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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Tolin Erwin Alexander&“Monikondee”/スリナムと仏領ギアナ、その境界線上の生

さて、スリナムである。南アメリカ大陸の北東部に位置する国であり、ガイアナや仏領ギアナと合わせてギアナ三国とも呼ばれている……って、前回の仏領ギアナ映画を紹介した記事と冒頭が似てるが、まあもちろん合わせている。この国の映画や映画監督に関しては以前に“Wan pipel”という作品を少しばかり紹介したが、今回は最新のスリナム映画を紹介したいと思っている。ということで早速Lonnie Van Brummelen、Siebren De Haan、Tolin Erwin Alexander監督作であるスリナム映画“Monikondee”レビューを始めていこう。

このドキュメンタリーの主人公となるのはブーギーという名前のボート商人である。スリナムと仏領ギアナの国境沿いに位置するマロニ川、彼はこの川を通じて2つの国をめぐりながら、その各地に点在する村々へと赴き村民たちに生活必需品を売りめぐるという生活を送っている。例えば彼は都市部で食品や酒、ガソリンなどの商品を仕入れた後、愛用のボートで以てマロニ川へと繰り出していく。川沿いに偏在する村にはオランダら欧米列強がこの国を植民地化する前から住んでいた先住民たちが多く住んでいる。彼らは都会から隔絶した生活を送っているわけだが、そんな彼らに様々な物品を提供するのがブーギーの役割というわけである。

ブーギーの立ち位置はなかなか複雑なものである。彼自身はスリナム人であるのだが、妻はギアナ人である。しかし入国を許可する書類を持ち合わせてないゆえ、仏領ギアナには表立って滞在できない状況にある。その間隙を縫って仏領ギアナに赴き、レストランで妻と食事を楽しみイチャイチャする様には多幸感すら溢れているが、それは社会的に許されざる行為なのである。それでいて陸路を行くための車には、スリナムギアナが属するフランス両国の国旗が飾ってある。ブーギーは2つを担う存在としての自負が確かにあるのである。

撮影監督であるSander Coumouのカメラはこういったブーギーの生活を丹念に追っていくと同時に、彼を取り囲むこの地域の広大な自然をもあますとこなく浮かびあがらせていく。ここでは長大なマロニ川に沿って、鬱蒼としてどこまで緑が広がっているかのような熱帯雨林が繁茂を遂げており、その様には畏敬の念すら抱くほどだ。そしてその自然は誰も傍観者であることを許しはしない。時折マロニ川は人間に牙を剥き、容赦なしにブーギーたちを飲み込もうともする。そんな危機的状況をも作品には現れるのだ。

ここで少し“マルーン”という人々について紹介しよう。彼らはアフリカからアメリカ大陸に連れて来られ、そして奴隷化された人々である。しかし彼らは逃亡し山中で武装、そこで共同体を築き自給自足の生活を送った。彼らはスリナムや仏領ギアナにも逃げ延びており、資本主義社会から距離を置いて伝統を守りながら、今に至るまで生活をしている。ちなみに彼ら自身は自分たちを“マルーン”ではなく“フィーマン”と呼称している。英語の“freeman 自由の人”が語源だという。ちなみに監督であるTolin Erwin Alexanderもフィーマンの1人だという。

先述した通り彼らはアメリカ大陸全土にそれぞれの共同体を作っており、今作ではそこに広がる日常も描かれていく。例えば彼らにとってはこの地域に多く繁茂するキャッサバという植物が主食であり、それを収穫し料理を作っていく。しかし現在、加速度的に進行する気候変動によって収穫量が減っていっており、それに伴って共同体自体が消えていく状況にある。こうした中で故郷を離れ、自ら資本主義社会に適応し商売を行いながら生活するフィーマンが現れ始めているのだが、その1人が実はブーギーなのである。この活動と同時に彼らは今も存続する共同体を様々な側面から助けているわけだ。このフィーマンと、資本主義流入による影響について、あるインタビュー記事においてAlexander監督は次のように語っている。

“国際的には“マルーン”として知られていますが、私たち自身の言語においては自分たちを“フィーマン”と呼んでいます。その共同体において、ボート商人は伝統的に仲介者と見做されてきました。彼らは共同体で作られたものを、より都市化した沿岸の平野部、つまりプランテーション市場経済が存在する地域へ持ちこんでいました。私たちは今でもこの地域を“bakaakondee 白人の地”か、もしくは“monikondee お金の地”と読んでいます。そして貨物運送が活発化する中、私たちの共同体でも格差が現れるようになりました。ボート商人は裕福となり共同体社会に貢献する代わりに、自身の利益を追求するようになりました。我々の共同体社会においては、自分の所有物をみなと共有しなければ反社会的と見做されます。過去には魔女とすら見做されたんです。スウェリ Sweli という宗教的文化を担う僧侶たちが、亡くなった人々の中でも魔女と見做された人物の所有物を押収するという習慣も現れました。お金の流入による混乱に対する、共同体の反応がこの習慣だったんです”

そしてフィーマンや先住民をめぐる社会問題はこれだけではない。近年勢いを増しているのが金の違法採掘なのである。ラテンアメリカにおける大国ブラジルから採掘者が流入してきており、彼らによって労働力搾取と環境破壊が行われる。貧困に喘ぐ彼らの中には、この搾取を分かっていながら生活費を稼ぐために採掘に従事している者もいる。ブラジル人たちが、川を穢していく……先住民たちのそんな悲痛な歌が、採掘の光景に重なる場面も今作には存在している。

このような複雑な状況が広がっている中で、ブーギーは境界線上の存在として際立つ。彼はスリナムと仏領ギアナの国境に生きると同時に、現地の住民たちに信頼されながらも生きるため採掘者たちにガソリンも売っているしたたかさも持ち合わせている。その様をブーギーは“共犯者”と自嘲したりもする。そして彼からバトンを渡されるように、現地の住民たちもまた自身の人生について次々と語っていくことになる。その言葉からこそ、この地の今が浮かびあがっていく。人だけでなくこの地も境界線上の存在なのである。

私たちは私たちの文化を自分から捨てようとしている、しかし諦めてはいけない!……そんな老婆の言葉が、最後には響く。今作は消えゆくフィーマンや先住民たちの文化や日常を記録し、後世に伝えていく役目を果たさんとしているのだ。そしてそういった大いなる社会的意義に負けない、映画としての豊かさが両立しているのが“Monikondee”というドキュメンタリー映画なのである。