さてスロヴェニアである。この国は……といつものように続けようとしたが、このブログにおいては既にスロヴェニア映画を紹介していた。ふう。実際レビューを書く時に一番苦労するのがこの序文なのである。レビューの幕開けとして、これから続く文章を包括的に纏めた文を書くのが苦手な訳である、という愚痴で以て字数を稼いでしまったが、まあたまには良いだろう(と、思いきや、後で調べたらスロヴェニア映画は初だった。記憶力の低下が著しい)はい、という訳で今回は母と娘の関係性を詩的に描き出した、Vlado Škafar監督によるスロヴェニア映画“Mama”を紹介していこう。
Vlado Škafarは1969年スロヴェニアに生まれた。若い頃から映画に親しんでおり、スロヴェニア・シネマテークやイソラシネマ国際映画祭の設立者兼プログラマーとして活躍していた。監督としては1998年に短編"Stari most"でデビュー、その後は2003年に長編ドキュメンタリー"Peterka - Leto odlocitive"や2006年には同じく長編ドキュメンタリー"Pod nijhovo kozo"を製作するなど、主にドキュメンタリー作家として活躍していた。
彼にとって初めての劇長編は2010年製作の"Oca"である。長く疎遠であった父と息子が再開を果たし、スロヴェニアの自然の中で交流を深めていく姿を描き出した作品で、ヴェネチア国際映画祭の批評家週間で上映されるなど話題になる。そしてとある2人の女性の生涯に渡る友情を描いた、2012年製作のドキュメンタリー"Deklica in drevo"を経て、2016年には第2劇長編となる"Mama"を完成させる。
この物語の主人公は名もなき母(Natasa Tic Ralijan)と、やはり名もなき娘(Vida Rucli)の2人だ。彼女たちはイタリアとスロヴェニアの国境付近に位置する、山奥の小さな家屋へとやってきた。だが自殺願望を持つ娘は破滅的な行為に走り、母は彼女を部屋に閉じ込めておかざるを得ない。
今作はまずそんな苦境にある母の姿を静かに見据えていく。蝋燭の灯りを頼りにして彼女は家屋の中を歩き回る。揺れる灯火は、額縁に飾られた昔の写真や埃臭い部屋の装いを浮かび上がらせていく。そして彼女が向ける眼差しは暖かな郷愁に満ちながらも、それはもう戻ってこないことをも知る悲哀をもそこには兆している。
監督はそんな彼女の姿に柔らかな身体性というべきものを宿していく。例えば彼女が家屋の壁を撫でる手つき、スッと指を伸ばしてから愛おしげに手を添える時の優しさは静かな感動を呼ぶ。そしてこの優しさは監督が世界に向けるそれと同じだ。彼はゆっくりと世界の中を進んでいく彼女を眺めながら、そこに優しさを見出だすうち、全てがまるで日常という名の舞踏と化し始める。壁を手で撫でる、蝋燭に火を灯す、埃臭い部屋でヨガを行う……
だが監督はそんな物語にツイストを施す。母と娘が向かう先はとあるコミューンだ。カトリック教会の手で経営されているこの場所には、自らの病を治すために十数人の若者たちが集まっていた。ここから本作はドキュメンタリー的な転調を果たすのだ。例えば若者たちがバレーボールを楽しむ、音楽療法を受ける、そういった姿がある種の親密さと共に綴られていく。そしてそこには彼らの証言もまた織り合わされていく。親との関係性、ここに来た理由、決意の固さ……
このフィクションとドキュメンタリーが重なりあう、いわゆるドキュドラマ的な形式は最近の映画作家たち、例えばこのブログでも紹介したロベルト・ミネルヴィーニなどが好んで使う手法だ。異なる形式が混ざりあうように綴られるうち、フィクション的な語りの中にドキュメンタリー的な親密さが宿り始め、その繋がりが今作の物語世界を豊穣なるものとしていくのだ。
そうして物語が展開するにつれて、母と娘の心の彷徨いが色濃く浮かびあがっていく。母は娘の身を案じながら庭に種を植えていく、そこに希望の芽が出ることを願うように。彼女の行動に共鳴するように、娘は緑豊かな森のうちへと分け行っていくこととなる。そこに希望を探し求めて。そんな彼女たちを取り囲む自然の美しさは、正に崇高の一言で言い表すべきものだ。教会に広がる花の園、世界を塗りつぶす鮮やかな緑の色彩、撮影監督の○はそういった自然を息遣いまで捉えるように深くレンズに焼きつけていく。
だがもう1つ重要なのはこの世界に満ちる音の豊穣さだ。例えば母が物を持ったり床の上を歩いたりする時に聞こえてくる日常の音、例えば森を分け入る娘が枝を掻き分ける時に響く弾けるような音や彼女の周りを囲む鳥たちの囀りなどの自然の音、そういった物が細心の注意と共に繊細に捉えられていくのだ。中でも印象的なのは終盤に響き渡る川の流れの音だ。清洌な音の連なりの中で娘は癒されていくと共に、それを聞く私たちの心をも洗われていく、そんな力が宿っているのだ。“Mama”はそうした豊穣たる日常と自然の交わりを背景として綴られる、母と娘との複雑な関係性についての洞察だ。ラストの息を呑むほどに美しい風景は、彼女たちの未来を感じさせると共に、観る者自身の母親との関係性を振り返させるような美しさに満ち溢れている。
参考文献
https://pro.festivalscope.com/director/kafar-vlado(監督プロフィール)
https://mubi.com/notebook/posts/to-be-discovered-an-interview-with-vlado-skafar(監督インタビュー)
私の好きな監督・俳優シリーズ
その201 Yared Zeleke&"Lamb"/エチオピア、男らしさじゃなく自分らしさのために
その202 João Viana&"A batalha de Tabatô"/ギニアビサウ、奪われた故郷への帰還
その203 Sithasolwazi Kentane&"Woman Undressed"/ Black African Female Me
その204 Victor Viyuoh&"Ninah's Dowry"/カメルーン、流れる涙と大いなる怒り
その205 Tobias Nölle&"Aloys"/私たちを動かす全ては、頭の中にだけあるの?
その206 Michalina Olszańska&"Já, Olga Hepnarová"/私、オルガ・ヘプナロヴァはお前たちに死刑を宣告する
その207 Agnieszka Smoczynska&"Córki dancingu"/人魚たちは極彩色の愛を泳ぐ
その208 Rosemary Myers&"Girl Asleep"/15歳、吐き気と不安の思春期ファンタジー!
その209 Nanfu Wang&"Hooligan Sparrow"/カメラ、沈黙を切り裂く力
その210 Massoud Bakhshi&"Yek khanévadéh-e mohtaram"/革命と戦争、あの頃失われた何か
その211 Juni Shanaj&"Pharmakon"/アルバニア、誕生の後の救いがたき孤独
その212 済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!
その213 アレクサンドラ・ニエンチク&"Centaur"/ボスニア、永遠のごとく引き伸ばされた苦痛
その214 フィリップ・ルザージュ&「僕のまわりにいる悪魔」/悪魔たち、密やかな蠢き
その215 ジョアン・サラヴィザ&"Montanha"/全てはいつの間にか過ぎ去り
その216 Tizza Covi&"Mister Universo"/イタリア、奇跡の男を探し求めて
その217 Sofia Exarchou&"Park"/アテネ、オリンピックが一体何を残した?
その218 ダミアン・マニヴェル&"Le Parc"/愛が枯れ果て、闇が訪れる
その219 カエル・エルス&「サマー・フィーリング」/彼女の死の先にも、人生は続いている
その220 Kazik Radwanski&"How Heavy This Hammer"/カナダ映画界の毛穴に迫れ!
その221 Vladimir Durán&"Adiós entusiasmo"/コロンビア、親子っていうのは何ともかんとも
その222 Paul Negoescu&"O lună în Thailandă"/今の幸せと、ありえたかもしれない幸せと
その223 Anatol Durbală&"Ce lume minunată"/モルドバ、踏み躙られる若き命たち
その224 Jang Woo-jin&"Autumn, Autumn"/でも、幸せって一体どんなだっただろう?
その225 Jérôme Reybaud&"Jours de France"/われらがGrindr世代のフランスよ
その226 Sebastian Mihăilescu&"Apartament interbelic, în zona superbă, ultra-centrală"/ルーマニアと日本、奇妙な交わり
その227 パス・エンシナ&"Ejercicios de memoria"/パラグアイ、この忌まわしき記憶をどう語ればいい?
その228 アリス・ロウ&"Prevenge"/私の赤ちゃんがクソ共をブチ殺せと囁いてる
その229 マッティ・ドゥ&"Dearest Sister"/ラオス、横たわる富と恐怖の溝
その230 アンゲラ・シャーネレク&"Orly"/流れゆく時に、一瞬の輝きを
その231 スヴェン・タディッケン&「熟れた快楽」/神の消失に、性の荒野へと
その232 Asaph Polonsky&"One Week and a Day"/イスラエル、哀しみと真心のマリファナ
その233 Syllas Tzoumerkas&"A blast"/ギリシャ、激発へと至る怒り
その234 Ektoras Lygizos&"Boy eating the bird's food"/日常という名の奇妙なる身体性
その235 Eloy Domínguez Serén&"Ingen ko på isen"/スウェーデン、僕の生きる場所
その236 Emmanuel Gras&"Makala"/コンゴ、夢のために歩き続けて
その237 ベロニカ・リナス&「ドッグ・レディ」/そして、犬になる
その238 ルクサンドラ・ゼニデ&「テキールの奇跡」/奇跡は這いずる泥の奥から
その239 Milagros Mumenthaler&"La idea de un lago"/湖に揺らめく記憶たちについて
その240 アッティラ・ティル&「ヒットマン:インポッシブル」/ハンガリー、これが僕たちの物語
その241 Vallo Toomla&"Teesklejad"/エストニア、ガラスの奥の虚栄
その242 Ali Abbasi&"Shelly"/この赤ちゃんが、私を殺す
その243 Grigor Lefterov&"Hristo"/ソフィア、薄紫と錆色の街
その244 Bujar Alimani&"Amnestia"/アルバニア、静かなる激動の中で
その245 Livia Ungur&"Hotel Dallas"/ダラスとルーマニアの奇妙な愛憎
その246 Edualdo Williams&"El auge del humano"/うつむく世代の生温き黙示録
その247 Ralitza Petrova&"Godless"/神なき後に、贖罪の歌声を
その248 Ben Young&"Hounds of Love"/オーストラリア、愛のケダモノたち
その249 Izer Aliu&"Hunting Flies"/マケドニア、巻き起こる教室戦争
その250 Ana Urushadze&"Scary Mother"/ジョージア、とある怪物の肖像
その251 Ilian Metev&"3/4"/一緒に過ごす最後の夏のこと
その252 Cyril Schäublin&"Dene wos guet geit"/Wi-Fi スマートフォン ディストピア
その253 Alena Lodkina&"Strange Colours"/オーストラリア、かけがえのない大地で
その254 Kevan Funk&"Hello Destroyer"/カナダ、スポーツという名の暴力
その255 Katarzyna Rosłaniec&"Szatan kazał tańczyć"/私は負け犬になるため生まれてきたんだ
その256 Darío Mascambroni&"Mochila de plomo"/お前がぼくの父さんを殺したんだ
その257 ヴィルジル・ヴェルニエ&"Sophia Antipolis"/ソフィア・アンティポリスという名の少女
その258 Matthieu Bareyre&“l’Epoque”/パリ、この夜は私たちのもの
その259 André Novais Oliveira&"Temporada"/止まることない愛おしい時の流れ
その260 Xacio Baño&"Trote"/ガリシア、人生を愛おしむ手つき
その261 Joshua Magar&"Siyabonga"/南アフリカ、ああ俳優になりたいなぁ
その262 Ognjen Glavonić&"Dubina dva"/トラックの棺、肉体に埋まる銃弾
その263 Nelson Carlo de Los Santos Arias&"Cocote"/ドミニカ共和国、この大いなる国よ
その264 Arí Maniel Cruz&"Antes Que Cante El Gallo"/プエルトリコ、貧しさこそが彼女たちを
その265 Farnoosh Samadi&"Gaze"/イラン、私を追い続ける視線
その266 Alireza Khatami&"Los Versos del Olvido"/チリ、鯨は失われた過去を夢見る
その267 Nicole Vögele&"打烊時間"/台湾、眠らない街 眠らない人々
その268 Ashley McKenzie&"Werewolf"/あなたしかいないから、彷徨い続けて
その269 エミール・バイガジン&"Ranenyy angel"/カザフスタン、希望も未来も全ては潰える
その270 Adriaan Ditvoorst&"De witte waan"/オランダ映画界、悲運の異端児
その271 ヤン・P・マトゥシンスキ&「最後の家族」/おめでとう、ベクシンスキー
その272 Liryc Paolo Dela Cruz&"Sa pagitan ng pagdalaw at paglimot"/フィリピン、世界があなたを忘れ去ろうとも
その273 ババク・アンバリ&「アンダー・ザ・シャドウ」/イラン、母という名の影