ブルース」は日本でカルト的な人気を誇っているゆえに、今作の監督として記憶に残っている方はいるかもしれない。それからほとんど目立たない「ポイント・ブランク」「ビッグ・バウンス」の監督としても。私はこの現状が悲しくてしょうがない。ジョージ・アーミテイジはたった7作の監督作しかないながら、アメリカジャンル映画界で異様なる光を放つ偉大な作家なのだから。ということで"私が書かなければ誰が書く?!"とばかりに彼のキャリアと作家論を合わせた10000字にも渡る論考を執筆した。物好きな方、ぜひこの力作を読んでほしい。

まずはジョージ・アーミテイジ監督の経歴について記していこう。1942年、コネチカット州ハートフォード生まれ。母は作家で幾つか戯曲も執筆するほどだったが、映画業界で働きたいという夢があり、彼女についてアーミテイジはロサンゼルスへ引っ越す。住んでいたボールドウィンヒルズは様々な人種の住民がおり、さらに学校は自分以外の皆の親が俳優という特殊な状況で、ここでの経験は後の映画製作に大いに影響を与えたそうだ。

コネチカット州に住んでいた頃からアーミテイジは映画にも親しみ始める。最初は両親とともに、後には兄弟とともに映画館へ映画を観にいっていたそうだ。最初に観にいった作品は、叔父に連れられて観た「彼奴は顔役だ!」だそう。若い頃に衝撃を受けた作品はジョセフ・ロージー「緑色の髪の少年」スタンリー・キューブリック博士の異常な愛情だという。そしてロサンゼルスに引っ越した後は、映画に加えてサーフィンやレースにも親しみ(後者への愛情は後に第4長編「ホット・ロッド」として結実する)、青春を謳歌していた。

だが10代の頃には映画監督になろうという気はあまりなく、カリフォルニア大学ロサンゼルス校では政治科学と経済について学ぶ。それでも卒業後、彼は20世紀フォックスの郵便室に就職する。しばらくここで勤務するがフォックスがクレオパトラ(1963)の失敗で大打撃を受け、映画製作部が閉鎖、アーミテイジはTV制作部に行くことになる。そしてここで制作補としてソープオペラペイトンプレイス物語に参加する。彼はここで映像制作を学ぶとともに、後にアーミテイジのデビュー長編「あぶない看護婦」を製作するEverett Chambers エヴァレット・チャンバースというプロデューサーと親交を深める。

だが最も重要な出会いはあのロジャー・コーマンとの出会いだ。コーマンは監督作「聖バレンタインの虐殺/マシンガン・シティ」の製作途中だったが、アーミテイジはフォックスの上層部にあしらわれる彼の姿を目にし(アーミテイジは元々コーマン作品のファンだったという)、それでも映画の製作を続けるコーマンの元に赴き、将来について相談することになる。

1967年にフォックスを離れたアーミテイジは"A Christmas Carrot"という作品の脚本を執筆、これをコーマンの弟であるジーンが読むことになる。彼は脚本を気に入り企画を進めようとするのだが、企画は結局頓挫、それでも他の作品を一緒に作ろうとアーミテイジはある作品の脚本執筆を任される。それが彼にとっての脚本家デビュー作「ガス!」だった。ロジャー・コーマンの監督術を間近で学んだ後、ピーター・ボクダノヴィッチフランシス・フォード・コッポラがコーマン傘下から卒業することもあり、アーミテイジは彼らの後釜に収まることになる。"看護師の映画とスチュワーデスの映画、どっちが撮りたい?"とコーマンに聞かれ、アーミテージが"スチュワーデスの映画"と答えると、彼は"じゃあ、まあ看護師の映画撮っていいぞ"と言うので、こうしてアーミテイジのデビュー長編「あぶな「あぶない看護婦」い看護婦」の制作が始まる。彼は先述のチャンバースと再会、彼やFouad SaidというTV制作部のスタッフとともに15日で撮影を終わらせを完成させた。

この後、彼はさらにジーン・コーマンからMGMが死蔵していたらしい脚本を受け取り、彼の命令の元で黒人の暗殺者が主人公の、いわゆるブラックスプロイテーション映画脚本を完成させる。紆余曲折あり、今作の監督の座がアーミテイジに回ってきたことで、彼の第2長編"Hit Man"が生まれた(そしてこの脚本というのは後にマイク・ホッジス「狙撃者」のオリジナル脚本というのが発覚、後にホッジスの仕事仲間から"あいつは俺の作品をパクった!"というホッジスの悪口を伝えられたそうだ)

1975年、アーミテイジは再びのブラックスプロイテーション映画「ファンキー・モンキー・ベイビー」の脚本を執筆、この時は2つの警察機関が戦争を繰り広げるという内容の映画作品"Trophy"(脚本も彼が執筆)を手掛ける予定だったので監督はしなかったのだが、"Trophy"の企画が頓挫したことから提示されたアーミテイジは別の計画に着手、これが第3長編「恐怖の暴力自警団」として結実した。数年後、彼はTV局ABCの映画製作部から仕事を依頼され、タイトルだけを提示された後に10代に熱狂したストリート・レースについての物語を提案、そして1979年には第4長編「ホット・ロッド/0→400m 勝利への疾走」を完成させた。

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だがここから約10年の間、アーミテイジはスランプに陥ることとなる。彼曰く100の脚本と500のドラフトを執筆しながら、そのどれも映画として結実することはなかった。そんな中である1本の映画の計画が動きはじめる。Bill Horberg ビル・ホーバーグというプロデューサーが目をつけていたチャールズ・ウィルフォード執筆の犯罪小説を、俳優のフレッド・ウォードに見せたところ、彼は気に入り映画化権を所有することになる。彼は今作を監督してもらおうと映画作家ジョナサン・デミの元へ行くのだが「愛されちゃって、マフィア」の完成直後だった彼は、ウォードにアーミテイジを勧める。彼も乗り気になり映画監督に復帰、彼は第5長編「マイアミ・ブルース」を完成させた。

その後はジョン・キューザックが脚本と主演を務めた作品「ポイント・ブランク」を監督(アーミテイジが脚本にクレジットされていないが、キューザック以下脚本家が無能だったため大規模なリライトをノンクレジットで行ったらしい)し、2004年にはエルモア・レナードの原作を映画化した第7長編「ビッグ・バウンス」を監督する。だがプレプロ中の不慮の怪我、プロデューサーによる作品のPG-13指定など様々な要因が積み重なり、アーミテイジは完成前に映画から離脱する結果となる。それゆえか共同で脚本のリライトを担当したレナードも今作より1969年に制作された同原作の「悪女のたわむれ」の方がいいと公言するなど、評価は散々だった(なのでアーミテイジは本作を観たいという人物には彼だけが持っているディレクターズカット版を見せるという)

この後、今のところ彼は映画を監督していない。だが2015年時点、スクリプト・ドクターとして脚本家たちをサポートする一方で、2作の計画を進めている。まずは地球侵略を描いた映画を作る最中、本当にエイリアンが現れ拉致される映画スタッフたちを描いた"Hollywood"の脚本を映画化しようと奔走している。そしてもう1つ、アグノトロジー(無知学)という論をめぐる物語を準備しているそうだ。だが現在、その計画が進展したという話は伝わってこない。今はとにかく待つしかないのだろうが、コーマンもボグダノヴィチもコッポラも現役なのだから、ぜひとも新作を撮ってほしいところである。

ということでここからは作家論に入っていこう。アーミテイジ作品は常にアウトサイダーがとある町(もしくは共同体と呼称するべきかもしれない)へとやってくるところから始まる。例えば"Hit Man"では主人公が故郷のロサンゼルスへ帰り、「ホット・ロッド」は旅の途中にある主人公がある町に立ち寄り、「マイアミ・ブルース」では犯罪を繰り返した挙句にマイアミへとやってくる。この始まりを最も絶妙な形で表現するのがアーミテイジの長編デビュー作「あぶない看護婦」のオープニングだ。3人の看護師がサウスベイへと移住、彼女たちはこの町を彷徨う。郷愁そのもののような橙色に包まれた町は、切ないほどの輝きを放つ。そして看護師たちはそのなかをまるで妖精のように漂うのだ。そして主人公たちはこの共同体での生活を始める訳である。

ちなみにここにおいて主人公のタイプは2つに分けられる。1つは完全なる部外者である主人公がある町へ辿りつく(「あぶない看護婦」「ホット・ロッド」「マイアミ・ブルース」「ビッグ・バウンス」)そしてもう1つは元は共同体の構成員だった人物が故郷へ戻ってくるというパターンだ("Hit Man"「恐怖の暴力自警団」「ポイント・ブランク」)そもそもアーミテイジ監督作は7作と寡作だが、リストに入らない例外が存在しないのは興味深い。

そして監督はこの共同体内で主人公たちが遭遇する出来事を描きだすのだが、彼はこれらを一本芯の通った連続的な事象として描くことはしない。それぞれの出来事には明確な繋がりが存在しない、つまり無数の点の集積として物語を描きだしていく。「あぶない看護婦」は主人公である3人の物語が緩やかな断片として描かれる。その様は3本の独立した短編作品を目撃しているかのようだ。そして「ポイント・ブランク」は故郷で次々と幼馴染に会い、主人公が彼らと関係していく様を取り留めもなく描きだしていく。

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それ故にアーミテイジ作品を観る者は締まらなさを感じるかもしれない。物語に緊張感はほとんど存在しない。共同体の雰囲気は牧歌的なものであり、頗る緩やかな時間ばかりが流れている。これを魅力と取るか退屈さと取るかは観客次第だが、アーミテイジ自身はこれを映画文法として駆使する。例えば「ホット・ロッド」はこの緩慢さを在りし日のアメリカ、詳細に言えば50年代への郷愁へと接続する。そして私たちもまた50年代という名の憧憬へ身体を埋めることになる。ここにおいては50年代の音楽の数々も、その楽天主義的な響きで作品に作用していく。この方法論は「ポイント・ブランク」にも引き継がれる。意図的に引き延ばされた時間の中にザ・キュア"In Between Days"ヴァイオレント・ファムズ"Blister in the Sun"デヴィッド・ボウイ&クイーン"Under Pressure"など主に80年代を彩った楽曲群が放りこまれる。そうして映画は在りし時代への郷愁それ自体へと変容していくのである。

そしてこの牧歌性や緩やかさに寄与している要素がもう1つある。それは俳優のアドリブを重視するアーミテイジの演出法だ。映画に使われる脚本はあくまでアウトラインであり、それを基に俳優たちに登場人物の言葉ひいては性格を作らせるのだ。特に「あぶない看護婦」では主演の女性たちにアドリブを行わせることで自分の知らない女性にまつわる事象を映画に反映させ、さらに"Hit Man"では俳優たちの力を借りやはり彼にとって未知である黒人文化を作品に取りこんでいった訳である。この風通しの良さがアーミテイジ作品の緩やかな自由さを生みだしているのだ。

映画にはもちろん主人公となる人物が存在する。だがアーミテイジ作品は作品の規模の割に、登場人物がすこぶる多く登場する。彼ら脇役への書きこみも詳細であり、その存在感は主人公を喰ってしまうほどだ。一瞬登場しただけなのに鮮明に思いだせる人物が、アーミテイジ作品には少なくない。「あぶない看護婦」の妙にヘラヘラした大家、「マイアミ・ブルース」の指を折られてショック死するクリシュナ教徒や主人公の指を肉斬り包丁でブッた切る質屋の主人、「ポイント・ブランク」の町民たち(私はゲームに夢中で後ろの銃撃戦に気づかない店員がお気に入りだ)などなど。

彼らはいわばアーミテイジ映画における共同体の構成員として登場する訳である。その様はロバート・アルトマンの群像劇、例えばナッシュビル「ショートカッツ」といった作品を彷彿とさせる。これを象徴するのが「ポイント・ブランク」の同窓会だ。会の受付係の妙なキャラの立ち具合からかつてのいじめっ子、赤ちゃんを連れてきた女性など彼らの言葉からはそれぞれの人生が浮かびあがるが、それ以上に共同体の風景をも浮かびあがるのだ。こうして登場人物たちの行動や言葉が有機的に結びつくことで、共同体という概念それ自体が浮かぶのである。そして「恐怖の暴力自警団」ではラストで暴君と化した自警団リーダーの兄を倒した後、町民たちは総出で主人公を迎える。その時、星条旗のスーツを着た少女がやってきて、主人公は彼女を抱きしめるのである。ある意味でこの共同体意識はアーミテイジのアメリカを描きだすという野心の現れなのかもしれない。

そしてここにおいて注目すべきはアーミテイジの初脚本作品「ガス!」(1970)である。今作は、兵器ガスの流出によって25歳以上の大人が全滅した世界で旅を続けるヒッピーカップルを描いた作品だ。彼らは旅をして定住の地を探し、最後には自分たちの共同体を作りあげる。共同体への先鋭な意識はキャリアの最初期から存在していたのだと分かる1作であり、今後のアーミテイジ作品の雛形がここには存在している。

そしてアーミテイジ映画の主人公となるのは既存の体制への反抗者が多い。例えばクールな暗殺者、チンケな小悪党、剽軽な詐欺師などだ。立ち位置が法に背く者でなくとも、反抗心は変わらない。例えば「ホット・ロッド」の主人公であるレーサーは別に犯罪を起こさないが、警察に対して飄々とした反抗の心を見せ続ける。そして「恐怖の暴力自警団」の主人公は最初ただの心優しい好青年だが、兄が反抗者から新たな権威へと堕した時、彼を倒して町に平和を取り戻す。

これに関連してアーミテイジ映画には特に警察への圧倒的な不信感が存在している。脚本執筆作「ファンキー・モンキー・ベイビー」では冒頭10分で2回も警察に職務質問をされ、2回とも主人公である黒人女性バイカー集団が彼らをボコボコにする。「ホット・ロッド」では主人公が車に乗っている時、異様なまでに警察に喧嘩を売られる(おそらく10回は下らない)が、持ち前の飄々ぶりで彼らの追跡を躱していく。

さらにアーミテイジはアメリカで生きることそれ自体がサバイバルに繋がらざるを得ない、アウトサイダーとしての黒人たちへの共感を隠さない。まずデビュー長編「あぶない看護婦」から黒人女性を主人公に据え、"Hit Man"「ファンキー・モンキー・ベイビー」ではブラックスプロイテーション映画に真正面から挑戦している。特に後者ではアメリカにおける黒人差別(そしてその原因となる白人特権)について痛烈に批判している。ある時、白人の中年男性が人気者になるため"黒人のおかま"に変装、そして彼は白人の武装警官によって射殺される。この光景はトランスの黒人女性が多く殺害されている現在のアメリカを思うと戦慄するほどの今日性に溢れている。さらに今作の悪役はコーネル・サンダースを模した白髭の男性だが、彼の目的は黒人リーダーのクローンを作り、人種差別的な白人リーダーに投票させ、黒人たちに追随させることだという。何とも迂遠な計画にも思えるが、選挙という国民の権利を根本から強奪しようとする作戦は長い目で見て致命的、かつ先見性に満ちているように思われてならない。

これはアーミテイジ作品の主人公に反抗者が多いことに関連するが、彼の作品には犯罪映画や犯罪小説への傾倒が見られる。彼は一貫して暴力と犯罪を描きだしている映画作家なのだ。特に小説家チャールズ・ウィルフォードエルモア・レナードへの傾倒は興味深い。この傾倒が後に彼らの原作の映画化、ウィルフォードの「マイアミ・ブルース」とレナードの「ビッグ・バウンス」の映画化へ繋がる訳である。

そして彼の犯罪ものへの傾倒を語るうえでは欠かせない人物がいる。それが映画作家クエンティン・タランティーノである。アーミテイジはタランティーノが勤めていたレンタルビデオ店の常連であったという繋がりがあるのだが、それ故かアーミテイジの脚本作「ファンキー・モンキー・ベイビー」に"荒唐無稽なる風刺劇"という讃辞を送っている。さらに興味深いことにタランティーノ「マイアミ・ブルース」の原作をパルプ・フィクションの元ネタの1作と公言しているのである。アーミテイジ作品の核は本筋がほとんど存在しない、無数の点の集積で構成された、脇道に逸れつづける語りだということは先述したが、この語りの方法論はタランティーノに影響を与えているのではないかと私は密かに思っている(少なくとも「ファンキー・モンキー・ベイビー」などでアーミテイジの作品に触れていたことは確かだ)

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だが面白いのはアーミテイジも逆にタランティーノの影響を濃厚に受けていることだ。アーミテイジ作品では会話劇がそこまで主体になることはなかったが、後期の2作「ポイント・ブランク」「ビッグ・バウンス」(後者はタランティーノジャッキー・ブラウンと同じくエルモア・レナード原作であることも興味深い)は会話劇主体の犯罪映画となっており、この作劇法はタランティーノ以降の犯罪映画の作劇に則っている感触がある。特に「ポイント・ブランク」には双方向的な影響が顕著だ。

そしてアーミテイジ作品の主人公に特徴的なのは、彼らがマッチョイズムを巧妙に回避していることだ。"Hit Man"「ホット・ロッド」「ビッグ・バウンス」といった作品の主人公たちは反抗的ながらしなやかで、飄々たる存在感を持っている。そして「マイアミ・ブルース」では原作に存在した女性差別的な言動をわざわざ排除した上で、主人公のキャラを構築し直しているのだ。「恐怖の暴力自警団」ではマッチョイズムの権化と化してしまった兄クリス・クリストファーソンを。お世辞にも男らしいとは言えない痩身の青年ジャン=マイケル・ヴィンセントが打ち倒す。そして兄と彼を蝕む有害な男性性はまるで「白熱」ジェームズ・キャグニーのような死を遂げるのである。

男性描写に関連して、アーミテイジの作品にはジャンル映画には珍しい女性キャラの深みがある。そもそも彼のデビュー長編は異なる性格の3人の看護師を描いた「あぶない看護婦」だった。前作「もっともあぶない看護婦」において、女性監督であるステファニー・ロスマンは作品にフェミニズムの精神を込めた。全てではないにしろ、アーミテイジは彼女からフェミニズムを継承し、強さや脆さを併せもつ複雑な女性キャラを作りあげた。そしてファンキー・モンキー・ベイビーズのパワー漲る黒人女性たち、「マイアミ・ブルース」「ポイント・ブランク」において物語が展開するにつれ更に複雑になっていく複層的なヒロインたちへと繋がっていくのである。

このアーミテイジ作品におけるジェンダー描写に関して、比較検討したい興味深い1作が存在する。それが彼が脚本執筆に参加した1990年制作の「ブルーヒート」である。今作は4人の麻薬捜査官が取引の裏側に広がる国家的な陰謀を食い止めんとする姿を追った作品である。今作は80年代90年代に典型的だったマッチョな警察映画の1種であり、冒頭のアメフト描写や主人公たちの会話内容からホモソーシャル的な価値観が濃厚なのは明らかである。そこで女性キャラはほぼ警察官の妻たちしか存在せず、彼らは殉職した夫のために泣くか、サスペンスの駒として悪役に襲撃されるかしか役割はない。監督ジョン・マッケンジーは50年に渡って、例えば「長く熱い週末」など男臭いジャンル映画を作ってきた職人監督だが、本作は彼の作家性に支配され、アーミテイジの筆致は微塵も存在しない。実際、アーミテイジの仕事は常に雇われ仕事であったが、今作ほどに雇われ感が露骨な作品はない。そもそも主人公が警察官など、彼の監督作品では全く有り得ないだろう。

さて何度か説明してきた通り、彼の作品は緩やかさや遅さが持ち味である。ハリウッド映画やジャンル映画の駆け足な展開に反旗を翻すような意志がここには存在している。それ故に彼の作品はダラダラと弛緩しているという誹りを受けることもある。例えば「あぶない看護婦」はいわゆるセクスプロイテーション映画を期待したジャンル映画の好事家にはかなり酷評されている。だがそれは意図的なものだろう。アーミテイジはジャンル映画を作りながらも、あえて即物的な快楽に背を向けるような緩慢さを演出している。その中でしか描けないもの――それは今まで長々と書いてきた要素たち――があるからだろう。そして彼の作劇はある意味で現代においてスローシネマと呼ばれる作品群とも呼応するような感触すらあるのだ。

だがスローシネマになくて、アーミテイジ作品には存在するもの、それこそが湧きあがるような多幸感だ。彼の作品のなかには緩慢な時間のなかに生きることの煌めきと喜びが現れる瞬間が多く存在する、彼の作品のほとんどが犯罪映画であるというのに。例えば「ホット・ロッド」で主人公が夜の闇を愛車で疾走する瞬間、「ポイント・ブランク」冒頭の奇妙にスラップスティックな暗殺場面、「ビッグ・バウンス」で傲慢な男の顔面を主人公がバットでブチのめす瞬間……「ビッグ・バウンス」などはこの多幸感の手癖だけで作られた、多幸感以外は何も存在しない映画と言えるほどだ。

そしてこういった意味で私たちは、彼の映画作家としての全ての始まりである「あぶない看護婦」のオープニングへ立ち戻ることになる。私はSkyの鮮烈で胸を締めつけるような旋律のなか、郷愁がそのまま色彩を得たかのような黄昏のなか、3人の主人公がただ気ままに街を歩きつづける光景を見るだけで涙が出てくる。私はジョージ・アーミテイジという偉大なる映画作家に出会えてよかったと思う。そんな魅惑的な力が彼の作品には存在しているのだ。

さて最後に私はジョージ・アーミテイジを、世界の最先端に生きる映画作家と繋げてみたい。"Hit Man"や第4長編「ホット・ロッド」のある種異様な遅さに触れ、頭に思い浮かんだのは"もしかしたらジョージ・アーミテイジS.クレイグ・ザラーの先駆者だったのかもしれない"という仮説だ。そのミニマルな遅さを以て、共同体や世界そのものを描く手捌き。何か似たものを感じさせるのだ。

アーミテイジもクレイグ・ザラーもジャンル映画の制作に精魂を注ぎながら、他の作品とは一線を画す作風、詳しく言えばジャンル映画の即物的な快楽に背を向けるような大局的緩慢さを作品の核に据えている。それはまるでそこにこそ豊穣さが宿ると、巨大なる世界が浮かびあがると熟知しているようだ。

そんな中で2人の違いといえば、アーミテイジの暴力描写は割と軽い一方で、ザラーの暴力描写は凄まじく血腥いことだ。そしてそれは人間の尊厳というものへの考えの違いを浮き彫りにしている印象を受ける。アーミテイジは人間の尊厳が貫かれる様を見据え、ザラーは人間の尊厳が踏みにじられる様を見据える作家と。ここで思うのはアーミテイジの「マイアミ・ブルース」で、もし彼がチャールズ・ウィルフォードの原作から女性差別的な要素を排さなければ、ザラー作品のようになっていたのではないかということだ。ザラー作品においては、日常に根付く強烈な差別意識アメリカという世界を浮かびあがらせる鍵だからだ。

ジョージ・アーミテイジS.クレイグ・ザラーの作品には似通った雰囲気がある。だがむしろそれは2人の違いを際立たせるために存在しているようにも思われる。「マイアミ・ブルース」と例えば「ブルータル・ジャスティス」の違いこそが、この2人のアメリカ人映画作家に線を引いているのだと。

ということで長くなったが、ここでジョージ・アーミテイジ論を終えたいと思う。アーミテイジ作品は、日本では「マイアミ・ブルース」がカルト的な人気を誇っているが、私はシネフィルたちにそこで止まるなと言いたい。カルト的な人気があるから観て"あー面白かった"とただ消費するだけでは先には進めないのだ。せめてIMDBを通じて監督ページに飛び、そのフィルモグラフィを読むくらいはしろと。私としてはそんな人物が1人でも多く増えてほしいとこの論考を執筆した訳である。皆さんもぜひジョージ・アーミテイジの作品を楽しんでほしい。それでは。

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