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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Maryna Er Gorbach&“Klondike”/ウクライナ、悲劇が今ここに

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現在、ウクライナに対してロシアが不穏な動きを見せ、ともすれば戦争が起こってしまうのではないかという緊迫した状況が続いている。そんなキナ臭い雰囲気のなか、サンダンス映画祭であるウクライナ映画がプレミア上映された。この作品を観ながら、私は正に今立ち上がっている現実について考えざるを得なかった。今回は今年最初の衝撃として私の前に現れたウクライナ映画である、Maryna Er Gorbach マリナ・エル・ゴルバック監督作“Klondike”を紹介していこう。

今作の主人公はイルカとトリク(Oksana Cherkashyna オクサナ・チェルカシナ&Sergey Shadrin セルゲイ・シャドリン)という夫婦だ。彼らはロシアとウクライナの国境に程近い町に暮らしていた。だが時は2014年、ロシアがウクライナ南部のクリミア半島、東部のドンバス地方に侵攻、いわゆるクリミア危機・ウクライナ東部紛争が勃発した年である。イルカの町にもロシア軍が進駐し、常に厳戒体制が敷かれている。そんな状況だったが、イルカのお腹には待望の赤子が宿っていた。

今作は紛争に見舞われたウクライナの人々が極限の状況に追い込まれていく姿を淡々と描きだしていく。家の周りには重装備のロシア兵や戦車が闊歩し、心休まる時がほとんど存在しない。暴力と死の予感が常に隣には存在している。夫婦はそんな場所で生きている、ここから去る気は微塵もないようだ。もし去ったならば命は助かりながら、誇りは全て踏みにじられるとでもいう風に。

この生存闘争の過酷さを物語るのが冒頭場面だ。寝室にいるイルカたちは眠ろうとしながら、些細なことから神経を逆立てて、挙げ句の果てに痴話喧嘩を始めてしまう。寝室を行き交いながら互いに怒りを向ける2人、そして罵倒が響き渡る寝室そのものを、撮影監督であるSviatoslav Bulakovskyi スヴィトスラフ・ブラコフスキのカメラは見据えていく。そしてゆっくりと、まるで這いずる油のようにカメラは360°の回転を遂げていき、そこにはカットが一切かからない。しかしある瞬間爆音が炸裂し、家が煙に包まれることになる。2人は無事だが、寝室の壁は完全に破壊されてしまっている。

物語の始まりを悍ましい形で祝福するこのシークエンスは先述通り生の過酷さを象徴するが、それと同時に今作の撮影がいかに凄まじいものかをも語っていると言えるだろう。ここにおいてBulakovskyiは途切れなき長回しを主体とした撮影を遂行していく。カメラは目前の風景を極端なまでの自然主義的なアプローチで映しだしながら、常時固定されている訳ではなく、異様なまでに遅いズームやパンを行い、被写体を追うことともなる。この拳を遅々として石造りの壁に押しつけるような圧力に満ちた長回しのなかで、時間という概念は息詰まる無限として拡大されていくかのようだ。

ウクライナ映画において、長回しキラ・ムラートからの伝統といっても過言ではない形で脈々と継承されているが、近年それは加速度的に激化している印象を受ける。例えばミロスラヴ・スラボシュピツキー「ザ・トライブ」ヴァレンチン・ヴァシャノヴィチアトランティスといった作品に、形式主義長回しが内容との均衡を崩していくような印象を受けた。ここまでとは言わずとも先鋭な形式主義を今作もまた共有しているように思われる。

更に今作ではロングショットが多用されることで、イルカたちの生活風景が、彼女たちの暮らす世界そのものの中に現れることにもなる。この地域は町や村というよりも、だだっ広く不毛な荒野に人や彼らの住まう家が点在するといった状況の方がしっくりくる。そしてそこに鼓膜を潰すような轟きを響かせながらロシア軍が進駐を遂げる訳だ。荒涼、虚無、不穏、そんな重苦しい言葉の数々だけが観客の頭には浮かぶはずだ。

こういった状況でイルカたちは生存を続けようとするのだが、その方法こそが家事なのである。例えば砲火で破壊された家の残骸を片付ける、それが終わったら料理を作って食べる、外では水を汲んで体を洗う、家事が終わった夜にはテレビを観てそして眠りにつく。こういった家事、もしくは生活そのものが先述した演出のなかで淡々と繰り広げられていく訳だが、ここで想起するのがシャンタル・アケルマン「ジャンヌ・ディエルマン」だ。今作は永遠にも思えるほど続く料理や掃除といった主婦がこなす家事の数々を、固定され一切動くことのない長回しによって延々と描きだす凄まじい1作だ。どちらも家事という日常の所作を長回しで描きだすという手法がよく似ている。

だが興味深いことに2作においては家事の意味合いが全く変わってくる。「ジャンヌ・ディエルマン」が家庭という牢獄における懲役刑のように家事を描きだしている一方で、今作では家事が生存戦略として機能している。戦時下という1つの極限状態においては、家事を続けることで日常を過ごすという行為自体が生の希望を繋ぎとめる役割を果たしているのだ。家事によって保たれる日常こそが生の核にあるのである。

そしてここにおいて撮影と同様に印象的なのが、監督自身が手掛けている編集だ。Bulakovskyiの長回しは時の流れをそのままスクリーンへと投影する一方で、ただただカットを長くすればこれが十全に機能するという訳ではもちろんない。むしろ長回しにおいてこそ、いつどのタイミングでカットするかが重要になる。監督の編集はこれを知悉しているかの如く、ショットとショットを繋げていく。一瞬に時間と時間を切り裂いたかと思えば、ある断面と断面が新たに繋がり先鋭なリズムが生まれるといった風なのだ。

先述した通り、今作は主人公たちの周囲に広がる荒野をも内包するロングショットを多用する。だがそれらロングショットの合間、ふとイルカらの表情のクロースアップが挿入される瞬間が何度かある。時間の流れを長く取りいれるロングショットにおいては人間を含め全てが一種の無機物に思える一方で、クロースアップにおいてはイルカらの顔に浮かぶ皺や動き、何より表情が中心に据えられ、無機物とはまた違う生の存在を感じさせる。後者はカットがかかるのもより早いので、無限にも感じられる時の流れとは様々な面で対比が成されていき、リズムは更に息詰まるような緩急を宿す。そうして彼女らの生活と日常にこそ存在するダイナミクスが露になるのだ。

そしてイルカの出産が近づくなかで、同時に戦争の影もまた濃厚になっていく。そんなある日、衝撃的な事件が起こる。家の近くに旅客機が墜落したのだ。マレーシア航空17便が飛行中、ロシアによって撃墜され墜落、乗客283人と乗組員15人の全員が死亡したというあの事件だ。こうして未曾有の惨状が広がるなかで、イルカたちの人生は急転直下の悲劇へと突き進んでいく。

この惨劇をきっかけとして、イルカたちはもはや戻れない一線を踏み越えることを余儀なくされるが、それでも彼女たちは死に物狂いで日常を保とうとする。これがウクライナに生きる人々にとっての全身全霊のサバイバルという風に。だが観客は目撃することになるだろう、この意志が完膚なきまでに破壊される、この悲劇が淡々と繰り広げていく様を。ここにおいて私たちは監督が提示するあまりの絶望に言葉を失うしかないはずだ。だが同時にこの悲劇が、今再び繰り返されようとしていることにも気づかざるを得ない。私もそんな1人だ。だからせめて、語らなくてはいけない。悲劇を繰り返さないよう私たちに訴える、この“Klondike”という映画について語らなくてはいけないのだ。この文章を読んだ方が、少しでもウクライナが直面する現実に思いを馳せてくれることを願う。

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