さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。
そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。
2020年代に巣出つだろう未来の巨匠にインタビューをしてみた! 第2回は旧ユーゴ圏に属する国の1つであるボスニア・ヘルツェゴビナ、その国から現れた新鋭ドキュメンタリー作家Maja Novaković マヤ・ノヴァコヴィチに注目!
マヤ・ノヴァコヴィチは1987年、ボスニアのスレブレニツァに生まれた。ベオグラード大学哲学科で美術史を学んだ後、同地の学術映画センターで映画製作について学んだ。現在は博物館学・遺産学センターと数学研究所に勤務すると共に、セルゲイ・バラジャーノフについての博士論文を執筆中である。そしてその合間に映画監督としても活躍しており、そうして完成させた最新作が"A sad se spušta veče"である。今作はボスニアの村に住む2人の女性を描いたドキュメンタリーだ。彼女たちが自然と交流しながら、悠然と暮らす姿を崇高な筆致で描き出している。今作はサラエボ映画祭で上映され、話題となった。
済藤鉄腸(以下TS):最初の質問です。どうして映画監督になりたいと思ったんでしょう? そしてどのように映画監督になりましたか?
マヤ・ノヴァコヴィッチ(以下MN):私は映画監督になろうと思ったことは1度もないんです。自分が記録されたイメージでどのように実験できるか、どのように思考できるか……自分が映画界に入ったのはこの問いに対する熱狂や愛、好奇心や興味からです。例えば私は仕事の合間にこの映画("A sad se spušta veče")を作りましたが、その時間は休暇のようなものだったと思っています。何故ならその時間は私の愛するものや興味を惹くものに捧げられたというべきだからです。
TS:映画に興味を持ち始めた時、どのような作品を観ていましたか? そして当時ボスニアではどのような作品を観ることができましたか?
MN:映画に興味を持ったのは美術史を学んでいた時です。影響を受けた作品にはジャン・コクトーの「詩人の血」と「オルフェ」、セルゲイ・パラジャーノフの「ざくろの色」と「火の馬」、スロボダン・ペシチの「ハルムスの幻想」(原題:Slučaj Harms)、そしてピーター・グリーナウェイの映画が挙げられます。私は映画の中に見出せる越境性に惹かれるんです。絵画や文学、そしてそれを包括した表現法の融合のおかげで、私は映画の道に入りました。
2つ目の質問についてですが、その頃はボスニアにいませんでした。ベオグラードで学んでいたんです。だからその当時作られた映画作品については知らないんです。そして映画を選ぶ基準は映画理論や映画史からでした。
TS:あなたの作品"A sad se spušta veče"の舞台となった村はどんな場所なんでしょう? ボスニアの有名な場所、それともあなたの故郷でしょうか?
MN:この村は私の生まれ育った場所です。ポブルジェ(Pobrđe)という村で、ボスニアのブラトゥナツ(Bratunac)と呼ばれる小さな町の近くに位置しています。この場所を選んだことは私にとってとても大切なことで、なぜなら場所や人々に関する子供の頃の思い出を映像化するにあたってそこに多くを頼っていたからです。自然や風景、田舎における生活や習慣は私にとってとても近く愛すべきものであり、これらに親しんでいたことで撮影場所を探す手間を省けました。多くのショットにおいて、私はベオグラードに居た時点からスケッチを描いていました。というのもその光景を憶えていたからです。例えば映画の一番最初のショット、そこに映る小川で私はラズベリーを採っていたんです。それから夕暮れのたびに、それを彩っている、空と大地が分かれたあの風景を捉えることができたらどんなに素晴らしいかと想像していました。そんな子供の頃のたくさんの思い出を、私は映像化して忘却から救いたかったんです。
TS:まず印象的だったのは女性たちの身体性を捉える、あなたの方法論です。例えばリンゴを切る時の手、大地を歩く時の足、儀式を行う時の顔……あなたはどのようにして彼女たちの身体や身体性を捉えていったんでしょう?
MN:今作において、手を強調するのは重要なことでした。手は女性たちの人生や力、仕事を反映していたからです。私は手が彼女たちの肖像画として結実するようにしたかったんです。今作で、女性たち2人がまず一緒に登場する時、顔の代りに手が出てきます。下から映し出される彼女たちの輪郭と共に、肖像画としての手に近づく事で、私は彼女たちの力と性格、そして朽ちることのない人生について描きたかったんです。
リンゴを切る場面は他の場面にも出てきますが、静物画のモチーフに依拠しています。いわゆるヴァニタスの精神、儚さに光を当てたかったんです。そして人生に満ちる空気感や内面世界に広がる親密性を描きたいという目的もありました。
TS:この映画には多くの動物が出てきますね。中でも印象的だったのはアリたちです。彼らはリンゴの上を歩き、女性のまっさらな裸足の上で群れを成します。彼らは、村やボスニア、もしくはあなたにとって特別な意味を持っているんですか?
MN:この場面は映画の出発点を示しています。つまり田舎の片隅における日常を描き出すこと、自然と人間を結い合わせ繋げていくということです。その環境において、人間の営みは高められ、小宇宙と融合を遂げていきます。自然の中の営みは単調であるにも関わらず、平凡さの影から何かを見出し、周囲に広がる大いなる生について考えを巡らせたならば、素晴らしくも脆い世界を発見することができるでしょう。
TS:今作の核は2人の女性の関係性です。ほとんど言葉はないながら、彼女たちが心で通じ合っていることが映画からは伺えます。どのように彼女を見つけたのでしょう?
MN:そうです。女性たちの親密さ、純粋さ、そして思いやりは今作において際立っています。言語的な交流がなしに彼女たちはこの親密さを紡ぎ出しています。沈黙と営みの中でこそ会話をするんです、もはや言葉を必要とはしてないからこそ。私は言葉に煩わされることなく彼女たちの人生の一部を描き出したかったんです。
その関係性における親密さに1つ付け加えると、同じことは自然との関係に言えます。彼女たちが構築する唯一の関係性の相手は自然と動物です。自然こそが彼女たちの交流相手なんです。
どうやって彼女たちを見つけたかについてですが、私は彼女たちと同じ村で育ちました。小さかった頃、姉や妹たちを連れだって丘を登っていきました。オブレニャ――年上の方の女性です――と一緒に羊を世話するためです。彼女たちの思いについて想像を巡らせるのはいつでも興味深いことでした。羊の群れと一緒に牧草地を日々を過ごす時、彼女たちは一体何を考えているんだろう? 一緒に時間を過ごすうち、タンポポやアリ、他の昆虫や草花がどう生きるかを学びました。
TS:あなたの作品を観ると、あの女性たちについてもっと知りたくなります。映画からだけでは知ることのできない彼女たちの人生や歴史について教えて頂けますか。
MN:2人の女性、オブレニャとヴィンカは丘で過ごしています。彼女たちはそこの唯一の住民で、2月の初めから雪が降るまで住んでいます。年上のオブレニャが残りの人生を、若い頃に過ごした家で過ごしたいと望んだからなんです。彼女たちは丘で作物を育て、家畜の世話をしています。だけども今年はオブレニャが亡くなってしまい、この営みは行われませんでした。現在、ヴィンカは家族とともに暮らしています。
観客は思うのとは逆に、彼女たちは母娘という訳ではありません。血の繋がりはないんです。だけども同じ親族の別の世代に属する男性と結婚しています。2人とも未亡人で、若い方のヴィンカがオブレニャの世話を引き受けていた訳です。
TS:現在のボスニア映画界はどんな状況でしょう? 外から見ると、その状況はいいものに見えます。新しい才能が有名な映画祭に現れているからです。例えばロッテルダムのEna Sendijarević エナ・センディヤレヴィチ(彼女についてはこの記事を参照)、カルロヴィ・ヴァリのAlen Drljević アレン・ドルリェヴィチ(彼についてはこの記事を参照)などです。しかし内側からだと現在の状況はどのように見えているのでしょう?
MN:ボスニア映画の現状についてはあまり多くを語れません。あなたの言及した監督の作品も観ていませんからね。
しかし、羨ましい状況にあるとは言えませんね。友人の話によると、意気を挫くような良くない状況ができていて、若い監督たちは孤立しているそうです。現状として若者たちがボスニアを離れているというのがあります、私含めてですが。個人的な経験から語ると、ボスニアにおいて芸術や文化は周縁のものであり、財政的な支援においても不公平な状況が広がっています。
TS:日本の映画好きがボスニアの映画史を知りたい時、どのボスニア映画を観るべきでしょう? その理由も教えて下さい。
MN:好きな作品はたくさんありますが、その中でも1本を選びましょう。それはIvica Matić イヴィツァ・マティチ監督の"Žena s krajolikom"です。今作の中では、芸術と自然が結い合わされています・絵画を通じて、監督は人生を描いているんです。 そして彼はIsmet Ajanović イスメット・アヤノヴィチ(ボスニアの有名な画家)の繊細な絵画を使って、風景を構成してもいます。森の管理人が風景を通じて彼の絵画を描き出す時、2つは溶け合い1つになるんです。芸術家と社会の軋轢、芸術家が自由と正義を求める姿が美しく描かれています。思い出すのはジョージアの映画監督ゲオルギー・シェンゲラーヤの「放浪の画家ピロスマニ」です。両作品とも繊細な絵画を通じて物語を語り、芸術家と社会の間に横たわる不理解を描いていますね。監督はボスニアに広がる風景を垣間見て、それを映画の枠に閉じ込めてみせました。今作は画架に立てかけられた映画なんです。