さて、私は常々ルーマニア映画界の動向を追っている訳であるが、今年のアカデミー外国語映画賞のルーマニア代表には何とブログでも紹介したアドリアン・シタル監督作「フィクサー」が選ばれることになった。記事に詳しいが、倫理観を巡るこの一作は私とルーマニア映画との関係にとってとても大きなものである故に、この采配はとても嬉しかった。そういう理由も込みで以前から私はアドリアン・シタル監督特集というものをこのブログで行いたかったのだが、あいにく彼の全長編を観る機会がなかなか存在せず後回しになっていた。だがこう書くということはである、とうとうその機会が巡ってきたということだ。さあ、早速ではあるが今回からルーマニア映画界で倫理を問い続ける俊英作家アドリアン・シタル監督特集を行っていこうと思う。まず最初は彼が2007年に製作した初監督長編“Pescuit Sportiv”を紹介していこう。
今作の主人公はミハイとミハエラ(「エリザのために」アドリアン・ティティエニ&"Marfa si banii" Ioana Flora)という男女、彼らがクーラーボックスや釣り道具を車に載せて向かう先は、ブカレストの郊外に広がる森だ。ここでピクニックを楽しもうという訳である。端から見れば彼らは年の離れた恋人同士に見えるが、事態はそう単純なものではないらしい。そしてその単純でなさによってアリ地獄に引き込まれようとは、ミハイたちは想像もしていなかった。
序盤においてシタル監督は、車内における会話を通じてミハイらの関係性を解剖していく。もう教師の仕事なんて飽き飽きだ、あの校長にはもう耐えられない……アイツに俺たちの関係を話したのか、ううんまだ、遅かれ早かれ気づかれるのに何やってるんだよ……両者とも腹に何か抱えているようで、突発的な怒りや不安がこれでもかと画面に打ちつけられていく。その間、カメラは車内からほぼ出ることはないが、このミニマルさはルーマニア映画界の巨人クリスティ・プイウの初監督作“Marfa și banii”に似ている(ミハエラ役のIoana Floraは実際出演もしている)こうして今作は“ルーマニアの新たなる波”に連なるポテンシャルを見せながらも、独自の路線へとひた走ることともなる。
情緒不安定に会話を繰り広げる2人だったが、森に着いた途端に彼らは飛び出してきた女性を轢いてしまう。気が動転したミハイたちは全てを無かったことにしようと、彼女を森へと運び捨ててしまおうとするのだが、折よくそこで彼女は目覚めてしまう。アナと名乗る女性(「オーケストラ!」マリア・ディヌレスク)を無下にも出来ず、成り行きからピクニックへと同行させる羽目になるのだったが……
序盤からも明らかであるが、この“Pescuit Sportiv”は会話劇として構成されている。川辺に辿り着いた後、ミハイは釣りにミハエラは日光浴にとそれぞれの休息を楽しむが、アナは彼らの元へとやってきてはちょっとした波乱を巻き起こす。関係は何年続いているの?何で仕事辞めちゃったの?ずかずかと土足で人の心に入り込み、機銃掃射のように言葉を浴びせていくとフラっと何処かへと去り、また戻ってきてミハイたちの心を掻き乱していく。それが繰り返されるうち、彼らの心の奥底にある泥つきが吐き気のように画面へと込み上げてくるのだ。その光景はロマン・ポランスキーの「水の中のナイフ」などを思わせるものだ。
物語を追っていくうち気づくのは、独特のカメラワークだ。それというのも今作、ホラー映画でもないのにPOV様式が起用されているのだ。Adrian Silisteanuのカメラは登場人物たちの視線と完全にシンクロしており、私たちは常に誰かの瞳を通じて人々の表情や行動を目の当たりにすることとなり、同時にカメラの震えやちょっとした移ろいによっても被写体を眼差す方の人物の機微をも知ることになる。故にとにかく会話に加え映像自体の情報量も多いのだが、それを加速させるのがシタル監督自身が手掛ける編集だ。目まぐるしいカット割りは多少の荒さを感じさせる(私としてはショーン・ベイカーの諸作を想起した)が、そこには水面下でのたうち回る感情のうねりが表されているのである。
物語には、シタル監督が一貫して追究する倫理への問いがやはり見られる。例えば職業倫理(教師という職業における理想と現実、公と私をいかに擦り合わせるのか)、性の倫理(不倫というものは許されるのか)、生命の倫理(事故に巻き込んだことを隠すべきか、もし彼女が死んでいたら?)などそういった答えを出すのが難しい問いのアマルガム的な存在こそが今作であるとも言えるだろう。この複雑な問いを体現するのがアナという謎めいた女性だ。彼女を演じるマリア・ディヌレスクはトリックスターとしてのアナをまるで無邪気な悪魔さながらの存在感で演じ、ミハイたちも、何より観客である私たちの倫理観を揺さぶりにかかる。こうして“Pescuit sportiv”は倫理的な問いの難しさ危うさを、荒々しい力を以て描き出す作品だ。そしてここで蒔かれていった種は、様々な形で豊穣を迎えることになるが、それはまた次の機会に語ることとしよう。
参考文献
http://pov.imv.au.dk/Issue_25/section_3/artc8A.html(監督インタビュー)
ルーマニア映画界を旅する
その1 Corneliu Porumboiu & "A fost sau n-a fost?"/1989年12月22日、あなたは何をしていた?
その2 Radu Jude & "Aferim!"/ルーマニア、差別の歴史をめぐる旅
その3 Corneliu Porumboiu & "Când se lasă seara peste Bucureşti sau Metabolism"/監督と女優、虚構と真実
その4 Corneliu Porumboiu &"Comoara"/ルーマニア、お宝探して掘れよ掘れ掘れ
その5 Andrei Ujică&"Autobiografia lui Nicolae Ceausescu"/チャウシェスクとは一体何者だったのか?
その6 イリンカ・カルガレアヌ&「チャック・ノリスVS共産主義」/チャック・ノリスはルーマニアを救う!
その7 トゥドール・クリスチャン・ジュルギウ&「日本からの贈り物」/父と息子、ルーマニアと日本
その8 クリスティ・プイウ&"Marfa şi Banii"/ルーマニアの新たなる波、その起源
その9 クリスティ・プイウ&「ラザレスク氏の最期」/それは命の終りであり、世界の終りであり
その10 ラドゥー・ムンテアン&"Hîrtia va fi albastrã"/革命前夜、闇の中で踏み躙られる者たち
その11 ラドゥー・ムンテアン&"Boogie"/大人になれない、子供でもいられない
その12 ラドゥー・ムンテアン&「不倫期限」/クリスマスの後、繋がりの終り
その13 クリスティ・プイウ&"Aurora"/ある平凡な殺人者についての記録
その14 Radu Jude&"Toată lumea din familia noastră"/黙って俺に娘を渡しやがれ!
その15 Paul Negoescu&"O lună în Thailandă"/今の幸せと、ありえたかもしれない幸せと
その16 Paul Negoescu&"Două lozuri"/町が朽ち お金は無くなり 年も取り
その17 Lucian Pintilie&"Duminică la ora 6"/忌まわしき40年代、来たるべき60年代
その18 Mircea Daneliuc&"Croaziera"/若者たちよ、ドナウ川で輝け!
その19 Lucian Pintilie&"Reconstituirea"/アクション、何で俺を殴ったんだよぉ、アクション、何で俺を……
その20 Lucian Pintilie&"De ce trag clopotele, Mitică?"/死と生、対話と祝祭
その21 Lucian Pintilie&"Balanța"/ああ、狂騒と不条理のチャウシェスク時代よ
その22 Ion Popescu-Gopo&"S-a furat o bombă"/ルーマニアにも核の恐怖がやってきた!
その23 Lucian Pintilie&"O vară de neuitat"/あの美しかった夏、踏みにじられた夏
その24 Lucian Pintilie&"Prea târziu"/石炭に薄汚れ 黒く染まり 闇に墜ちる
その25 Lucian Pintilie&"Terminus paradis"/狂騒の愛がルーマニアを駆ける
その26 Lucian Pintilie&"Dupa-amiaza unui torţionar"/晴れ渡る午後、ある拷問者の告白
その27 Lucian Pintilie&"Niki Ardelean, colonel în rezelva"/ああ、懐かしき社会主義の栄光よ
その28 Sebastian Mihăilescu&"Apartament interbelic, în zona superbă, ultra-centrală"/ルーマニアと日本、奇妙な交わり
その29 ミルチャ・ダネリュク&"Cursa"/ルーマニア、炭坑街に降る雨よ
その30 ルクサンドラ・ゼニデ&「テキールの奇跡」/奇跡は這いずる泥の奥から
その31 ラドゥ・ジュデ&"Cea mai fericită fată din ume"/わたしは世界で一番幸せな少女
その32 Ana Lungu&"Autoportretul unei fete cuminţi"/あなたの大切な娘はどこへ行く?
その33 ラドゥ・ジュデ&"Inimi cicatrizate"/生と死の、飽くなき饗宴
その34 Livia Ungur&"Hotel Dallas"/ダラスとルーマニアの奇妙な愛憎