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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

ヘンリー・ジャグロム&"A Safe Place"/あの時、私は空を飛んでいた……

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"天才? 詐欺師? 誇大妄想狂? 異端者? ある者たちからは映画の天才、フェミニストアメリカ映画界の純なる異端者と呼ばれる一方、ある者たちからは覗き魔で誇大妄想狂の'世界サイテーの監督'と侮られる。そんな中でこの男は執拗に、執拗なまでに人生と芸術の間に引かれた線を曖昧にし、グチャグチャにしていくのだ" ―― ドキュメンタリー"Who is Henry Jaglom?"のあらすじより抜粋。

Henry Jaglom ヘンリー・ジャグロムという名前に聞き覚えがある人が日本にどれほどいるだろうか。重度のシネフィルを含めても100人は居ないのではないかと邪推してしまうが、斯く言う私も少し前までその名前を全く知らなかった。知ったきっかけは、ひょんなことからJack Nicholson ジャック・ニコルソンの初監督作"Drive, He Said"について調べた時だ。このジャグロムという男はそこに俳優として参加していたが、映画監督でもあるそうで、更に長編デビュー作"A Safe Place""Drive, He Said"とともにCriterionから発売されていることを知り、興味が湧いた。ということで早速今作を観たのだが、本当に度肝を抜かれてしまった。そしてヘンリー・ジャグロムという知られざる映画作家について知りたいと、そう思ったのだ。ということで今回から少しずつ彼の作品を紹介していきたいと思う。

とはいえまずはジャグロムの経歴についてザッと紹介していこう。ジャグロムは1936年、ロンドンのユダヤ人家庭に生まれた。ナチスドイツの侵攻をきっかけに家族とともに英国を離れ、アメリカに移り住んだジャグロムは演技に目覚め、NYのアクターズ・スタジオLee Strasberg リー・ストラスバーグの教えを受ける。しばらくはオフ・ブロードウェイの舞台に立つとともに戯曲の執筆や舞台の演出もこなすが、60年代中盤に転機が起きる。映画スタジオであるコロンビア・ピクチャーズに所属しギジェットは15歳」/ "Gidget"「いたずら天使」/ "The Flying Nun"といったTVドラマの端役を得たり、先日亡くなったRichard Rush リチャード・ラッシュジャック・ニコルソンの嵐の青春」/ "Psych-Out" (1968)や、Boris Sagal ボリス・シーガル空爆特攻隊」/ "The Thousand Plane Raid" (1969)といった作品に出演する。

ここで彼は2人の重要人物と出会う。1人目がジャック・ニコルソンだ。先述の「嵐の青春」でも共演を果たしている彼らは相当意気投合したと思え、ニコルソンはジャグロムを自身の監督デビュー作"Drive, He Said"に起用、逆にジャグロムはニコルソンを自身の監督デビュー作"A Safe Place"に起用する(後者においてニコルソンはギャラの代わりにカラーテレビ一式を買ってもらったらしい)

もう1人がBert Schneider バート・シュナイダーだ。彼の父Abraham Schneider エイブラハム・シュナイダーはコロンビア・ピクチャーズの重鎮であり、そのツテでコロンビアのTV部門であるScreen Gemsに勤務していたが、父とコロンビアの後ろ盾を借りながら、後にアメリカン・ニューシネマの時代の立役者となる映画作家Bob Rafelson ボブ・ラフェルソンとともに制作会社Raybert Productions(後にStephen Blauner スティーヴン・ブローナーが加入しBBS Productionsとなる)を立ち上げる。ここで彼らはTV番組「ザ・モンキーズ・ショー」/ "The Monkees Show"を製作、オーディションで選ばれたメンバーで結成のモンキーズアメリカを風靡することになる。この成功をきっかけに彼らは悲願だった映画製作に乗り出し、シュナイダーが制作、ラフェルソンが監督として「ザ・モンキーズ 恋の合言葉HEAD!」/ "HEAD" (1969)を完成させる。ここで脚本を担当したのが件のニコルソンで、この繋がりからジャグロムはシュナイダーらと関係を深める。

彼らが制作した作品は錚々たるものだ。イージー・ライダー」/ "Easy Rider" (1969)や「ファイブ・イージー・ピーセス」/ "Five Easy Pieces" (1970)、ラスト・ショー」/ "The Last Picture Show" (1971)などアメリカン・ニューシネマの一時代を築いた作品ばかりである。だが1971年には更に2本の、日本での知名度は低いながらも重要作を製作しており、それが"Drive, He Said""A Safe Place"だった訳である。

"A Safe Place"の制作に目を向けていこう。そもそもジャグロムが俳優から映画作家に転身しようと思ったのはFederico Fellini フェデリコ・フェリーニ8 1/2を観たことだったという。彼はインタビューでこんな言葉を残している。

"この映画は私のアイデンティティを変えてしまいました。そして気づいたのは私のやりたいことは映画を作ることだったということです。どんな映画を作りたいのか、私自身の人生です。ある程度までですけどね"

そしてジャグロムはイージー・ライダーの編集作業に参加するなどして制作経験を積んだ後、彼は"A Safe Place"に着手する。彼が題材として選んだのは自身が60年代に執筆した同名戯曲(この時に主役を演じていたのが「ファイブ・イージー・ピーセズ」にも出演していたKaren Black カレン・ブラック)だった。幸運だったのは、ジャグロムはある大物俳優を作品に起用できたことだ。それがOrson Welles オーソン・ウェルズである。かつては天才の名を恣にしながらも、徐々にその傲慢さを疎まれアメリカでは映画制作すら叶わない状況にあり、同時にアメリカン・ニューシネマ世代の若者たちからも旧時代の遺物として扱われていた。そんな彼をジャグロムは起用、そして彼らの友情は1985年のウェルズの死まで続く。ちなみに彼らは定期的に食事を共にし、特に1983年から1985年までは毎週ハリウッドのレストランMa Maisonで食事会を行っていたそうだが、自伝を執筆するためその時交わした会話をテープレコーダーに録音していたのだという。これが後の2013年にジャグロムと、日本でもその著作を基にしたドキュメンタリー作品イージー・ライダーレイジング・ブル」/ "Easy Riders, Raging Bulls" (2003)が有名なPeter Biskind ピーター・ビスキンド共同編著の"My Lunches With Orson"として結実する。いや、長々と制作裏について語りすぎたかもしれない。ここからは映画のレビューに入っていこう。

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子供の頃に空を飛ぶ夢を見たことがないだろうか。窓枠に座って、木の枝まで登ってから、屋根から星を眺めながら、手を伸ばして身体を宙に委ねるのだ。そして鳥のように羽ばたいて自由に空を飛んでいく。実際人間にそんなことできないとしても、夢のなかでなら全てが可能だ、私たちだって飛べるのだ。大人になってから、そんな夢を、そんな子供時代を懐かしく思ったことは? あの時代に戻りたいと思ったことは? そしてもしかしたらあの日夢見ていたことが、もしかしたら現実だと思ったことは?……

"A Safe Place"の主人公はノア(Tuesday Weld チューズデイ・ウェルド)という女性だ。奇抜な恰好をして、同じような風貌の若者たちとマリファナ片手に共同生活を行う、そんな典型的なヒッピーといった風の女性だ。だが彼女は満たされない虚無感を抱えている、彼女は今は失われてしまった"心安らげる場所"を探し続けている、そして本当はそれがどこにあるのだかも分かっている。

今作において際立つのは極端なまでの語りの断片性である。ノアが部屋で仲間たちとくつろぐ、窓から見知らぬ老人がマジックを披露する姿を眺める、ニューヨークの街並を彷徨いながら会話を繰り広げられる。そういった風景の数々がバラバラに引き裂かれて、一貫性というものを拒否しながら浮かんでは消えていく。そしてある人物が喋っている場面に、何故だか全く別の場所にいる、話とも関係ない人物たちが見ている風景が、まるでサブリミナル映像さながら瞬間的に挿入される。その錯綜ぶりは、わざと観客を混乱させたいがためすら思える。こうして私たちは極彩色の万華鏡を覗き込んでいるような錯覚に陥る。

こういった意味でPieter Bergema ピーテル・ベルヘマが手掛けた編集は凄まじく支離滅裂なのだが、これは全く意図的なものだろう。今作は例えばジャック・ニコルソンの嵐の青春」イージー・ライダーなどLSD的な錯乱を映画文法として組み込んだ作品の意志を継いでいる。特に後者の影響は大きい。繰り返しになるが、2作はボブ・ラフェルソンバート・シュナイダーが設立した制作会社BBS Productionsの作品であり、更に監督のジャグロムは編集アシスタントをしていた。監督とベルヘマはこの編集法を継承し、今作を作りあげた訳である。

ノアの前には2人の青年が現れる。フレッド(Phil Proctor フィル・プロクター)は眼鏡が特徴的な真面目青年であり、ぎこちない愛の言葉で以てノアと交流を深めていく。一方でミッチ(ジャック・ニコルソン)はプレイボーイといった洒脱な男であり、すぐさまノアの懐に滑りこみ肌を重ねるようになる。ノアはこの2人のあわいを妖精さながら自由に行きかう。だがそこに"心安らげる場所"はない。ある時、ノアはフレッドに語る。子供の頃、私は空を飛んでいたの、本当に空を飛んでいた。それはただの勘違いだよ、フレッドは彼女の言葉をこともなく否定する。ノアは必死に言い返しながら、フレッドが彼女を信じることはない。

もう1人重要な人物がいる。彼女が窓から見かけた老マジシャン(オーソン・ウェルズ)だ。そのマジックに惹かれたノアは彼と交流を始め、様々な事柄について会話を重ねていく。披露されるマジックのこと、子供時代のこと、いつか見た夢のこと、そして自分が空を本当に飛んでいたこと。はたから見れば、彼との会話にこそノアは心地よさや暖かさというものを最も感じているように思われる。その時に浮かべるノアの笑顔が最も柔らかなものに思われる。

ここでジャグロムが見据えるのはノアの内面そのものだ。彼女は今の自分の話よりも、自身の子供時代の話を誰に対しても繰り返す。この反復が仄めかすのはノアの心がもはや今にはないということだ。彼女はもはや失われてしまった過去への郷愁に浸っている、もしくは支配されている。そして"心安らげる場所"とはこの過去でしかないことを知っているのだ。

この思いを最も色濃く反映するのが劇中で流れる音楽の数々だ。例えばFred Astaire フレッド・アステア歌唱の"I'm Old-Fashioned"Dina Shore ダイナ・ショア版の"Someone to Watch Over Me"など特に40-50年代の楽曲が多用される。中でもCharles Trenet シャルル・トレネ"La Mer"は印象的な冒頭を含め、全編通じて何度も何度も流れる。その反復と甘やかな響きはノアが抱く郷愁そのものだ。彼女はそこから逃れられないし、逃れようともしない。

"心安らげる場所"が過去でしかないのなら、そこへ行くには何をすればいいのか、誰もが分かっているだろう。根づいた今という時間から生を断ち切るには死しかない。だからこそ郷愁は暖かな陽射しの下で死への欲望、自らを殺す欲望へと変貌していく。今作は死の匂いを濃厚に帯び始めるのだ。そしてこの衝動に少しずつ突き動かされていくのはノアだけではない。他の登場人物たちもまた死に惹きつけられ、ある者は友人たちの前で涙を流しながら、自殺に魅入られる自分を語るのだ。

今作では俳優たちもまた支離滅裂なまでに特徴的な演出に負けない演技を魅せてくれる。まず途方もなく鷹揚たる存在感を発揮するのが老マジシャン役のオーソン・ウェルズだ。ハッキリ言うが私は俳優としての彼はまったく評価していない。特にリチャード・フライシャー「強迫/ロープ殺人事件」/ "Compulsion" (1959)といった作品の彼には落胆しかなかった。だが今作で俳優としてのウェルズを初めて良いと思った。マジシャンという彼のもう1つの顔は何度も映画に現れてきたが、ここに映る髭面の壮大な巨体は威厳よりも、全てを抱擁する優しさを湛えている。それでいて彼が披露するマジックはノアを過去へ、郷愁へ、死へ更に深く誘うもので在り得る。これはウェルズの佇まいがあまりにも優しすぎるからだ、誰かが死を求める思いすらも肯定してしまうかのように。

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だが最も印象的なのはチューズデイ・ウェルドに他ならない。妖精さながら街を自由に彷徨いながらも、その実"心安らげる場所"=死を求め、それでも躊躇いを放棄できないでいる。身振り、視線、笑顔、その全てが仄かに儚げな輝きを放ち、それこそ次の瞬間に自殺でもしてしまうのでは?という思いに観客は駆られるが、死ぬことはない、死ぬことはできない。ウェルドが体現するこの危うさは俳優として神懸かり的なもので、間違いなく正に今作の要だ。個人的に彼女の最高傑作は1972年制作の"Play It As It Lays"だと思っていたが、今作はそれを越える作品と思えた。

スタッフたちについても少し書いていこう。撮影監督のRichard C. Kratina リチャード・C・クラティナある愛の詩」/ "Love Story" (1970)や「生き残るヤツ」/ "Born to Win" (1971)などを手掛けた人物だが、今作の詩情の核たる編集をその美麗な映像で支えている。プロダクション・デザインは先述の制作バート・シュナイダーの弟であるHarold Schneider ハロルド・シュナイダーが担当している。衣装のBarbara Flood バーバラ・フラッドはジャグロムの友人の1人で、今後も様々な形で彼の作品に関わっていく。

だが最も興味深いキャリアを持つ人物は編集のピーテル・ベルヘマだ。彼は1932年生まれのオランダ人で、20代でアメリカ移住後に「コンバット!」などのドラマ作品にエキストラとして出演している。この後、彼は"A Safe Place"に編集として参加し偉大な結果を残してくれるが、この後には2本の作品しか残していない一方で、この2本が頗る注目に値する。1本目の"Max Havelaar of de koffieveilingen der Nederlandsche handelsmaatschappij" (1976)は題名からして物々しいが、それに負けない3時間もの長さを持つオランダ映画だ。オランダ占領下のインドネシアに派遣された1人の軍人が、会心の後にインドネシアのため立ちあがるという物語で、ムルタトゥーリという小説家によって書かれた同名長編を原作としている(「マックス・ハーフェラール―もしくはオランダ商事会社のコーヒー競売」という邦題で翻訳も発売)そして監督のFons Rademakers フォンス・ラデマーカースは戦後オランダ映画の基礎を築いた最も有名なオランダ人監督の1人であり、彼が制作した最大規模の1作がこの"Max Havelaar"だ。そんな"A Safe Place"の真逆にあるような大作をベルヘマは2作目として担当した(Victorine H. van den Heuvel ヴィクトリーネ・H・ファン・デン・ウーフェルと共同)訳でその経緯に興味がつきないが、英語もしくは彼の母語であるオランダ語でも情報が全くない。

そして2作目はある意味で更に奇妙だ。1986年制作の「ザ★ジャスティス/復讐の銃弾」 / "Instant Justice" (1986)はスペインへ妹に会いにやってきた海軍兵士がその死を知り復讐を始めるというあらすじ、主演はMichael Paré マイケル・パレと一見凡庸なアメリカ産B級アクションに見える。だが注目すべき今作がジブラルタル映画だということだ。イベリア半島の南東端に位置するイギリスの海外領土で、未だにイギリスとスペイン間で領土問題として論争されるという複雑な地域がその資本で、しかも初めて作った作品のが本作なのだ。そんな映画史の影に隠れた特異点にベルヘマは編集として、更にはプロデューサーとしても関わっているのだ。だがこれ以後彼の消息は全く不明で、本当に謎ばかりが残る経歴と言わざるを得ない。少しこの謎すぎる人物にアツくなりすぎただろうか、本筋に戻ろう。

実際、私はこの作品を観た時、本当に衝撃を受けてしまった。映画批評家として数多くの映画を観てきた自覚はありながら、何かこんなにも切ない映画が存在すること、本当に衝撃的だったのだ、ほんの数時間前までこの映画の存在を知らなかったことも含めて。呆然としながら、こんな映画が存在してしまっているという奇跡はあまりに残酷すぎる、そう思えた。そこで冒頭の風景が頭に浮かぶ。老マジシャンがノアに語るのは自身が見た夢についてだ。夢のなかで彼は眠り、夢を見ている。夢を見る夢を見る夢を見る夢を……その様は無限の迷宮のなかでどこへも辿り着けない切なさがあり、ノアは正にそこにいる、そこから突き抜ける唯一の手段として自殺が存在するのだ。この映画は恐ろしい、これを観終わった後本当に自殺する人間が現れるのではないかと私は本気で感じるのだ。それほど今作の強度が凄まじいということだが、ならこんな映画が本当に、本当に存在していいのか? 私にはまだ分からない。

あの時、私は空を飛べた、本当に空を飛んでいたんだ。失われた子供時代への郷愁に囚われ心は今にいないのに、どうして"私"は今を生きているの。消えよう、消えていこう、心安らげる場所へ……

1971年に"A Safe Place"は完成し、ニューヨーク映画祭でプレミア上映が成された訳だが、その前衛的な作風からそこでの評価は絶賛と非難に激しく二分されたという。批評家たちの多くは非難する一方で、熱狂的なファンも存在し、その中の1人があの小説家Anaïs Nin アナイス・ニンだった。このレビュー記事において彼女はこう書き記している。

"'A Safe Place'が語るのは、夢を共有することのできない私たち自身の無能さが孤独を生み出すということだ。この作品を理解できない人々は自分自身、そして他者さえも非存在の安全地帯へと追いこんでいくだろう。ここにおいて本物のマジシャンはヘンリー・ジャグロムだ。何故なら彼こそが、私たちの空想を初めてフィルムの上に解き放ってくれたのだから"

相当な絶賛ぶりである。そして彼女はアメリカ各地の大学で女性学の講義を行う際、今作の16mmフィルムを担いでいき生徒たちに見せていたという逸話もある。そんな熱狂も虚しく、"A Safe Place"は他のアメリカン・ニューシネマ作品のように注目を浴びることはなく歴史の埃に埋もれることになった。だがジャグロムは全くへこたれることなく映画製作を続け、40年間で20本以上の作品を製作することになる。更に2010年代に差し掛かる頃、とうとう"A Safe Place"は映画史の闇から救いあげられ、Criterionからソフトが発売されるという名誉に浴することになった。ということで今回からヘンリー・ジャグロムというアメリカの知られざる映画監督についてしばらく追っていきたい。ぜひこれからも記事を読んでくれれば幸いである。

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