鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

クソったれポリティカル・コレクトネス!というスタンス「クーデター」

ポリティカル・コレクトネス(以下PC)、人種・性別・政治的・社会的に中立であり差別や偏見の含まれない言葉や表現をあらわす言葉だ。最近ではベイマックスマッドマックス 怒りのデス・ロードなど作品にPCが組み込まれていっている現状があり、もう既にPCを突き詰めるとは歴史考証などと同じように映画の完成度を高めることとイコールになってきている。そんな中でジョン・エリック・ドゥードル監督作「クーデター」はその真逆を行く、PCという概念に対するバックラッシュの権化のような作品だ。それでどうかといえば、全くどうしようもない。

水道会社に勤めるジャック(「クアドロフォニア-多重人格殺人-」オーウェン・ウィルソン)はインフラの支援事業のため、東アジアの某国――某国!――へと赴任してくる。妻のアニー(「私にだってなれる!夢のナレーター単願希望」レイク・ベル)や2人の娘ルーシー(ワールド・ウォーZスターリング・ジェリンズ)とビーズ(インセプション」クレア・ギア)も一緒だ。表面上では仲が良いが、しかし故郷から遠く離れた国への旅立ちはアニーを不安にさせ、ジャックもそれに気付いているがあれこれ理由をつけて正当化しようと必死だ。そして某国へと降り立ったジャックたちは気のいいハモンドという男(「ノーマッズ」「ケイト・レディが完璧な理由」ピアース・ブロスナン)と出会い親交を深めるが、同時に不穏な空気をこの地に感じることとなる。そしてその不安は翌朝、最悪の形で現実となってしまう。新聞を買いにでかけたジャックは、警官隊と暴徒の衝突を目撃する。ただならぬ気配にホテルへと逃げ帰るジャックだが、その途中には死体の数々、そして処刑される外国人の姿。「外国人は殺す。捕虜はとらない。皆殺しだ」そんな怒号が轟く中、彼は家族を救うため、暴徒によって蹂躙されたホテルに乗り込むのだったが……

今後の展開へのお膳立ては早めに済ませ、必要最低限だけ家族やクーデターのバックストーリーを挟んだ後、一気にアクションへと雪崩れこむドゥードル監督の手際の良さは確かに相当のものだ。そして理由もロクに明らかにされないまま繰り広げられる虐殺の風景、ただ殺戮のためだけに、最近見かけるようになった走るゾンビの如く全速力で追いかけてくる暴徒の恐ろしさも容赦がない、そして矢継ぎ早に希望と絶望を畳みかけ観客を翻弄していく様は確かに、確かにそこは魅力的と言えるかもしれない、だが「クーデター」においてはそういうサスペンス以前、そもそもの設定に問題がある。

先に暴徒たちの姿をゾンビのようと形容したが、もちろん本当に彼らがゾンビである訳がない。この映画はクーデターが起こったからという理由付けで、東南アジア“某国”の人々をスリルを生み出す殺戮の機械に仕立てあげている。彼らに自分の意思は存在しない、もちろんある程度はその行動やなおざりに放たれるセリフ――彼らも被害者だ!……――から彼らを知ることが出来るが、暴徒の言葉を字幕として表示するかは作り手の判断で勝手に成され、観客と彼らの間には完全な断絶が横たわっている。ブラックホーク・ダウンでもソマリアの人々がゾンビのようだと批判を受けていたが、14年前から1歩たりとも進歩していない。これにそういう要素を求めるのが間違い?だから私はそもそもこの映画の存在意義とは?と言っているのだ。

物語が進むにつれ、一応の良心だったサスペンス要素にも綻びが出てくる。途中、ビルの屋上から隣のビルへと飛び移るシーンがある。ジャックは子供たちを補助するため、まず飛ぶのはアニーだ。「怖い!」「君なら飛べる!」「こんな距離ムリ!」「早く飛ぶんだ!」そして勿体ぶったスローモーションと共に彼女は走り、だが端で急に止まってしまう。「何やってるんだ!」「ダメ、怖い!」この下りが妻、娘2人と続き、3人が渡り終えた後はご丁寧に、順番待ちしていたシャツの男は助走中に銃殺しておく。この下りに顕著だが、つまり女性や子供がとことん足手まといなのだ。悪い意味でのアクションあるあるが延々と繰り返され、2015年でこれか!と暗憺としてくる。

そんな物語に少しでも深みを与えようとドゥードル監督と彼の弟で共同脚本のドリュー・ドゥードルは社会批判を織り込んでみせるが、これがまた浅い。欧米の第三世界に対する搾取について冒頭からこれでもかと匂わせていくのだが、肝心な部分についてはこの時のために出しておいたキャラクターに全てセリフでダラダラと語らせる始末、これで世界に刻み込まれた悪しきシステムを批判しているとでもいうならお笑い草だ。確かに欧米の外部を舞台にすることでこそ切り込める問題もあるにはあるだろう、だがこの映画の刃は病巣にかすってすらいない、ひたすらに鈍い。

そして物語が夜を迎えるにつれ、アクションもスリラーもただただ見にくくなり、どうしようもなく頭を抱えたくなり、最後に露呈するのが余りにも陳腐な家族観だ。父親が先陣をきって道を開く、母親は足手まといになるも助けられ、レイプされかけるも助けられ、夫の心が折れそうになった時には愛していると言い彼を支える、そして娘たちは両親に抱きかかえられ泣きわめき泣きわめき泣きわめき、それでも父親のピンチに力合わせて立ち向かう、そしてああ、少しピリピリしていた家族も仲良し家族に元通り、あなた大好き!お父さん大好き!――誰か私の脳天をブチ抜いてくれ!

「クーデター」は20年前には許されたのだろう稚拙さと配慮のなさに彩られた作品だ。もちろんPCなんかクソ喰らえというスタンスで映画を作ることは作り手の自由だろう。だが私は「クーデター」のような映画を無邪気に楽しもうとは思えないし、完成度を高める努力を放棄している作品を評価する気はない、ただそれだけである。[D-]