クリスティ・プイウ&"Marfa şi Banii"/ルーマニアの新たなる波、その起源
クリスティ・プイウ&「ラザレスク氏の最期」/それは命の終りであり、世界の終りであり
クリスティ・プイウの略歴、および長編デビュー作、第2長編についてはこちらの記事参照
2005年「ラザレスク氏の最期」によってルーマニア映画界の名声は俄に高まりを見せたが、そこから5年間クリスティ・プイウは沈黙を続けることとなる。しかしその間に彼の蒔いた種は確実に花を咲かせていく。2006年コルネリュ・ポルンボユはルーマニア革命を巡る虚栄と郷愁をコメディタッチで描いた作品"A fost sau n-a fost?"(紹介記事その1)で鮮烈なデビューを果たし、カンヌ国際映画祭において優れた新人監督に送られるカメラドールを受賞、更に2009年に製作された第2長編"Polițist, Adjectiv"ではEU加盟というルーマニアの大きなターニングポイントを背景として"革命によって何が変わったのか、もしくは何が変わらなかったのか?"という大いなる問いへ果敢に挑み、高い評価を受けた。
更にラドゥー・ムンテアンは革命前夜の風景をミニマルな視点から語り直した一作"Hîrtia va fi albastrã"(紹介記事その2)と、大人になることのままならなさについてルーマニアのバカンス地を舞台に描き出した"Boogie"(紹介記事その3)の2本を監督しルーマニア国内外で評価を獲得する。そしてクリスティアン・ムンジウは第2長編「4ヶ月、3週と2日」によってルーマニア映画初のパルムドールを獲得するという快挙をも成し遂げた。彼らの存在によって"ルーマニアの新たなる波"が成熟に至った頃、長い沈黙を破りプイウ監督は「ラザレスク氏の最期」を越える志と禍々しさ、そして大いなる虚無を宿した絶望の叙事詩"Aurora"によって、再び世界に波紋を投げ掛けることとなる。
"Aurora"が描き出すのはヴィオレル・ゲンゲア(プイウ自身が兼任)という中年男性の日常、ヴィオレルは薄暗い部屋でとある女性の話を聞く、ヴィオレルは娘が童話の「赤ずきん」に対し少々おかしな疑問を持っているという女性の話を静かに聞く、ヴィオレルは部屋から出ていく、ヴィオレルは群青色に染まった世界を歩く、ヴィオレルは線路の上に佇む、ヴィオレルは車に乗る、ヴィオレルは工場に行く、ヴィオレルは車に乗る、ヴィオレルは自宅に戻る、ヴィオレルは、ヴィオレルは、ヴィオレルは……私たちはただ無機質に紡がれていくヴィオレルの日常を、何の感慨をも抱くことすら許されないまま延々と見据えさせられる。ヴィオレルは何者なのか、ヴィオレルと話していた女性は誰なのか、ヴィオレルのあの行動には何の理由があるのか、そんな疑問が浮かんだとしても殆ど答えが与えられることがない。プイウ監督の演出は「ラザレスク氏の最期」にも増してミニマルで、情報量を極限まで削ぎ落とすという方法論は更に先鋭化しているのだ。
だが「ラザレスク氏の最期」と決定的に違うのは撮影の質感だ。「ラザレスク氏の最期」における撮影はカメラが正にそこに居合わせるような、例えばダルデンヌ兄弟を彷彿とさせる手振れ多用の質感が特徴的だった。"Aurora"でのViorel Sergovici(「ハートビート」)のカメラには、ひと所に腰を据えヴィオレルの動作1つ1つを記録していくような観察的な質感がある。しかし今作においてカメラの存在はまるで亡霊のようだ。例えばヴィオレルが町を歩いている時、カメラは電柱の影に隠れながら彼の姿に視線を漂わせる。例えばヴィオレルが家のキッチンにいる時、カメラは開け放たれたドアの一歩手前、灯りも点いていない廊下に佇みながら一挙手一投足をレンズに焼きつけていく。このリアリズムを指向する観察的な撮影法と何処か現実味のない密やかな存在感が混ざりあい、物語に不気味な印象をもたらす。
その中で少しずつ、本当に少しずつながらヴィオレルという男の性格が明らかにされていく。ある時彼は喫茶店に向かいケーキを頼むのだが、家に持ち帰って食べたいと心変わりし、店員にそれを伝えようとする。しかし前に並ぶ客が注文している姿に対し異様な萎縮を見せ、挙げ句の果てには横から割り込みをかけられそうになるのだが、それに対しても何も言えないでいる。ヴィオレルは典型的な小市民タイプの人間であり、余計な騒動は起こしたくない、起こす勇気がないのだ。
そしていざ行動を起こしても、そこからどう処理するか途方に暮れてしまう。彼は天井から水漏れしているのを見つけ、上の階の住民にそれを伝える。その日の夜、水漏れの原因を作ったらしい少年を連れ彼の父親がやってくる。腰を低くして謝罪する父親にヴィオレルは視線を合わせることが出来ない、早くこの会話が終わって欲しいという思いの発露かしれっとその場から去ろうとしてもヴィオレルは引き留められ、父親が少年を躾る姿に延々付き合わされ、居心地の悪さは加速していく。ヴィオレルは社交性が欠けており孤独を好む人物として、つまり何処にでもいるような人間として描かれる、私たちの隣にも一人くらいは居そうなありふれた人物として。
だが何の変哲もない日常と平行して、私たちはヴィオレルが抱く闇の発露をも目撃する。工場へと赴いた際、彼は男から何か特注らしい小さな部品をもらい受ける。その後とある店に向かったヴィオレルが買うのは12口径の散弾銃だ。自宅に帰ったヴィオレルは散弾銃の特注の撃芯を装着し、そのまま銃を構える。不穏な空気はこの暴力装置として結実し、"Aurora"は1人の平凡な殺人者の道行きを眼差す物語へと姿を変える。
物語の骨子としては、とある少年が凶行に至るまでとその余波を描き出したミヒャエル・ハネケの「ベニーズ・ビデオ」に似ていると言えるが、この作品は「悪魔の毒々モンスター」を悪意ある形で登場させるなど、主観を徹底的に排したように見せかけ実際の所は"ホラーを見ている人間は犯罪者予備軍"という固定概念を強化してしまっている迂闊な作劇法を取っていた。"Aurora"はそういった欺瞞に陥ることのないよう本当の意味で徹底して情報量を可能な限り削ぎ落としている。特定の文化や作品を映し出すことは避け、ただただストイックにヴィオレルの姿だけを捉えていくといった風に。
それでもプイウ監督はただ禁欲的に現実を撮し取るだけでなく、ドス黒いユーモアで観客に不意打ちをかける。彼自身この映画を"忍耐力を伴うコメディ"と形容するのだが、その指向が端的に現れているシーンがまず初めて銃弾の込められた散弾銃を手にする時、彼は折り畳んだ布団を使って試し撃ちをこころみる。心許ない手つきで銃を構え布団に向ける、だが撃つ勇気がなく何度も躊躇い、決意を固めたかと思うと立ち位置を神経質に確認したりと銃撃の瞬間は延期されていく。この振る舞いには彼の小市民的な性格が滲み渡り、思わず苦い笑いすら浮かぶほどだ。
しかしヴィオレルは殺す。試し撃ちだけでなくその銃口を確かに人間へと向け、その命を奪う。その時、カメラはある部屋の前でやはり亡霊の如く佇む。だらんと伸びた2本の足、その体を見下ろすヴィオレル、構えられる銃。彼の荒い息だけが部屋には響き渡る中で、彼は引き金をひくことを躊躇し続ける。先のような笑いは最早存在しない。私たちは殺人という行為を遂行しようとする人間の動作1つ1つを、何よりこれに臨む人間の心の動きをも観察しなければならない立場に置かれる。この時私たちは傍観者では絶対に居られなくなる、共犯者という生半可なものではなく私たち自身が殺人者として1人の人間から命を奪い取るのだ。そう錯覚させるほどの力がプイウの描き出すヴィジョンにはある。
だが殺人が"Aurora"のクライマックスなどではない、今作の主眼はあくまで殺人を含めた彼の日常の営み全体に他ならないからだ。殺人の後、ヴィオレルは食事をする、ヴィオレルは道を歩いていく、ヴィオレルは車に乗る、ヴィオレルは部屋を片付ける……それでも殺人の後、彼の中で何かが変わったことにもまた気付く筈だ。彼はアンドレアという女性を探してとある服屋へと赴く。店員の制止を振りきり中へと入って、彼女の居場所について詰問する。店員の女性たちがアンドレアは此処にはいないと主張しても、抑揚のない声で、しかし驚くほどの饒舌さによって店員たちに皮肉と罵詈雑言を浴びせかける。前半における小市民的な振る舞いとは全くかけ離れた言動の数々、それは暴力装置の獲得と殺人の完遂による変容の結果だ。確かに彼の精神は歪みを迎えてしまっている。
あるインタビューにおいてプイウ監督はこんな質問を投げ掛けられる。ヴィオレルは怪物です。鳥のように見える時があれば機械のように見える時もある――彼の声は高くなることもなく、殆どターミネーターと見紛うほどに。ですがこの人物には政治的な要素を持ち合わせているのでしょうか? 彼は自身の内にある法則に従い、共同体に所属しているといった感覚を持ち合わせていません。彼はポスト共産主義としての個人主義が人間の形を借りたありのままの存在であるのでしょうか?
それに対し彼はこう答える。"間違いとも言えませんが正しいとも言い切れません。私自身同じ問いを自分に向けていたんです。19世紀末にPompiliu Eliadeという学者がおり、パリでルーマニアにおけるフランスの影響力についての本を出版しています。その時は共産主義国家では勿論なかったのですが、彼の本を読むとこの時代と19世紀末のルーマニアはそっくりだと分かるでしょう。私は自分自身に"何故人々はあんなにも利己主義的なのか?"と問い続けましたが、答えは持ち合わせていませんでした。それは共産主義にまつわる物なんでしょう。共産主義時代、新聞には団結を呼びかける声明文が載っていた、"世界の労働者たちよ、団結せよ!"といった風に。
思うにこの映画における政治的声明とは何かといえば、生存するためには誰かと共に生きる必要があるということです、他者と交渉し妥協していかなくてはならない。芸術の側面から言うと、それは最悪と捉えられる類の行動です。私たちが手本とするヒーローは全員妥協することなどない、しかしそれはファシズム的でもある、ヴィオレルという人物はそういった、交渉なしに自分の哲学を世界に押し付けようとする人間なんです。
共同体での中で生きるには、妥協し譲歩することが求められます。そしてまず例えば教育といった国の制度にどうにかして順応していかなくてはならない(中略)いつしか私はそれが(ヴィオレルの犯した)殺人の理由なのだと思い至りました。自身の哲学に固執する者は、妥協を決められるほどの柔軟性を持たず、最後には誰かを殺すか共同体を去ることになってしまう。ですからこの物語を語ることは"共同体の中での生はどのように可能であるのか?"という問いに対するラディカルな回答を眼差すことにも繋がってくるんです"*1
"Aurora"の劇中、ヴィオレルが母親プシャの隣人女性に娘の子守りを頼むというシーンがある。そこで既に「ラザレスク氏の最期」を観ている方は、その女性がラザレスク氏に付き添っていた救急隊員ミオアラであると気付くだろう。ただ俳優が同じルミニツァ・ゲオルギウであるだけではなくキャラクター自体が同一人物、つまり2つの作品は世界観を共有しているのである。プイウ監督によればこの"Aurora"は「ブカレスト郊外の6つの物語」の1本に属する映画なのだという。彼はロメールの"六つの教訓話"を思わす連作群において、バルザックのように登場人物を交錯させることで世界を描き出すという試みを行おうとしている訳である。
その3作目こそが2016年のカンヌ国際映画祭コンペティション部門で上映された作品"Sieranevada"だ。アパートの一室に集まった3世代にも渡る親戚一同が狂騒のままに会話を繰り広げる姿を通じて、ルーマニアにおいて世代間に横たわる価値観の連続と断絶を描き出した作品だそうだ。ここで連作も折り返し地点に辿り着いたが、「ラザレスク氏の最期」"Aurora" "Sieranevada"と既に総計8時間を越える重厚さを伴うこの連作シリーズが一体何処へと向かうのか。ということでプイウ監督の今後に超絶期待。
ルーマニア映画界を旅する
その1 Corneliu Porumboiu & "A fost sau n-a fost?"/1989年12月22日、あなたは何をしていた?
その2 Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
その3 Corneliu Porumboiu & "Când se lasă seara peste Bucureşti sau Metabolism"/監督と女優、虚構と真実
その4 Corneliu Porumboiu &"Comoara"/ルーマニア、お宝探して掘れよ掘れ掘れ
その5 Andrei Ujică&"Autobiografia lui Nicolae Ceausescu"/チャウシェスクとは一体何者だったのか?
その6 イリンカ・カルガレアヌ&「チャック・ノリスVS共産主義」/チャック・ノリスはルーマニアを救う!
その7 トゥドール・クリスチャン・ジュルギウ&「日本からの贈り物」/父と息子、ルーマニアと日本
その8 クリスティ・プイウ&"Marfa şi Banii"/ルーマニアの新たなる波、その起源
その9 クリスティ・プイウ&「ラザレスク氏の最期」/それは命の終りであり、世界の終りであり
その10 ラドゥー・ムンテアン&"Hîrtia va fi albastrã"/革命前夜、闇の中で踏み躙られる者たち
その11 ラドゥー・ムンテアン&"Boogie"/大人になれない、子供でもいられない
その12 ラドゥー・ムンテアン&「不倫期限」/クリスマスの後、繋がりの終り
私の好きな監督・俳優シリーズ
その101 パヴレ・ブコビッチ&「インモラル・ガール 秘密と嘘」/SNSの時代に憑りつく幽霊について
その102 Eva Neymann & "Pesn Pesney"/初恋は夢想の緑に取り残されて
その103 Mira Fornay & "Môj pes Killer"/スロバキア、スキンヘッドに差別の刻印
その104 クリスティナ・グロゼヴァ&「ザ・レッスン 女教師の返済」/おかねがないおかねがないおかねがないおかねがない……
その105 Corneliu Porumboiu & "Când se lasă seara peste Bucureşti sau Metabolism"/監督と女優、虚構と真実
その106 Corneliu Porumboiu &"Comoara"/ルーマニア、お宝探して掘れよ掘れ掘れ
その107 ディアステム&「フレンチ・ブラッド」/フランスは我らがフランス人のもの
その108 Andrei Ujică&"Autobiografia lui Nicolae Ceausescu"/チャウシェスクとは一体何者だったのか?
その109 Sydney Freeland&"Her Story"/女性であること、トランスジェンダーであること
その110 Birgitte Stærmose&"Værelse 304"/交錯する人生、凍てついた孤独
その111 アンネ・セウィツキー&「妹の体温」/私を受け入れて、私を愛して
その112 Mads Matthiesen&"The Model"/モデル残酷物語 in パリ
その113 Leyla Bouzid&"À peine j'ouvre les yeux"/チュニジア、彼女の歌声はアラブの春へと
その114 ヨーナス・セルベリ=アウグツセーン&"Sophelikoptern"/おばあちゃんに時計を届けるまでの1000キロくらい
その115 Aik Karapetian&"The Man in the Orange Jacket"/ラトビア、オレンジ色の階級闘争
その116 Antoine Cuypers&"Préjudice"/そして最後には生の苦しみだけが残る
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その120 サシャ・ポラック&"Zurich"/人生は虚しく、虚しく、虚しく
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