そして、アイスランドである。この国はまず世界の歌姫ビョークの出身国であることがまず有名であるが、最近は映画の撮影地として重宝され、例えばクリストファー・ノーランの「インターステラー」などがこの地をロケ地として撮影されていることは有名だろう。
現地の映画産業はどうかと言えば、小国ながらもなかなかコンスタントに才能を輩出していると言えるのではないだろうか。例えば最近ではハリウッドにおいて頭角を現している「デンジャラス・ラン」のバルタサール・コウマウクルに、日本でも「馬々と人間たち」が日本でも公開されたベネディクト・エルリングソン、日本において知名度は低いが映画祭界隈ではアイスランド1の才能と謳われる「スパロウズ」のルーナ・ルーナソンなどなど、映画作家には枚挙に暇がない。さて、今回はそんな国から現れた新たなる才能である Ísold Uggadóttir監督による初長編映画“Andið eðlilega ”を紹介していこう。
ラーラ(Kristín Þóra Haraldsdóttir)はシングルマザーとして息子エイナル(Patrik Nökkvi Pétursson)を独りで育てている。空港職員として働いているけれども、生活は困窮の極みにある。そして家賃滞納が元でとうとう家を出ざるを得なくなり、とうとうホームレス同然で車中生活を送るまでに追い詰められてしまう。
今作はアイスランドに根づく様々な問題を射程に入れているが、ラーラの姿からは貧困とホームレスの問題が浮かび上がる。女性1人だけでは母として満足に子供を育てられない状況がここには広がっている。セーフティネットもうまく機能しないゆえに、金がなければ容易にホームレスへと転落してしまう。こういった苦境がアイスランドには存在しているのだ。
そして今作にはもう1人主人公がいる。アジャ(Babetida Sadjo)はより良い生活を送るため、故郷のブルキナファソからカナダを目指していた。しかしトロントへ向かおうと立ち寄ったアイスランドの空港で、パスポートの偽造がバレてしまい勾留されてしまう。その後に収容所で暮らすことになるのだが、いつまで収監されるか分からない絶望感に沈みながら、彼女は時間を浪費することとなる。
そんな彼女の姿には難民の問題が浮かび上がる。容易に目的地へは辿り着けない難しさがここにはある。そして収容所はかなり劣悪であり刑務所のような息苦しさに満ち、更には定期的に警察がガサ入れに来て理由も分からないままに仲間が拘束されていく。現代において難民は顕著な問題であるが、それがアイスランドでも起こっているのだ。
そういった女性たちの苦難はアイスランドの荒涼たる風景の中で苛烈さを増していく。開けた大地には建物も疎らで荒涼たる雰囲気が充満している。そして外では常に凄まじい風が吹きすさんでおり、ラーラたちがその中で一瞬にして吹き飛ばされてしまうのではないか?という恐ろしい予感が、ここには存在しているのだ。
ラーラたちは車中泊を続けるのだが、その最中に息子のエイナルが飼い猫を追って行方不明となってしまう。ラーラは彼を探すために広大な大地を彷徨い続けるのであるが、とうとう見つけた後に彼が一緒にいたのがアジャだった。彼女がエイナルの猫を見つけてくれたのだ。この出会いをきっかけとして、ラーラは収容所で住む場所を確保できたりと、距離は少しずつ深まっていく。
最初は全く違う状況で、それぞれの困難を抱えたふたりの女性の姿が平行して描かれるのだが、それが少しずつ重なり始めるのだ。ラーラとアジャ、2人で以て吹きすさぶ風の中に立ち続けるとそんな後ろ姿が描かれるのだが、それは女性同士の連帯の可能性を象徴しており、それが繊細な筆致で以て綴られる様は静かな感動を呼ぶだろう。
それを支えるのが俳優たちの熱演だ。アジャ役のBabetida Sadjoは過酷な状況において憂いの表情を浮かべながらも、それを切り抜けようとする女性の姿を捉えている。そしてラーラ役のKristín Þóra Haraldsdóttirは神経衰弱ギリギリの状態に陥りながら、生活を建て直そうと必死に奔走する、そんな弱さと強さを兼ね備えた女性を巧みに演じきっている。
更にそこにほんのりとクィア的な要素があるのも見逃せない。物語の冒頭においてラーラは、エイナルと同じ幼稚園に通う園児の母親とセックスする姿が映し出される。そこには女を愛する女としてのアイデンティティーが存在している。そしてアジャと出会い少しずつ距離を深めていくうちに生まれる感情がある。それは表だって現れることがないが静かに積み重なっていく複雑な感情だ。それが今作の核にあることが分かってくるだろう。