セガールへの無知より来たる偏見を啓いて欲しい。
このレビューを執筆するにあたって、念頭に置いた唯一の思いである。
貴方はセガールがテロリストばかりを殲滅していると誤解してはいないだろうか?
貴方はセガールが沈黙シリーズにしか主演してないとでも思ってはいないだろうか?
貴方は主演スティーブン・セガールだからと言って、嘲りの一笑に伏し、自ら無知を指向してはいないだろうか?
もちろん沈黙シリーズ――たとえば「沈黙の断崖」「沈黙の鎮魂歌」――や、漢字2文字+ローマ字シリーズ――たとえば「電撃 DENGEKI〜今、殴りに行きます〜」「斬撃 ZANGEKI」――などを見た上で、セガール映画はつまらないと仰るのは自由だ。むしろ『つまんねぇ……』とは心に抱きながら、何本も見てくれたその御厚意に感謝したい所存だ。
だが1,2本の鑑賞、もしくは1本たりとも鑑賞無しに、セガール映画は詰まらない、セガールただのデブだのに無敵すぎる、と揶揄する者がいる。それは如何ともし難いことだ。許せない。己の無知を棚に上げ、周りが言うから、ネットの意見を見たから、それに同調して心無い批判が生まれる。そしてそれらが膨張して。セガール好きでさえも沈黙を強いられる、世に言う“沈黙の螺旋”が形成されてゆくのだ。それだけは避けなければならないだろう。
上記の理由から、私はこのレビューを記す。稀代のアクションスターであるスティーヴ・セガール&オランダが現出せしめた傑物ロエル・レイネの「弾突 DANTOTSU」のレビューを記す。
私がただ一つ断言できること、それはセガール映画は面白いということだけである。
セガールは離婚、酒への耽溺、ギャンブル狂いで頽廃した生活を送りながら、更には警察の職を冤罪によって失い、正にどん底の状態だ。しかしある日、彼は謎の男ブルーに導かれ、ザ・オールドマン(ランス・ヘンリクセン)と出会う。彼はセガールに対し、借金を帳消しにする代わり、とある男たちを暗殺するよう依頼される。これをきっかけに、マットは暗殺者“ゴースト”としての冷徹な殺意を目覚めさせることを強いられる……
ストーリーラインを簡潔に示すならばこうだろう。お判りの通り戦う相手も裏社会の人間であり、テロリストではない。そもそもその誤解は「沈黙の戦艦」の印象が強すぎる、もしくは全く直截な「沈黙のテロリスト」(デニス・ホッパーが爆弾魔を狂演!)の存在に起因する物だろうと思われる。
そして今回セガールはコックではない、元刑事の暗殺者“ゴースト”である。重量も感じさせず変幻自在に現れたかと思えば、静謐を以てターゲットを暗殺する凄腕のアサシンという訳だ。だがそれではせっかくのセガール拳が見れないのでは?そのような心配を抱く方もおられるかもしれない。だがそれは全くの杞憂だ。
上述の設定は、セガールの行動からは全く感じられない。むしろレストランの真っ只中で部下をブチ殺すついでにターゲットをブチ殺す大胆さ、アジトに攻め入り雑魚集団を麻雀をひっくり返しながら鉄拳の元に捻じ伏せる、その姿は正に鬼神か修羅、ドタドタバタバタこの上ない。お膳立てされた設定を踏み躙ってまでも、そのアクションを魅せる、この作品におけるサービス精神は、釈由美子をも超える(だがセガールが毎回そうである訳ではない。ミヒャエル・ケウシュ無間地獄三部作「沈黙の奪還」「沈黙のステルス」「沈黙の激突」を見よ)
そしてその暗殺劇の合間に挿まれる人間ドラマ、これも「弾突 DANTOTSU」の魅力と言えよう。人間のクズにまで堕ちたセガールを今でも愛し続けるのが娘のベッキーだ。暗殺者として殺意をギラつかせるセガールにとって、安らぎと成り得るのは彼女しかいない。水族館における二人の、何気なく素朴な会話は悲哀を誘う。水槽に広がる清冽な青の色彩を背景として、分たれねばならなかった二人、紡がれる一つ一つの言葉が哀しみを湛えるのだ。ロエル・レイネは断絶の中で一つだけかろうじて繋がる絆を、冷たくとも優しき眼差しを以て観客に提示する。だがベッキーはセガールが“人殺し”であることを知らない。(おそらくセガールと“娘”の関係性をここまで進化させて、丹念に描いたのはロエル・レイネが初めてかもしれない。「沈黙の陰謀」「沈黙の奪還」を見よ)
ベッキーの継父であるスティーブ、セガールと彼の関係性にも不思議な物がある。
娘の継父という繋がりの前に、彼らは警察時代からの親友であった。であるからして、表面的には仲睦まじき関係に見えるが、セガールの中には葛藤がある。やがて一つの悪意によってセガールとスティーヴンは決定的な断絶を遂げる。重なる断絶はセガールの心を確実に蝕んでいく。
後半に行くにつれセガールは“暗殺者”という枠を逸脱して激闘に臨まざるを得なくなる。銃撃戦・肉弾戦・カーアクション、どれもレイネによる独特な演出をして、凡俗の物とは一線を画すシーンとなっている。
それは映画という媒体に凭れ掛かった虚構的迫力も、逆に力量不足より起因する壊滅的ヘチョポンさも存在しない。ある種のフィルターを介したアクションが奇妙な淡白さで綴られていくのだ。ともすれば「ヒート」のエピゴーネンに堕さんとする街中での銃撃戦、その激烈さはレイネによって突き放されて、銃撃により穿たれる車壁や、破砕されるガラスの極細なる粒の一つ一つも、ただ淡々と“起きている”ものとして処理されるのみだ。迅激なる黒鉄がつんのめりになり、大回転の果てに破潰していく「ダークナイト」的クラッシュシーン、臨場感のその先、あるがままの諦念、爆砕によるカタルシスは一切ない、あるのはそれが“起こってしまった”という事実だけだ。
そして最終決戦、墓場にて厳粛に執り行われるそれは、長大ながら酷く奇異なる印象を与える。大局的な緩急、それを突き詰めて眺めることで見えてくる、ミクロ的なる緩急の連続。スローモーションや、多に寄り添うことでめまぐるしく錯綜する編集によって表現される血戦は、重い。セガール以外に平等に舞い降りる死の恐怖、集積された物語が死に収斂していくからこそ、その死はどうにもならない重さを孕むのだ。
しかし勿論、セガールは死なない。セガールが主人公である映画で、セガールが出演している映画で、セガールが死ぬわけがない。考えても見て欲しい、「エグゼクティヴ・デシジョン」のセガールはあんなテロリストはカート・ラッセルに任せればいいと、「グリマーマン」のためN.Y.へ爆速で帰っただけのことであるし、「マチェーテ」については、さすが東洋に精通するセガール、『三十六計逃げるにしかず』という諺も己の血肉としている、そしてその闘争をHARAKIRIという異国情緒豊かな劇的さを以て成したわけだ。アレは死んでいないのである、勇気ある死んだフリである。だからセガールは死んでいない、セガールは絶対死なない無敵のヒーローなのだ。(「クレメンタイン」は未見)
セガールは死なない、何度だって蘇るさ。
と話が逸れたが、この「弾突 DANTOTSU」はロエル・レイネというオランンダの俊英がいてこそ生まれた傑作とも言える。もしこのレビューをお読みになってセガール映画に興味を持たれた方は、ともにロエル・レイネ作品にも目を通して欲しい。
大英帝国ハゲ紳士四天王の一人ルーク・ゴス主演「デスレース2」「デスレース3・インフェルノ」や、ロック様より遠く離れて「スコーピオンキング3」、そして「ネバー・サレンダー肉弾突撃」という熱烈なる作品を製作している。是非ご鑑賞を。
これを期にセガール映画を見る方が増えてくれたならば、それ以上の悦びは無い。
セガール、貴方は私にとってアクション映画への端緒を開いてくれた恩人だ。還暦を越えて尚更なる活躍を祈り、このレビューを貴方に捧ぐ。
セガールよ、永遠に……