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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

言葉のなかを、死者が歩く~Interview with Yotam Ben-David

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今回インタビューしたのはイスラエル人映画監督であるYotam Ben-David ヨタム・ベン=ダヴィだ。彼は元々イスラエルで映画を製作していたが、アーティスト・レジデンスに参加しルーマニアの小さな村へと赴いた。ここで制作されたのが今回紹介する短編"Have you seen that man?"である。ある日男の死体を見つけた子供たちは、村の家々を回り彼について尋ねていく。老女たちは彼にまつわる様々な事柄について話し、物語は複雑なものとなっていく。口承という文化を背景とした本作はどこか不穏で、謎めいた質感を持っている。ルーマニアという国が持つ無二の神秘性を捉えたかのようだ。という訳で今回は彼に映画にまつわるアレコレや、彼にとって完全な異国であるルーマニアについての印象を聞いてみた。それではどうぞ(ちなみにクロアチアの映画雑誌Duartでは英語版のインタビューが読めるので、良かったらこっちもどうぞ)

済藤鉄腸(TS);まず何故映画監督になろうと思ったんですか? そしてそれをどのように成し遂げましたか?

ヨタム・ベン=ダヴィド(YD):子供の頃は映画監督というものが何なのか、彼らが何をしているのか理解するのは難しいでしょう。最初私は俳優になりたくて舞台を作るなどしていたんですが、それが実際には監督するという行為だったと知らないままに映画製作を夢見ていたんです。インディーズ映画を作るにはこの経験は良い練習となりました。あるものだけで作品を作るということを実践できたからです。私は映画が好きで――特にミュージカル――執拗なまでに作品を観続け暗記するほどでした。十代になった時、映画を監督するとは何なのかを理解し、自分が興味あるのは演技ではないことに気づきました。私がやりたいのは世界を、瞬間瞬間を、イメージを作ることだと気づいたんです。同じ頃、私はエルサレムの高校の隣にあったシネマテークで映画を観始めました。私は町から離れたところに住んでおり、高校が終わった後村からの迎えが来るまで、長い間待つ必要がありました。だから映画館で暇を潰していた訳です。そこで出会った映画たちを通じて――上映されるものは何でも観ていました――映画は娯楽以上のものだと理解したんです。映画は他の芸術ができないやり方で、世界に関する何かを表現することのできる複雑な芸術体系だと分かった訳です。

TS:映画に興味を持ちはじめた頃、どんな作品を観ていましたか?

YD:映画が感情や考えを表現するに広大な可能性を持つと理解した時、私はこのタイプの表現を探し求めました。そして突如私は異なる視点の数々、例えば異なる時代設定や文化、野性的な想像力から残酷なリアリズムといったもの晒されることになりました。そしてそこにはこの芸術体系においては表現に相当の自由さがあると知りました。今まで観ることのできなかったものを観るようになったと同時に、私にとって新しい観点から作品を観るようになったんです。思うに世界を経験する方法を拡大するにはとても興味深い(そして政治的な)方法だと思うんです。映画は人生の最も繊細で見過ごされている質感を守り、そのための自由を作ることができ、他の芸術ができない方法でそれらを保つことができるんです。それは人間がもはや話せない言語、もしくは風が木をすり抜ける風景を彷彿とさせる何か、もしくは私たちがある時感じていたのに今や感じなくなったフィーリングのようです。私の映画への関心はいつも進化のなかにこそあり、人生において自分がどこにいるか、世界はどこにあるのかに関わってきます。しかし私は世界に関わるための新しく、反抗的な方法を探すことにも大きな情熱を持っています。

TS:あなたの短編作品"Have you seen that man?"の始まりは一体何でしょうか? あなた自身の経験、何かの民話、もしくは他の事柄でしょうか・

YD:私はマルセイユ国際映画祭で上映した前作"Thunder from the Sea"でレジデンスを獲得したんですが、そのレジデンスの10日間で今作は作られました。私は他の監督2人とルーマニアのスロンという村に招かれ、そこで映画を撮影しました。それはとても驚くべき物事の転換であり、何故なら私の映画はずっとイスラエルにある私の故郷で、家族や友人の助けを借りて撮影されたものだったからです。なので最も近く親密で環境で/について描く映画を作るところから、初めて来た国で映画を撮影するということになるのは大きな変化でした。レジデンスは、村では何が可能か、ロケーションに関する幾つかの写真、村民のなかで誰が俳優をやってもいいか、そういった最初の情報を与えられたのみで始められました。しかし残り――例えばロケーション探し、オーディション、その他のプレプロは村に滞在する10日間で行う必要がありました。撮影に至っては3日しか使えませんでした。どんな映画を撮影するにしてもとても密な状況で、到着したばかりの場所で映画を作るなど不可能なように思えました。私はこういった状況にも関わらず、訪問者として、そして映画作家として、やってきたこの場所に対して敬意ある、自分にとって興味深い作品を作りたかったんです。到着する数か月前から脚本に関しては準備していて、願わくば可能な限り準備してから村に来たかった訳ですが、同時に場所を見つけたり色々と調整する余裕も残しておきたいと思っていました。運の悪いことに、村に到着した時私はこの場所が執筆しておいた脚本を撮影するには相応しくない場所だと悟り、なので最初の数日で脚本を調整しようと思ったんですが、最終的に放棄せざるを得ませんでした。その時が撮影開始2日前です。そんな時に新しく脚本を執筆する羽目になりました。結局慎重に計画を立て準備する代わりに、映画はもっと本能的な場所、チャレンジングで不満は溜まりながら、同時にとても解放感ある場所から生まれたという訳です。

TS:あなたはFacebookでこう仰っていましたね。"喋れない言語や未知の文化に囲まれて映画を作るのはチャレンジだった"と。ではどうして新しい冒険のためにこのルーマニアを選んだのでしょう? ルーマニアの何に心を惹かれたのでしょうか?

YD:ルーマニアが私を選んだと言ってもいいでしょう。逆ではないんです。ルーマニア映画が好きなんです。いわゆる"ルーマニアの新しい波"と呼ばれる作品は、映画学校で学んでいる頃から大きな影響を受けてきました。先に言った通り、私は自分の文化や経験に根差したとても個人的な映画をいつも作っています。なのでこの映画を作り、そこに感情的繋がりを感じるには、私のルーツである場所とルーマニアに共通性を見出す必要がありました。驚くことにそれは難しいことではなかったんです。ルーマニアイスラエルの文化における精神性には近似性を感じるんです。イスラエルにはルーマニアに祖先をもつユダヤ人がたくさんいることは勿論のこと、ルーマニア料理もまた家庭やレストランで多く見られるんです。Ana Draghici アナ・ドラギチ (今作の撮影監督です)とはマネレというトルコとギリシャ文化に影響を受けた音楽について、そしてイスラエルにも同じようなジャンルの音楽があることについて話しました――両方とも社会の最も貧しく、抑圧された部分で成長したアンダーグラウンドな文化なんです――最後の曲はその文化へのトリビュートなんです。そして私の祖母がルーマニアにルーツを持つことも知りました(ルーマニア人のスタッフは彼女の故郷出身の人々にまつわる面白いステレオタイプについても教えてくれました)ゆえに今作は2つの国の相性を探し求める過程とも言え、文化の懸け橋となってくれたルーマニアのスタッフのおかげで、製作はより簡単になりました。5年間パリに住んだ後、私の故郷と同じく人々が直接的でほとんど残酷なまでに正直な場所に滞在するのは心落ち着く体験となりました。

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TS;今作を観た時、観客はこの美しい村に興味を抱くことでしょう。この場所は一体どこでしょう? ルーマニアにおいては有名な場所なんでしょうか?

YD:名前はスロンといい、ブカレストから1時間半ほど離れた山間部に位置する、とても小さな村です。短い滞在の間、都市部に程近い場所に住む人々でもここを知っている訳ではないなという印象を受けました。何故なら本当に小さな村だからです。村を歩きまわり人々と話すなかで最も関心を抱いたことは、ここではどれほど伝統的な生活様式が残っているのかです。しかし多くの人々――特に若者たちが去っていった被害をこの村は受けているなと思えました。ここでは90歳の老女がどこから湧いてくるか分からないエネルギーを携え、朝5時から働いています。重い荷物を運びながら険しい山道を進んでいるんです。しかし同時に男性や若者をあまり見かけないことにも気づくでしょう。その多くが出稼ぎのため海外や都市部に行ってしまった訳です。自身の国を去った者として、私もそれに深く共鳴します、このゆっくりとした崩壊に。このタイプの人間の行動は今私たちの世界が経験している過程を象徴しているように思われます。もっと多くの人々が都市部へと出ていき、株式会社やアメリカの植民地主義が徐々に文化を乗っとりその存在を消し去ってしまうにつれ、言語や民話、神話的な信条も消えていくんです。これが今作の核な訳です。

TS:今作のファーストショットは最も印象深いものの1つです。紫色の空の下、1本の巨大な木が静かに立っています。しかしその台地には男の死体が倒れています。このシークエンスは19世紀に描かれた不穏な絵画のようです。この不穏なショットをファーストショットとしたのはどのような経緯があるのでしょう?

YD:私の映画はよくイメージから始まり、その後に物語が紡がれていくんです。今作の場合は先に言った通り、映画を製作する上で今まで経験したことのない状況と対峙せざるを得ませんでした。撮影の2日前に脚本を書かなくてはならなかったんです。なのでいつもとは全く執筆の過程が違い、考えやアイデアを何とか掻きあつめ、どう一貫する創造物を作りだすか苦慮する必要がありました。まずインスパイアされたのは村そのものです。そこにはほとんど中世的なもの、少しばかり神話的なものが存在していました。人々は伝統的な方法で農業を行い、小さな家々は同様の伝統的な技術で建てられ、村民たちは移動のために隣人の庭を通っていくなどです。全く未知の場所で映画を作るにあたって、私は今作を完全にはリアルなものにはしたくなかった、そして記録というよりも印象であることが明確であるべきだと思ったんです。なので過去に作った作品とは違い、私自身をいつもは距離を取っていた類の映画へ近づけようとした訳です。例えば死体や神話的な力の可能性についてです。新しいアイデアを探すため、私はルーマニアの神話についての物語をたくさん読み、キリスト教における図像画を鑑賞しました。それが人々の家や村の美しい教会においてはとても支配的だったんです。それからチェーホフの短編をいくつか読みながら、それをこの小さな村に適用できるかを考えました。これは想像力を刺激する試みの過程であり、短時間でどこかに到達できる祈ってもいました。そうすることであのオープニングと死人の男に辿りつき、村を行く火の流れや物語ができあがり、映画が意味を成してきました。それでも編集室に行くまでは実際に機能するか全く分からなかったんです。

TS:そしてAna Draghiciによる撮影も印象的です。自然光と炎を駆使し、彼女は村や登場人物の表情を息を呑むような、不穏な形で描きだしていきます。Draghiciとともに、この撮影様式をどのように組みたてていったんでしょう? そしてルーマニア映画界において最も将来性と才能あるカメラマン、Draghiciとのコラボレーションはどういったものでしたか? 何か撮影の裏話はありますか?

YD:Anaと働くのは素晴らしいことでした。彼女の経験と才能によって私たちは交流を深め、すぐに友人関係になることできたんです。何を撮るか分かっていない時点でも、映画においては似た趣味を、世界に関してはある1つの視点を共有していると理解できました。彼女も私のビジョンをすぐに理解してくれました。脚本はあの死者についてと同じように、あるショットから組みたてられていきました。明かりの使い方は前作において親しんでいた手法だったんです。私は明かりや炎を、映画を観るにあたっての探求に関しての道行きにおいて主要な役割を果たす道具として使っていたんです。私としてはこの美学的手法をどう発展させられるかを見極めたく、限られた方法しか無かったゆえに私たちはビジョンが野心的すぎてしまうのではないかと心配もしていました。しかしAnaはプロフェッショナルであり、完璧主義者であったゆえに、リスクを犯すことを恐れず、作品をとても美しいものにしてくれました。探しているものが見つかるまで、カメラや照明に関してはテストを続けましたね。しかし私たちは撮影を楽しんでもいて、どちらかが興味深いものを発見したなら、毎回試していました。慎重に計画されたアイデアによって裏打ちされた仕事も好きですが、軽快さや驚きも好きで、そういう意味ではAnaは完璧な共犯者でした。他にも美学の子tなる2作の準備と撮影に追われていたゆえ、彼女の仕事は簡単なものではありませんでした。それでも彼女は私たちの作品に深く関わってくれて、プロ意識とその性格も今作に捧げてくれました。それこそが俳優たち――特に老女たちです――が安心して私たちを信じてくれるために重要な役割を果たしてくれたんです。

TS:あなたがどう脚本を執筆したかに興味があります。今作において子供たちは老女たちに死者の男について尋ね、彼女たちは彼のことを語りますが、そうして情報は複雑化していきます。この様式はまるで口承文学を紡いでいくかのようです。どのように脚本は執筆されたんでしょう? ルーマニアの民話に触発されなどしましたか?

YD:あなたが口承文学という言葉を使ってくれたことに感謝します。人々が物語を語り、その積み重ねが1つの肖像画を作り出す。この手法は他の作品においても同様に駆使していたものでした。ユダヤの伝統においては口伝律法という考え(ここには過熱した議論があります)が存在し、ユダヤ文化においての核ともなっています。私にとってこの考えはとても美しいものでした。これは伝統や歴史において次世代への継承という責任性を強調すると同時に、人々の間におけるアクティブな行為として際立っています。誤解と間違いに対しても開かれており、それが美しいです。特にデジタル化された情報と統計学の時代においては、それこそが人間的です。そして普通歴史というものは、何が大切か、何が保存されるべきか、何が歴史と呼ばれるべきかそうでないか、これを決められる権力者の手にあるゆえに、すこぶる政治的な行為でもあるんです。ここにおいて口伝えで歴史を継承していくことで、それは自身の語りを持ち、保存する人々に委ねられる訳です。映画も広く伝えられる歴史と同じように継承されていくんです。

今作の脚本に関しては、より開かれたものを書いたんです。構成と映像に関するアイデア、そして中心となる問題がある。私たちは村の女性たちの元へ行き、物語について尋ね、多くの異なる話を聞いたうえで、最良の物語と最良の語り手とともに語りを組みたてていくんです。この問題に関する開かれ方、そしてどのようにお互いに関連しあう異なる物語と異なる答えを私たちが聞くことになるか、それが気にいっています。そしてユダヤ教における休日の聖歌に見られる類の問いの反復も好きです。問いが何度も何度も反復されながら、答えは変わっていき、層が厚くなっていく訳です。詩やフォークにより近い何かを創造するために短編を作るという考えが気にいってますね。意味や解釈が時や言葉の繋がりにこそ宿っていながら、良い詩のようにこの繋がりを解釈するやり方が幾つもあるんです。最良の詩、文学、それに映画は開かれた可能性、完全には明かされていない何かを残している、それが重要な訳です。そしてこの計画自体が複数の意味で混沌に満ち、ランダムでもあります――ルーマニアの小さな村で映画を撮影するというアイデアから始まり、多くのことが自分ではコントロールできなくなり、そこでは私はこの混沌をさらに抱き、映画の一部分として余裕を作ろうと決意しました。それこそが人生それ自体の混沌とランダム性に共鳴する訳です。

TS:新しい短編、もしくは長編を作る予定はありますか? もしあるなら、ぜひ読者に教えてください。

YD:現在幾つかの計画に取り組んでいます。全てが不確定になった現在、未来やそれにまつわる美術的表現について創造し創造することは簡単なことではありませんが。まず制作会社La Belle AffaireのJèrôme Blesson ジェロームブレッソンが制作を担当する、私にとって初の長編映画"Over Time and Distance"の資金調達をしています。私たちは去年カンヌのL'atelier Cinefondationで計画について発表することになり、現在は資金調達の真っ最中です。今作は恋人である男性との別れに直面する青年が自身の故郷で暮らす未来について疑い始めるという物語です。彼の母はこの地域、そして国における政治的過去に憑りつかれており、それが原因で結婚も破綻しました。舞台はエルサレムとテルアビブの間にある私の育った村で、今回の短編に似て口承される歴史をモチーフにしています。描く方法は違いますが。それからパリを移民にとってのバビロンとして描く映画にも取り組んでいますが、どうなるか話すにはまだ尚早ですね。

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