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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Radu Jude&"Toată lumea din familia noastră"/黙って俺に娘を渡しやがれ!

Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
ラドゥ・ジュデの経歴及び"Aferim!"のレビューはこちら参照。

親と子の関係性という奴は良くも悪くも面倒臭い代物だ。血を分けているという事実が人間の心を変容させて、密接な繋がりを生み出すかと思えば、地獄のような憎しみを作り上げることもある。だから物語には格好のテーマとなる、手を変え品を変え、世界が終わりを告げるまでこの関係はネタにされるだろう。そんな中で「シエラネバダ「トレジャー オトナたちの贈り物。」など今アツい親子映画を作っているルーマニアから、またもスゴいインパクトの親子映画が現れた。ということで今回はルーマニア映画界における新世代トップランナーであるラドゥ・ジュデ Radu Jude監督による親子映画“Toată lumea din familia noastră"を紹介していこう。

今作の主人公であるマリウス(「日本からの贈り物」Șerban Pavlu シェルバン・パヴル)は離婚したばかりの中年男性、彼は散らかりまくった部屋で凄まじく孤独な日々を過ごしていた。だが今日は違う、何故なら妻オティリア(Mihaela Sîrbu)と住んでいる娘のソフィア(Sofia Nicolaescu)とお出かけできるから! 彼は身なりを整え、娘へのプレゼントに買った大きな人形を脇に抱えて、彼女の元へと飛んでいく。

“Toată lumea din familia noastră"は親と子というままならない繋がりを描き出す作品なのだが、その片鱗は冒頭から顔を出す。まずマリウスは車を借りに両親の所へと赴く。会うのは久し振りらしく息子の来訪にとても喜びながら、マリウス自身は超超超娘に会いたいので彼らを邪険に扱う。その露骨な態度に父親の怒りが爆発、親不孝者がと彼をなじりまくり、売り言葉に買い言葉とマリウスもボカスカ罵倒を投げまくる。思わず目の前の光景から顔を背けたくなるほどの修羅場が繰り広げられるが、ここはまだ序の口も序の口、地獄はこの先にこそ存在する。

何とか車を借りることの出来たマリウスは、一路ソフィアの住むアパートへと向かう。彼女はオティリアの他に、祖母であるコカ(Tamara Buciuceanu-Botez)と継父のアウレル("Hârtia va fi albastră"Gabriel Spahiu)と共に暮らしていた。彼らへの挨拶もそこそこに、マリウスはソフィアとの再会を果たし、黒海へのバカンスへ出掛けようとするのだが、彼女は高熱が出ているらしく今日のお出掛けは無理だとアウレルらに突っぱねられる。もちろん承知など出来る訳がないマリウスは何とかしてソフィアを外に連れだそうとするのだったが……

ジュデと撮影監督のアンドレイ・ブティカ Andrei Butică(「ラザレスク氏の最期」などなど担当の名カメラマン)はそんなマリウスの苦闘を手振れカメラの生々しい震えと共に追っていく。最初はココたちに礼儀正しく接して良い顔を見せ、ソフィアには可愛い可愛いカボチャちゃ〜〜〜〜んと猫撫で声を響かせる。彼女がプレゼントの包装紙をビリビリに破ったり、黒猫のタンゴを歌ってくれるのを見るたび、頬を餅のように綻ばせるのだが、お出掛け無理を通達されると態度は一変する。忙しなく部屋と部屋を行き交いながら、当惑からへつらい、驚きから怒りと表情を目まぐるしく変えながら、いやそれは無いでしょ?とアウレルたちに詰め寄る。そして部屋にはピリピリとした緊張感が張り詰めだし、カメラには感情のピアノ線が浮かび上がる。

そういった意味で、今作におけるもう1人の主人公は部屋という空間とも言えるかもしれない。まずバツイチの惨めさがこれでもかと反映されたマリウスの汚部屋、彼の両親が住むアパートの一室、そしてラスボスさながら現れるオティリアの部屋、それらは何よりも雄弁にルーマニアの日常/現在を語っている。日本と比べれば広いながら妙に狭苦しさが際立つ空間性に、ベランダに子供部屋に在宅ワーク用オフィスにと全容が良く掴めない間取り……ルーマニアに広がる生活という物が気になる方(つまりは私)にはこれくらい資料価値の高い映像はないだろうというくらい、今作では部屋という空間の存在感がデカい。

だがジュデ監督は更にディテールを詰めまくる。私たちはこの部屋において生活感が染みついた小物の数々を目の当たりにするだろう。リビングに置かれたアシカだかアザラシだかのデカい写真、色褪せた貴婦人がそれでも麗しくポーズを取っているとそんな柄の壁紙、日本と違って容器がプラスチックで飲み口が丸い“zuruzuru”という銘柄の牛乳、プレゼント用にソフィアの名前が書かれた可愛いタコ型人形(欧米ではイカやタコの軟体動物は忌み嫌われる存在と聞くので意外)、ソフィアが丹精込めて作ったのが分かる段ボールハウス、その全てから愛しい日常の息遣いが聞こえてくるが、物語が進むにつれこのディテールの細かさが持つ別の側面を私たちはこれでもかと叩きつけられる。

マリウスがアウレル相手にごねまくり、あまつさえソフィアを誘拐まがいに連れ去ろうとする頃、とうとう件のオティリアが映画に登場する。娘をバカンスに連れていきたいというマリウスの願いに対して、彼女の反応はもちろん“コイツ何言ってんだ?”というものだ。それでも引かないマリウスはオティリアと大激突、先の親子喧嘩を凌駕するほどの超絶大喧嘩が幕を開けることになる。ここから物語は正に地獄としか言い様のない様相を呈する。唇からは唾と激情でコーティングされた罵詈雑言の数々が二人から飛び交い、かつては愛しあっていた筈の元夫婦が言葉という名の鈍器でブン殴りあう。そして叫びと憤怒を全身からブチ撒きながら、マリウスは間取りの良く分からない、もはや迷宮のようにすら見える部屋内を巡り、凄まじい勢いで破壊していく。娘は俺のものだ!クソッタレのお前らには指一本触れさせてたまるか!

そんな憤怒の神と化すマリウスを演じるシェルバン・パヴルは正に一世一大としか言い様のない狂演を見せてくれる。最初は何処にでもいそうなオッサンという佇まいだが、それでもTシャツ姿に浮かぶ筋肉の隆起は結構ヤバげな雰囲気を醸し出していたが、それが完全に解き放たれる後半は怖すぎるやら笑えるやら、”なりふり構わない”という言葉の意味を観客の頭でなく心に刻みつける力に満ち溢れている。彼は今作でゴーポ賞(ルーマニアアカデミー賞)の主演男優賞を獲得、更にこの映画自体が作品賞を含めた6部門を制覇するという偉業を成し遂げるが、パヴルの存在なしにこれを達成することが出来なかっただろう。

だが本当の意味で今作の中心にいるのはSofia Nicolaescuが演じる娘のソフィアだ。彼女をめぐる家庭内闘争は、誰もがこうならないとは言い切れない親という名の愛の変容を、それでいてその根底には子供だとかは関係なしに自分の思いだけが充足されることを望む人間存在の永久不変なるエゴをこれでもかと露にする。そして否応なくこの闘争に巻き込まれ疲弊していくソフィアの姿には、ルーマニアの反哲学者エミール・シオランの警句が浮かぶ。"二十歳になる前、私に理解できたと誇れる唯一のことは、子供をつくってはならないということだった。両親とは、いずれも無責任な者か人殺しだ。畜生だけが子供つくりにいそしむべきだろう。同情心があれば、私たちは「人の親」にはなれまい。「人の親」、私の知るもっともむごい言葉"

ここからはこぼれ話である。今作には何だか妙な日本描写がチラホラ見られる。ある時マリウスはソフィアをバカンスに連れていきたいと説得する中こんな言葉を呟く。“日本の俳句にこんなものがある。“愛する子供が居なければ、桜の花にも真実は宿らない”” そんなインテリめいた物言いの中に”だから娘を連れていかせろ、ついでに親権もよこせ!”という心の叫びが滲んでいってケッサクだが、実際にこんな俳句はあるんだろうか。私は知らないので、もし読者に知ってるという方がいれば教えてくれれば幸いだ。更に今作ではあの有名な“黒ネコのタンゴ”が流れるのだが、何故かそれが日本語版なのである。黒ネコのタンゴ、タンゴ、ぼくのこいびーとは黒いネコーというあの可愛い声が本当に流れる。さすがに爆笑しましたよこれは。更に先述したシェルバン・パヴルはこの作品の後、“Câinele japonez” aka「日本からの贈り物」(ちなみに原題の意味は"日本の犬")という映画に出演、日本人女性と結婚した後に父親が住む故郷へと戻ってくる息子役を演じているのだ。日本と変な縁があるなあという感じだが、今後とも日本との変な絆を保ってもらいたい物である。