現在、この鉄腸マガジンではハンガリー映画史を深堀りする企画を行っているが、ハンガリー映画史を語るうえで欠かせない人物こそJancsó Miklós ヤンチョー・ミクローシュだ。1950年代から映画を製作し始めた彼は、ハンガリーの歴史を異様な長回しとともに語る60年代の傑作群により頭角を現し、2014年に亡くなるまで生涯ハンガリー映画界のトップであり続けた。しかし日本では1965年制作の「密告の砦」("Szegénylegények")と1979年制作の「ハンガリアン狂詩曲」("Magyar rapszódia")だけが上映されたばかりで、彼の情報は余りに少ない。ということで今回からJancsó Miklósに関する文献をこの鉄腸マガジンで紹介していきたいと思う。最初に紹介するのはKinoeye掲載、1985年にスコットランド系カナダ人の映画批評家Graham Petrie グラハム・ペトリーによって行われたインタビューである。ここでは先述の1960年代の傑作群の後、過小評価されている70年代から80年代の作品に重きを置いている。という訳で最初に訳出するには合わないかもしれないが、今後色々と翻訳していくので許してほしい。ということでこれら翻訳記事がJancsó Miklósの日本での知名度を上げてくれることを願う。それではどうぞ。
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1960年代後半、Jancsó Miklós(1921年生まれ)が作った作品群、例えば"Szegénylegények"("無法者たち",1965)や"Csillagosok, katonák"("星たち、兵士たち", 1967)、"Csend és kiáltás"("沈黙と絶叫", 1968)はこの時代におけるハンガリー映画のルネッサンス、その最先端にあった。作品におけるテーマ性の盤石さやほとんど動き続ける撮影を基とした独特の映像スタイルはJancsóを最も議論を呼ぶ、論争の的となる現代の映画作家の1人に押し上げたのである。
しかし後に作られた映画の多くは内容よりも形式に対して自己耽溺した作品として見過ごされるか、初期作の疲労感溢れる模倣として見做された。そして"花の時代"の作品ばかりが数々の本や記事で分析されるようになったのである。
Kinoeyeは1985年、Jancsóの後期作品に対する批評的関心が最低であった時代にGraham Petrieが行ったインタビューをお届けする。このインタビューでは今でも不当に無視されている、当時の彼の作品群について迫ったものである。
グラハム・ペトリー(GP):あなたは1950年代から映画を作り始めましたが、監督としての代表作は1960年代中盤から生まれているという意見が広く信じられています。あなたはこの20年間、自身のスタイルやテーマに一貫性があるとお思いですか、それとも初期作から今作っている作品にかけて何か発展と変化があったとお思いですか?
ヤンチョー・ミクローシュ(JM);ほとんどの人々が私の作品でもベストの映画は1960年代に作られたと思っていることは自覚しています。実際、今年ハンガリー人の映画批評家によって行われた投票でも、ソ連軍によってハンガリーが解放されて40年間に作られた傑作40本の中に私の作品5本が含まれており、5つとも60年代に作られた作品でした。今の観客は比較的シンプルな物語を比較的現実的な様式で描きだす作品が好きという意味で、私の初期作はこのカテゴリーに収まったという風に見えます。
もちろんそれらの作品は作られた当時は異様で他とは異なるものと考えられていましたが、それでも普通の映画、いわゆる現実的な様式を持つ映画とそれほど異なっている訳ではありません。これらをもう1度振り返るなら、当時作られた現実的な映画の中心的潮流に私の作品がフィットしていることに自分で驚くでしょうね。思うにこのことは何故私が後に作った作品がそれほど人気ではないことを説明しているでしょう。"後に作った映画"とは1970年の"Égi bárány"("神の子羊")から始まる作品群を指しています。この後、私は10年間をイタリアで過ごしながら4つの長編と幾つかのドキュメンタリーをそこで製作しました。この作品群はハンガリーでは考慮に入れられないことが普通で、まるで存在していないかのようです。1976年制作の"Vizi privati, pubbliche virtù"("個人的な悪徳、公共の美徳")だけは例外で、イタリア含め世界各地で論争の的となりました。
そして後に作られた作品と初期作の違いについてですが、思うにアイデアは同じでありながら、違いはそのスタイルにあるんです。後期作は私が"理論的な皮肉"というものを宿しているんです。それは皮肉的でありながらも同時にユーモアも面白さも存在せず、これが観客や批評家を動揺させる訳です。
GP:私は"La pacifista"("平和主義者", 1970)以外の全てのイタリア制作映画を観ました。そして最近の作品にはとても明確な発展と一貫性があるように私には思えたんです。これはあなたのイタリア映画がハンガリーで広く知られる助けになると思いますか?
JM:いえ思いませんね。ハンガリーの映画批評家たちは選ばれた数作の映画や映画作家に注目を向けるだけで、スタイルや同じテーマを何度も何度も反復し続ける、例えばウォルト・ホイットマンのような存在には目もくれないんです。実際、これはハンガリー人だけでなくほとんどの批評家に当てはまります。彼らが認識するのは長回しや人の動きなどの技術であり、私が語ることについては注目しないんです。
GP:70年代におけるあなたの作品の主要なテーマとは一体何だったんでしょう?
JM:不幸なことに、それはキャリアを通じて同じもの、ある者が他の者を搾取する社会状況の探求です。もし彼らが抑圧された階級出身だとしても、1度権力を握ってしまえば彼らは変貌を遂げ、他者を抑圧しようとするんです。これは今でも最も興味を惹くテーマであり、明らかに間違った道を行っているとしても、人々が自分たちを追随させるため抑圧者が使う技術にも同じく興味が湧くんです。究極的におそらく世界中の観客は、私が映画を通じて語る何よりも、この権力闘争について知っているのでしょう。
GP:あなたは最近の映画において自分のスタイルが変わってきていると仰っていましたが、私個人として、1978年制作の"Magyar rapszódia"("ハンガリー狂騒曲")と"Allegro Barbaro"("野蛮なるアレグロ")はより抽象的で象徴的、注意深く非現実的であろうとしており、1972年の"Még kér a nép"("そして人々は未だ問い続ける")や1974年の"Szerelmem, Elektra"("我が愛、エレクトラ")といった作品とは相違を感じます。何故この方向へと向かおうと思ったのでしょう?
JM:テーマを選ぶ際は映画の様式に合うか、なぜこの高度に様式化されたやり方で映画を作るのかを説明できるかに沿って決めます。私はよく映画館に行くのですが、現実的なスタイルで歴史的な題材を描きだそうとする映画を観ると滑稽に思えます。というのも皆その映画が現代に作られ、なのにその映画が私たちの余り知らない時代を描いていることを知っているからです。
例えばマルコ・ポーロを描いたイタリアのTVシリーズがあるのですが、マルコ・ポーロが映画のような状況で中国の皇帝と会った想像すると滑稽です。純粋なまでに現実的なやり方で歴史的な題材を描く映画の数々は観客を小さな子供か、それよりは少しマシな存在としか思っていないんです。故にこれらの映画は彼らにとって面白くてカラフルな絵本となり、もしくは小学生のための歴史の本のように物語を語る訳です。それはもはやただ滑稽なだけではなく、悪しき信仰でもあります。映画が観客を対等なパートナーと思っていないからです。
"歴史的"映画のもう1つの形態は、映画作家が観客に自身の考えを押しつけたいという欲望から来た作品で、監督は作品の見た目を主観的というより客観的なものにするため映画自体をリアルなコスチュームで扮装させるんです。観客を誤った方法に導くゆえに、これもやはり悪しき信仰であります。私は自分の映画において観客に嘘をつきたくはないので、私が考えていること、それが私自身の個人的な視点であることが明確となるようなスタイルを選択しています。観客に少しでも、これが過去に実際起こった出来事の正確な再現だと思ってもらいたくはないんです。
今私が興味を持っているテーマに関してですが、それは1902年頃、闘技場において何千人もの前でウンベルト2世を暗殺したイタリアの無政府主義者(訳注:おそらくこれは1900年のガエターノ・ブレーシによるウンベルト1世暗殺を指しているので"ウンベルト2世"は間違い)についてです。当時イタリアには死刑制度がなかったので、彼は無期懲役を宣告されましたが、1ヵ月後には独房で首を吊って自殺を遂げたんです。それから少しして、刑務所長と他の役人たちは政府から最も偉大な国家的賞を獲得したんです。私はそこで本当は何が起こったかを探ってみたい。それはハプスブルク帝国の後継であった皇太子ルドルフの死(筆者注:"Vizi privati, pubbliche virtù"の主題)についても同じでした。ここには未だ謎が多く残されているんです。
GP:あなたは観客とある種の対話を行いたいように思えます。あなたから受動的に答えを受け取るよりも、自身で考え自分自身に問いかけてほしい、そう思っているのでしょうか?
JM:そうです、それが正しいです。私や共に映画を製作した友人たちは観客を子供ではなく大人だと思っています。ですから私たちは彼らに対等な議論を行えるようなパートナーであってほしい訳です。何を考えているかを押しつけたいのではありません。
GP:"Magyar rapszódia"や"Allegro Barbaro"は政治家であるBajcsy-Zsilinszky Endre バイチイ=ジリンスキイ・エンドレ(著者注:リベラルな政治と反ファシスト活動のリーダー的存在として活躍、1944年に処刑された貴族。映画ではZsadányi István ザダーニイ・イシュトヴァーンという名)の人生を大まかに基としていますね。そこでは観客がこの時代のハンガリー史に関するディテールを知っていることがどのくらい重要だったのでしょうか?
JM:私としてはいかなる歴史的、もしくは政治的状況について知る必要はなかったと思っています。物語は抑圧的な階級出身ではないにも関わらず彼らに味方した人間についての、とてもシンプルで直線的なものです。"Allegro Barbaro"はおそらくより象徴的で空想的なものだった故、観客にとって難しい作品だったとは思いますが。
GP:今作では巨大なフラッシュフォワードの技術が使われていますね。Istvánが赤い車から降り、カメラへと歩いていきます。そこでは煙が雲のように漂い、あなたはここで物語を見せるために映画をカットし前に展開させますね。そして最後あなたはIstvánが車の傍に立っている場面に戻っていきます。なぜこういった構成を選んだのですか?
JM:今作の物語は実のところファンタジー、Istvánが1分間の中で想像した光景なんです。そのファンタジーの中で彼は英雄になり、人々を英雄になれと勇気づけていきます。しかしもちろん実際には起こっていないんです。歴史的事実として彼は本当に英雄でしたが、私たちが見せたかったのは彼のヒロイズムと彼が英雄になってほしいと想像しながら、実際はそうはなれなかった人々の間にある皮肉的な二元性でした。当然これはBajcsy-Zsilinszkyの本当の物語ではなく、この第2次世界大戦という時代に対する私自身の個人的視点なんです。ですからお伽噺や民話に近いものなんです。
GP:今作では革命は可能だ、人々は団結し自由のために戦うことができると説いた"Még kér a nép"よりも悲観的な考えになっているように思われます。"Szerelmem, Elektra"や"Roma revuole Cesare"("ローマはもう1人のカエサルを求めている", 1973)といった作品であなたは反乱を起こすよう人々を鼓舞し、自身の状況を変えられると説得する人物を描きましたが、彼らの行為は失敗に終わります。あなたの言葉から鑑みると、これは"Allegro Barbaro"にも共通するテーマに思えますね。なぜあなたは今、人々はもう誰も言葉を聞かない、状況を変えようとは思っていないと信じるようになったのでしょう?
JM:この悲観主義はおそらく1968年以降の世界で起こった変化のせいでしょう。これらの変貌を無視することはできません。
GP:少し制作当時に戻りましょう、"Allegro Barbaro"について聞かせてください。今作には幾つもの相容れないイベント、時と空間を跨いで実際には1つの継続するシークエンスの中で起こりえない物事が同時に起こるとても長い長回しが何個も存在します。例えば1つの絶え間ないカメラの動きという枠組みの中で人々は死に、再び生き返りますね。なぜこの技術を使ったかについてお答え願えますか?
JM:基本的に私はこの技術を、観客が自分の観ているものは現実ではなく非現実であると理解してもらうために使っています。古典的な編集の様式において、観客はショットとショットの間の時間に飛躍があると認識します。しかし長回しにおいて、ワンショットの中で多くの異なるアクションが行われるのを観ている時、彼らの殆どは映画が1つの長いシークエンスで描かれていると理解するでしょう。そして1つのショットの中で現実には同時に起こりえない矛盾する出来事の数々が起きているのを彼らが観る時、それが真実ではないファンタジーであり不可能なものであると理解せざるを得なくなるでしょう。観客がそれを受け入れるか拒絶するかはまた別問題ですが、少なくとも彼らはこれが真実でないと理解するでしょう。そしてもし真実でないと理解したなら、その映画が何を語りたいのか考えざるを得なくなるでしょう。
GP:あなたは先に、観客は映画の背景にある歴史的事実を知る必要はないと仰いましたね。しかしハンガリー映画は常に強烈なまでの国家主義的なアイデンティティを持ち、これが主な美徳の1つとなってきました。あなたは自身の映画において、自分はハンガリーについて語っている、その国家としてのアイデンティティを定義し維持することを助けているとお思いですか? もしくは"Roma revuole Cesare"から引用するなら"抑圧されている全ての小さな国家のために戦っている"とお思いですか? それともどちらの側面も兼ね備えているのでしょうか?
JM:それはとても複雑で難しい問題です。特にこんにちの世界において答えるのは骨が折れます。私は半分ハンガリー人なんです。母はルーマニア人で私自身トランシルヴァニア出身であり、このハンガリーの国家的アイデンティティにまつわる問いはとても複雑なものであります。こんにち1500万人ものハンガリー人が生きていますが、実際にハンガリーに住んでいるのはその半分であり、ゆえにこの問いは逼迫した政治的問題に成り得る訳です。
この理由の1つはハンガリー語とその文化が頗る独特であることです。比較的小さなスラブ人国家が私たちよりもより容易くアイデンティティを見つけられますが、それは言語が私たちを世界から切り離し孤立させるからなんです。ハンガリー人のアイデンティティについての研究には2つの側面があります。まず一方で古ラテン語において"Extra Hungaria non est vita"("ハンガリーの外には何も存在しない")という言葉があり、他方において"La pacifista"において登場人物が語ったバクーニンの言葉があります。"我らの自由は全ての民の自由なのだ"と。
GP:ここで語ったことの多くは"A zsarnok szíve, avagy Boccaccio Magyarországon"("暴君の心、あるいはハンガリーのボッカチオ")に適用できるように思われます。あるテーマはこんにちの世界における芸術家の役割に関わっていますね。冒頭には、芸術は着飾り、真実や美のフリをする嘘であるという発言がありますね。
JM:この発言は権力者が芸術家に何を求めるかについて皮肉な意味を持っています。芸術が何かについて言ってる訳でありません。
GP:はい、それは理解しています。しかし私はそれでもこの映画が、この現代の政治的状況において芸術家が真実を語るのが可能なのかという問題をテーマとしているように思われるのです。
JM:これは私の作品において最も難しい要素でしょう。何故なら、夢が始まり現実が終る様を認識できた"Allegro Barbaro"とは違って、私たちは決して何がリアルか、何がファンタジーかを実際に知ることはできないからです。ここにおいて最後の死、俳優たちの殺害だけがリアルです。これを越えてどの物語が実際に起こったのかそうでないのかを知ることはできません。それはある程度まで、こんにちの世界において芸術家に何ができるのかについての私の考えを反映していますが、映画製作が芸術なのか、自分を芸術家と認識していいのかは定かではありません。芸術家は自分だけの自立した世界を創造できるべきですが、映画製作は多くの外在的要素に左右されるものであり、私はこれが芸術の信頼性ある形態とは思っていません。
GP:あなたは映画において何がリアルで何がそうでないのかを知ることは決してできないと仰いましたね。この作品は舞台的な映画であり、あなたは多くの舞台的な演技や舞台上に引かれるカーテンといった綿密なまでに人工的な要素を利用しています。これはあなたの仰る映画における権力と政治的嘘、そして神秘家の一部であるのでしょうか? つまり私たちは何がリアルで何がそうでないか最早分からない世界を生きている。あまりにも矛盾した情報を与えられたことで、本物のバージョンを探し当てることは不可能になっているということでしょうか?
JM:(笑)。ありがとう、映画とは正にそういうものなんです。
GP:もう少し詳しくお聞きしたいのですが。
JM:"A zsarnok szíve, avagy Boccaccio Magyarországon"は私の作品で唯一、ラスト以外のほぼ全編が舞台で繰り広げられる作品です。こう演出をしたのはこんにちの人生があまりに複雑で、比較的小さな空間においても、それは迷宮のようになり自分の道を見つけることができないという私の考えを表現するためでした。そしてこれは人々の個人的な生活にも、政治的な生活にも適用できるんです。しかし今作はそれが出来事の自然な状態と示唆している訳ではなく、こういう風な世界を作りあげ、自身の利益のために操作している者がいると言いたかったんです。
GP:究極の現実はこの小さく閉じられた世界を越える権力、映画の最後で死をと共に終りをもたらす物です。どれが、序盤の偽物の死とは違う、最後のリアルな死とは一体どれなのでしょうか?
JM:はい、それが最後に外へ出ていった理由、遠くにいる匿名の騎手の元に行った理由でしょう。
GP:"A zsarnok szíve, avagy Boccaccio Magyarországon"はハンガリーではあまり成功しなかったそうですが? 人々は今作を理解したくなかったと思いますか?
JM:ハンガリーの観客はテレビに影響を受けすぎて、こういった類の映画には最早オープンではありません。批評家や他の人々が煽りたてる故の敵意すら存在します。おそらくこの種の映画を作る時代はもう過去であり、このための予算を見つけてくるのは難しくなり、虚無の中で仕事をしていると思わざるを得なくなります。どれほどの間その映画に価値があるのか自分に問う必要があるんです。
GP:"A zsarnok szíve, avagy Boccaccio Magyarországon"における罵倒やジェスチャーによって表現されたこの不満は直接的にカメラや観客に作用していると思われますか?
JM:イエスでありノーです。俳優たちが観客に対してああやって行動するのはイタリアの舞台劇では伝統的なものなんです。しかし自分の映画を理解してもらいたい映画作家にとって、そうでないと知ってしまうのは不満なものでしょう。
GP:あなたの語ったことを総合すると、その作品が発展していく方法論に関して、芸術的にも政治的にも観客はもはや聞く気を持たず、試されたくもなければ掻き乱されたくもないとあなたはお思いのようです。この状況において映画には演じるべき有用な役が残されていると思いますか?
JM;私は自分が変わったとは思いません。世界が変わったんですよ。私は悲観主義者ではなく、芸術家であり、映画監督であり、普通の人間だと思っています。そして身の回りの不正に対して"ノー"を突きつけ続けている存在でもあると。映画に関して問題となるのはどれほど深くかき乱されるかでしょう。影響はそれに作用されます。善悪に関して芸術家が取る立ち位置、彼ら自身の完全性は、その好況におけるイメージに関するところでは常に問題になる訳ではありません。しかし当然私は人心を掌握しようとすることに仕えるより、反旗を翻す同僚たちには大いなる愛情を持っています。それでも国や権威、通信ネットワークのオーナーなどの権力機構の全ては彼らに従属する人々をより好むものです。
GP:若い世代にとって状況はより容易いものになってると思いますか。つまり彼らの作品はより広く受け入れられているように思われますか?
JM:理論的にはそうであるでしょう。何故ならそういった作品の主題や技術はより人気なものとなったからです。しかし実際ハンガリーの観客はその殆ども拒絶しています。芸術の匂いを嗅ぎ取るや否や、彼らは敵意を剥き出しにするんです。それは私にとって、1968年以降少なくとも白人たちの世界が無気力へと傾いていったゆえに思われます。この世界、北米などより成功した社会においてすら、哲学的にリアルな目標が存在しません。今、目標とは共産主義の"拡大"を止めるといったような、とても原始的で短期的なものであり、もはやこの世界に価値のある、長期的な目標というものは存在しません。より若い映画作家たちの世代がこの状況で自身の役割を見つけ、それを成し遂げられるかについて、私には応えられません。
GP:無関心によって人々があなたの言うことに注意を向けない時、彼らにこの無関心を警告する映画を作るのは難しいに違いないでしょうね。
JM:1963年頃、いわゆる"平和的共存"の時代が広がっていた頃、西側にも共産主義国にも一般的な幻影が存在しました。福祉社会を通じて社会的な平和を創造する本物のチャンスがあるという幻想です。1968年はその希望を破壊し、その時から起こっていることはあるレベルに達した社会は、他のレベルにある社会とは異なり、ともすれば優れているという考えに基づいているように思われます。ある国々は適度に、もしくはとてつもなく裕福であり、他の国々は貧困にまみれ困窮しているべきだと。結局この社会的発達がこの知的・哲学的無関心に影響を与えたのであり、この過程は私たちの世界含めどこででも見られるんです。
GP:それは正にアメリカやイギリスでも起こっていることですね。そしてもしこの過程が続き加速しているのなら、人々の無関心に拍車がかかるとお思いでしょうか?
JM:これから何が起こるかは私にも分かりません。今言えることは、無関心以上にこういった題材の映画が作りやすくなる故に、映画作家は生きやすくなるのではないかということです。そして無関心はこの過程が進んでいくことによってある程度壊れていくのではないでしょうか。政府や権威は全て無関心を好んでいます。それが芸術家の理に叶い、無関心もより強化されるからです。しかし無関心が壊れてしまえば、芸術家はより独立し、創造的な自立を獲得するチャンスを得られるでしょう。
GP:ということは未来に希望はあると?
JM:(笑)。おそらく第3次世界大戦の後にはまた良い映画を作れるでしょうね。
原文:Kinoeye | Hungarian film: Miklos Jancso interviewed