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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Paul Negoescu&"Două lozuri"/町が朽ち お金は無くなり 年も取り

Paul Negoescu&"O lună în Thailandă"/今の幸せと、ありえたかもしれない幸せと
Paul Negoescuの略歴及び彼のデビュー長編についてはこちら参照

コルネリユ・ポルンボユクリスティ・プイウクリスティアン・ムンジウの台頭によってルーマニアが映画界の最先端をひた走り始めた頃、遠きアメリカではマンブルコアというムーブメントが形を成し始めていた……という下りで始まる記事は昔、ラドゥー・ムンテアンの“Boogie”についてのレビューを記す時に書いた。なので今度は別の観点から攻めよう。

ルーマニアの新たなる波”が勃興を遂げる頃、アメリカのコメディ界で猛威を振るっていた存在が、ジャド・アパトーを筆頭とするアパトーギャングだった。もうコイツらについては詳しく語りたくないので、このゼロ年代アメコメ映画批評的な記事である「スモーキング・ハイ」「ロード・オブ・クエスト」&「ピンチ・シッター」批判記事の2本を読んで欲しい。まあ一言で言うなら、この年代のアメコメは“アイツはマジで親友だよ。だってアイツの連れてきた女が俺にフェラしてくれたんだもん!”的なホモソ最高性差別的価値観が鼻につきまくるから嫌いだって訳だ。今回はそういったホモソ・アメコメをルーマニア映画として脱構築したような一作であるPaul Negoescu監督作“Două lozuri”を紹介していきたいと思う、こっちは面白いので安心してください。

ルーマニアのうらぶれた田舎町、ここに住む中年男性ディオネル(Dorian Boguţă ドリアン・ボグツァ)が今作の主人公だ。経済状況が芳しくない故に愛する妻はイタリアの出稼ぎ中で寂しい限り、向こうでリッチな男を見つけてしまうのではないかと気を揉み続けている。ああお金があれば彼女とまた一緒に暮らせるのに……そんな思いで何気なく買った宝くじが600万ユーロの超大当たり!それに喜んだのも束の間、チンピラに因縁をつけられたディオレルはくじの入ったバッグを奪われてしまう

という所でブロマンス・コメディには欠かせない男友達にご登場してもらおう。まず1人がヴァシレ(「不倫休暇」ドラゴシュ・ブクル)、彼は仕事もそこそこに、午後から行きつけの酒場でビールを呑みながら、サッカー賭博に精を出すギャンブル野郎だ。そしてもう1人はポンピリユ("Marfa și banii"アレクサンドル・パパドポル)、退屈な書類仕事の後やはり酒場にやってきて皆に陰謀論を語る変人だ。3人はやることもないので午後中ずっと酒ばっか呑んでる訳だが、その最中に買った宝くじが大当たりという訳である。そうしてディオネルは億万長者の夢を懸けて、彼らと共にチンピラを探しに出掛ける。

“Două lozuri”の序盤はオッサンたちの惨めな日常コメディといった風だが、宝くじを巡る中盤からは何だか可笑しな探偵物語へと姿を変える。自分が住むアパートでカツアゲに遭った事実から、ディオネルたちはアパートの住民たちにチンピラの目撃情報を聞いていくのだが、住民たちはどこか変な奴らばかりだ。脳髄が蕩けて会話が支離滅裂なヤクの売人たち(with 何か良く分かんない物から作られた何らかの食べ物)に、未来予知から呪いまで何でもござれという占い師家族……

こういった変人キャラが醸し出す笑いも良いのだが、今作の笑いの源は登場人物と作り手の絶妙な距離感にある。Ana Draghiciのカメラは常に被写体と距離を保ったまま、ガッチリと腰を据えて目前の光景を観察する。設えられた美術が醸し出す生々しい生活臭と相まって、カメラには行動や表情以上に空気感というべき代物(スゲーギスギスしてる)が切り取られていく。前作“O lună în Thailanda”の撮影も観察的だったがあちらがクリスティ・プイウを思わす亡霊さながらの感触を持っていた一方、こちらにはコルネリユ・ポルンボユ作品(「トレジャー オトナたちの贈り物。」を思い出して欲しい)のジトジトした視線が感じられる。その手法は観客に、何でか口角が上がってきちゃうといったオフビートな笑いを届けることとなる。

しかし前半は笑いに満ち足りながら、後半からは少しずつ毛色が違ってくる。ディオネルたちが町中を駆け回る最中、ふとした瞬間に町を映し出すロングショットが挿入される時がある。のほほんとした田舎町の風景といった感じで微笑ましさも感じながら、看板が錆びついた映画館や明らかに活気を失ったホテルの外観、虚しくクレーンが動く工場などが現れるのだ。かつてはこの地も少しは栄えた地域なのだろう。その名残は伺えながら既に栄華は存在しないと、ショットの数々にはそんな地方都市の寂しい現状が滲んでいる。例えばアメリカにおけるデトロイトのあの光景がそうであるように。

私たちがそういった思いを抱いたのを見計らったかのように、ディオネルたちの目的地はこの町から遠く離れたブカレストとなる。ブカレストルーマニアの首都であり、日本の東京的な立ち位置としてこの国の最先端として君臨している訳だが、だからこそここを終着点とした旅路にはディオネルたちを含めた周縁に生きる者たちの曰く言い難い辛みが浮かび上がる。旅を経るにつれ、大富豪となるはずの彼らはガソリン代やら何やらで見る間にジリ貧になっていく。更にヒッチハイクで乗ってきた少女は、あんな寂れた町ウンザリ!とブカレストへ歌手になりに上京しに行くらしいが、彼女の辿る顛末は衰退しゆく地方都市の、呪いのような存在感を象徴的に見せつける。

そんな中でポンピリユが口にする言葉が印象的だ。彼は今のルーマニア映画がクソだと扱き下ろすのだが、その理由は“ルーマニアにはあんなに美しい風景が広がっているのに陰鬱で厭な映画しか作らねえ”かららしい。かなり自虐的な物言いなのは言うまでもないが、更に彼は音楽についても今はクソだと罵るのを止めない。これは“昔は良かったのに、今は……”という典型的な物言いな訳だが、今作の場合それは有害な懐古趣味以上の意味を持つ、つまりここには内省があるのだ。そうなんだよ、まだ三十代くらいで“昔は良かった”って言うのは惨め以外の何物でもねえよ、でもこの状況見てみろよ、こんなクソみたいな状況じゃ昔懐かしんでなきゃやってらんねぇよ……

“Două lozuri”はオフビートな笑いに彩られながらも、根底にあるのは生温いドン詰まりの感覚だ。前作“”もそうだったが、Negrescuの作品の登場人物たちは現状を幸せと思うにしろ不幸だと思うにしろ“自分の人生こんなはずじゃなかった、もっと幸せな人生歩めてたはずなのに……”という後悔から逃れられないでいる。今回はそれを笑いでコーティングしながらも、前作と同じくその絶望感は深い。それでも彼らの珍道中には奇妙な笑みが、神が思いがけなく人々に投げかける喜びに溢れている。だからこそ“”は私たちに、自分の中にある後悔を認めながらも日々を明るく生きていこうという勇気をくれるのだ。

ところで今作の原作はI.L.カラジャーレという劇作家なのであるが、彼はルーマニア演劇界を代表する人物であり、19世紀後半に活躍していた。自分の買ったルーマニア語勉強本には3冊中2冊にその名前が出てくるほどだ。彼の作品はいくつも映画として翻案されているのだが、この映画の原作は過去にも映画化済み、今作は舞台を現代のルーマニアに移し変えた2度目の映画化作品だそうだ。ゆえにルーマニアの今を映し出しながら同時に普遍的な物語としても読めるという強度が備わったというべきかもしれない。

そしてもう1つ注目すべきなのは、同時期に公開されたAndrei Cohn監督作“Acasă la tata”との共通点である。本作は小説家である主人公が故郷の田舎町へと戻ってきて、親や幼馴染みと再会したことから起きるちょっとした騒動を描き出した作品だ。これもある意味で上述のホモソ・アメコメの再解釈と読むことができる作品で、主人公は再会した男友達と「スモーキング・ハイ」ジェームズ・フランコセス・ローゲンみたいなミソジニー連発の会話を繰り広げるのだ、その後にはもう1人の幼馴染みである女性を交えてもっとイヤーな展開になったりする。撮影や物語のリズムなど良い部分も多いが、このホモソ感覚がキツすぎてレビュー記事を書く気にならなかったのだ。今作にもそのホモソ感覚がちょっとあるのだが、地方都市の悲しみやドン詰まりっぷりによってそれが薄まっていて、且つ内省を感じられるのだ。

だが2作にはそれ以上の共通点があるのだ。ルーマニアの新たなる波の幕開けとして2002年に“Marfa și banii”という作品が現れた。これはルーマニア映画界の巨人クリスティ・プイウの初長編であり、ルーマニアの田舎町に住む青年が友人やその恋人と共に、大金のため謎の荷物をブカレストにまで届けるという物語だ。この青年役はアレクサンドル・パパドポルが、友人役はドラゴシュ・ブクルが演じている。つまり“Două lozuri”は2人のリユニオン映画な訳だ。“Marfa și banii”の後ヤバいことになった彼らがずっと故郷で燻り続けていた末の“Două lozuri”という続編的な見方が出来たりする。更に先述した“Marfa și banii”のブクルの恋人役を演じるIoana Flora ヨアナ・フロラ“Acasă la tata”で幼馴染みの女性役を演じ、パパドポルと良い感じになる。これもある意味で続編的な立場にあるのだ。という訳で2作はアメコメに見られたホモソ感覚を濃厚に反映したーー無批判にしろ内省的にしろーー作品であり、同時に"Marfa și banii"の続編的な作品であるという大きな共通点がある。どちらかに軍配を上げるなら、まあ“Două lozuri”だろう。上にも書いた衰退の感覚やカラジャーレの原作の巧みな翻案で、なかなかの力作が出来上がったと言っていいだろう。みんな観るならこっちの作品を観るべきだ、絶対に。

ルーマニア映画界を旅する
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その2 Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
その3 Corneliu Porumboiu & "Când se lasă seara peste Bucureşti sau Metabolism"/監督と女優、虚構と真実
その4 Corneliu Porumboiu &"Comoara"/ルーマニア、お宝探して掘れよ掘れ掘れ
その5 Andrei Ujică&"Autobiografia lui Nicolae Ceausescu"/チャウシェスクとは一体何者だったのか?
その6 イリンカ・カルガレアヌ&「チャック・ノリスVS共産主義」/チャック・ノリスはルーマニアを救う!
その7 トゥドール・クリスチャン・ジュルギウ&「日本からの贈り物」/父と息子、ルーマニアと日本
その8 クリスティ・プイウ&"Marfa şi Banii"/ルーマニアの新たなる波、その起源
その9 クリスティ・プイウ&「ラザレスク氏の最期」/それは命の終りであり、世界の終りであり
その10 ラドゥー・ムンテアン&"Hîrtia va fi albastrã"/革命前夜、闇の中で踏み躙られる者たち
その11 ラドゥー・ムンテアン&"Boogie"/大人になれない、子供でもいられない
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その13 クリスティ・プイウ&"Aurora"/ある平凡な殺人者についての記録
その14 Radu Jude&"Toată lumea din familia noastră"/黙って俺に娘を渡しやがれ!
その15 Paul Negoescu&"O lună în Thailandă"/今の幸せと、ありえたかもしれない幸せと