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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

暴力映画、暴力についての映画「Mr. ノーバディ」

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いくら理由をつけたとしても、結局、究極的にはただ暴力が振るいたいだけ。それでも知りたい、なぜ自分は暴力に惹かれるのか、なぜ社会に暴力は存るのか。「Mr. ノーバディ」はある映画監督が暴力について理解しようと試みる、その終ることなき過程なのだと私は受けとった。飽くなき行動=知性の映画なのだと。

例えば生命倫理、例えばポリティカル・コレクトネス、ここにおいては暴力が個や社会へいかに作用するかという世界そのもののシステム、そういったものに対して思考を止めることのない映画作家の暴力映画は、ある一線を越えた時に暴力についての映画ともなる。ベン・ウィートリーS. クレイグ・ザラーが持つ暴力への深い知性をイリヤ・ナイシュラーも共有しているのだ。

アメリカにおいて1910-1920年代のサイレント期、暴力は行動と感情と思考が三位一体で存在する、もっと剥き身のものではなかったか。例えばキング・ヴィダー「廣野に叫ぶ」“Wild Oranges”アラン・ドワン"The Half-Breed"ロイス・ウェバー「暗中鬼」ヘンリー・キング乗合馬車ジョセフ・フォン・スターンバーグ「救ひを求むる人々」を観れば分かるはずだ。しかし時期が進むにつれそれがどんどん空中分解していってしまう。その形態は、40-50年代におけるリチャード・フライシャーアンソニー・マンといったB級映画職人による、以前の剥き身的な感触を語りの経済性に奉仕させる速さばかり先立った安い暴力、90年代におけるクエンティン・タランティーノ以降の美学化された軽薄な暴力など色々ある。私がこれを挙げたのは特に唾棄すべきと思うから以上に、前者が行動の過剰、後者が感情の過剰を象徴しているように思われるからだ。そしてそこには思考が欠けている。

この文脈において、私がスティーブン・ソダーバーグエージェント・マロリーに感動を覚えたのは、描かれる暴力に思考を取り戻そうとする意志を感じたからだ。シャンタル・アケルマンによる映画史上の傑作「ジャンヌ・ディエルマン」の方法論、つまりは徹底してミニマルかつ即物的な眼差しを援用しながら、今作はアクション映画であると同時に、アクションについての映画でもあろうとしていた。そしてエージェント・マロリーの後に、例えばベン・ウィートリーはもはやアンチ・ガンアクションの域にあったフリー・ファイヤー(詳しくはこの記事を)を製作し、S. クレイグ・ザラーは、ブレッソンのような崇高さによって暴力映画と暴力についての映画が共存するような作品を作り続けている。

そして暴力についての映画、その最前線にある映画がイリヤ・ナイシュラーによる「Mr. ノーバディ」だと、私は思ったのだった。暴力についての映画は、暴力を振るうという行動そのものが、暴力について洞察する思考それ自体でも有りうる、行動がそのまま知性足りうるのだ。そんな即物的な知が、今作にはあるのである。ナイシュラーの出身国であるロシアを含めて、東欧映画を多く観てきて思うのは、サイレント時代のアメリカ映画、それが持っていた剥き身の暴力というものがが今もそこに存在しているのでは?ということだ(「異端の鳥」みたいなのとは少し違う)ロシア人のナイシュラーがこれをハリウッドの中心に持ってきて、重心をずらすような作品を製作したと。

今作の暴力で印象に残るのは暴力そのものというよりも、暴力の余波や事後の方のように思える。例えばボコボコにした相手が血で窒息する時に主人公がかます、首にストローをブッ刺すという相当な荒療治。例えばチンピラの1人が主人公を命からがら捕縛した後、助手席で首に刺さったナイフを引っこ抜くという妙な光景。そして主人公を演じるボブ・オデンカーク、暴力を受けた時の動作、傷ついた肉体を引きずる遅さ、それに関して相当力を入れて演技していることが分かる。これこそが重要なのだ。

しかしここで描かれるのは、暴力による肉体への余波だけでなく、精神への余波もある。バスで大乱闘を起こした後、主人公と妻という個と個の関係性が変貌する。その次にラスボスの暴力によって、犯罪組織そのもののパワーバランスが変貌する、この個と個の関係性、組織もしくは共同体への暴力の余波が並列に置かれることで、その大いなる作用の可動領域が明らかになる。そして暴力の最中、オデンカークがふと我に帰ったかのように自分の暴力の理由を説明しようとする。彼はある程度それを筋道立てて理路整然と説明することができる。しかしカメラは、実のところ自分でもいまいち理解できていないような、そんな途方に暮れた感覚に打ちひしがれる彼の姿をも映し出す。これは何か作り手自身の、暴力を理解しようとする過程がそのまま現れたような誠実さ、それと表裏一体の切実さをも感じさせると。

こうして暴力そのものを描きながら暴力について思考し、時には言葉によってその思考を深めようとする。この何かを理解しようとする過程、結果ではなく、あくまでも飽くなき過程というものを、ゴロンと剥き身で提示する今作は本当に知的な暴力映画であり、暴力についての映画だと断言できる、感動的までに。知性と思考の塊のような映画を観ると本当に嬉しくなるものだ。こちらとしても思考をグングンと刺激される感覚がある。暴力においてはウィートリーやザラー、ナイシュラー、性においてはアラン・ギロディ、彼らの製作するような知の映画をもっと観たいと思える。いや、本当に素晴らしかった。

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