鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

済藤鉄腸の2021年映画ベスト!!!!!

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昨年に引き続き、世界がコロナウイルスという禍に翻弄された年だった。だが私にはそれ以上の激動があった。4月にクローン病という腸の難病と診断されたのだ。免疫が異常を起こし、腸で炎症が起こり続ける、永遠に。このせいで食事が著しく制限され、行為自体に苦痛を抱くようになった。とはいえここは映画を語る場だ、これ以上語るのは止めにしよう。それでも、命に直接関わるような病ではないとしても、難病で一生治ることはない。死について考えざるを得なかった。

そんななかで興味深いことが起きる。そもそもが半引きこもり状態で仕事もほぼしていなかったが、難病によって絶対安静を余儀なくされ、かつ病院で処方される大量の薬を毎日飲むうち、腸以外の健康が劇的に回復したのだ。このありあまる元気、そして病や死への恐怖感、これが私のなかで組合わさることで、他人の作品を紹介するより、自分の生きた証を残したいという欲望が爆裂を遂げた。そして4月から今にかけて、日本語で短編小説を70本、クローン病に関するエッセイのような文章を30本、ルーマニア語にも作品を翻訳し4本が掲載され、かつルーマニア語で詩も書き始め、その果てにルーマニアで詩人としても認められることになった。こう振り返ると、去年にも増して、生き急ぐような創作欲の漲りだったように思える。

小説や詩を大量に書くと同時に、今までになく本も読むようになった。しかし小説や映画批評など、前々から読んでいた本はあまり読まなくなった。代わりに何を読み始めたかといえば建築学量子力学、動物学、経済学といった、2つから相当に遠い分野の書籍だった。今までに600冊は読みこなし、6月からは読書ノートも記し始め、現在は5冊目のノートに熱力学の研究書、それにファラデーとマクスウェルの伝記についてのメモを記している。

この1年は、前々から私がほとんど心酔していたE. M. シオランの存在感がよりいっそう増したが、壮絶な濫読経験において殊更に響く言葉があった。

“駄目な詩人がいっそう駄目になるのは、詩人の書くものしか読まぬからである(駄目な哲学者が哲学者のものしか読まないのと同じことだ)。植物学や地質学の本の方が、はるかに豊かな栄養を恵んでくれる。人は、自分の専門を遠く離れたものに親しまないかぎり、豊穣にはなれない”

これが全く真理だと私が思った理由は、この読書体験が、映画批評家として映画を観て、そしてそれについて書くという行為にも多大なる影響を与えたということだ。今までも他の人間が、少なくとも他の日本人が観ない類いの映画ばかりを観てきたと思っているが、この好奇心というものが更に拡大していき、今までとはまた異なる作品に魅力を見出だすことになった。そして批評に関しても、特に建築学に影響を受け、この知をいかに批評に込められるなどについてよく考えるようになった。だが、これに関しては別の記事に譲ろう。

さて、今回ここに選んだ20本の作品はクローン病によってもたらされた激動と、そこから始まった、私が別の何かへと変貌を遂げる過渡の期において、標となってくれた作品だ。私はこの素晴らしい映画の数々を頼りとして、今ここに辿り着いたのだ。この記事を以て、深く感謝したい。

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20. “Patchwork” (Petros Charalambous、キプロス)

今作において、アンゲリキ・パプーリァの炎は思わぬ輝きを見せる。書いてきた通り、ハラは神経衰弱ギリギリの危険な状態にある人物であり、メリナとの交流に不気味さすら宿る瞬間がある。だがそんな絶望の袋小路に迷いそうになりながら、パプーリァはハラを救おうとする。その心に寄り添いながら、辛くとも現実を見据えなくてならないと諭していく。この過程で、パプーリァの炎はかけがえのない暖かさとしてスクリーンに滲んでいき、そして誰かの心を包みこんでいく。これを引き出す監督の手腕も素晴らしいが、やはり何よりもパプーリァの類い稀な演技が最も素晴らしいというのは否定しがたいだろう。この“Patchwork”Petros Charalambousというキプロス映画期待の星の到来を告げるとともに、アンゲリキ・パプーリァという希代の俳優を祝福するような作品でもある。

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19.「シャン・チー/テン・リングスの伝説」(デスティン・ダニエル・クレットン、アメリカ)

拳撃と蹴撃、跳躍と疾走。古より今に中国が培ってきた言語、文化。その肉体と歴史の流れに、Marvelという流れが重なる。血に停滞した古さを断ち切りながら、そこに囚われた大切なものも救う意志によってそれが新しさとして今再び現れる。その様は開かれ、しかもしなやかだ。映画監督デスティン・ダニエル・クレットン、家族の外に繋がりの可能性を見出す一方(「ショートターム」)で、家族への愛着をも切り捨てることができない(「ガラスの城の約束」)そうして、新しさと古さに引裂かれ、葛藤をそのままブチ撒けざるを得なかった彼が、家族を核とする流れについての物語を描きだすこと、必然だった。Marvelに新しい息吹を宿した1作。

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18.“Senior Citizen” (Marinos Kartikkis、キプロス)

人間は長く生き続けるかぎり老いていく、この運命は絶対に避けることができないだろう。肉体は朽ちていき、精神は磨耗していく。そして最後には全てが朽ち果てるのみだ。そんな老いという最後の旅路のなかに、救いというものは存在し得るのだろうか? 今作はそんな問いを観客である提示するが、そこに私が見出だしたものがある。人生には必ず終わりがある、死によって生は絶対に終わることとなる。だがその周りには数限りない、他者の生が存在している。1つの死の後にも、その無数の生は続いていくのだ……これは希望だろうか、それとも諦めでしかないのか。これはおそらく、私たち自身に死に訪れるまで考え続けなければならないのだろう。少なくともこの勇気を“Senior Citizenという作品はもたらしてくれるはずだ。

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17. "A nuvem rosa" (Iuli Gerbese、ブラジル)

命を奪う桃色の雲、それによって密室へ追いつめられた男女を通じ、今作が描きだすのはなし崩しの生活、なし崩しの妊娠、なし崩しの家族、なし崩しの死。そんなコロナ禍が齎すかもしれない陰鬱な未来が、10年20年単位で綴られる様の残酷さたるや、コロナ禍の将来を悲観する人は絶対観てはいけないと忠告したくなるほどだ。今、コロナ禍へダイレクトに返答する映画も現れているが、それらが割かし小局的な視点から綴られるミニマルな作品なのに対して、今作は終らない閉塞を10年20年スパンで描いているのが痛烈だった。2019年に撮影完了と、コロナ禍とは全く関わりない状況で作られた故だろう偶然が今に、より恐ろしく響く。

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16.「遠い場所から」(石名遥、日本)

大切な人の死の後にこそ広がる風景、これを描きだす芸術作品はそう少なくない。死とは人の生に最も近い他人であるが故に、その他者性に惹かれる者が後を絶たない。だがこのテーマに安易に取り組んだ芸術家の死骸の数々を私たちは幾ら見てきただろうか。だがこの死屍累々から英雄が現れる数少ない瞬間を、私は目撃することになる。それこそが石名遥監督作「遠い場所から」だった。感動的なのは、監督の演出や積み重ねていくディテールは豊穣で明確なものでありながらも、描きだそうとするのは"割りきれなさ"という極めて曖昧なものだからだ。イオリ含め家族は父を単純に嫌うこともできず、かといって愛することもできない。この単純な思いのあわいにあるものをどうすればいいのか?ということが今作のテーマなのである。監督はこれに明らかな答えを与えることはなく、曖昧なものを曖昧なままにしたうえで、その奥へ奥へと深く潜行しようとする。この真摯さが私たちの心を静寂の中でこそ震わせる。

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15. "Las vacaciones de Hilda" (Agustín Banchero、ウルグアイ)

Agustín Bancheroが今作によって描きだそうとするのは、ヒルダという中年女性が抱える痛みであり、私たちがそこに見いだすのは凍てついた孤独であり、かつての愛の残骸であり、確かに手にしていたはずの幸せの残り香だ。そしてそれはまた、私たちが抱くことになるかもしれない、抱いたことのあるのかもしれない、ただひたすらな、生きることの寂しさでもあるのだ。これが癒される時はいつか来るのか? この問いに対する安易な答えを、ヒルダが最後に見る風景は強く拒むことになるだろう。それほどまでに孤独とは途方もないものなのだ。

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14. “Crai nou” (Alina Grigore、ルーマニア)

この"Crai nou"というルーマニア映画には"iad"というルーマニア語が似合う、つまり"地獄"という意味を持つ言葉が。徹底的に被害者として虐げられてきた女性が、この抑圧的社会で生存するがために、他者を傷つける加害者として振舞うことになる。そして実際に加害者ともなり、この2つの概念の狭間、凄まじく危うい領域に迷っていくのだ。ここにおいて私たちは問わざるを得なくなる、こうしてしかこの世界において弱者は生きることができないのか?と。そんな絶対的な絶望がここにはある。

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13. "Sweetie, You Won't Believe It" (Ernar Nurgaliev、カザフスタン)

今作はいわゆる犯罪コメディやホラーコメディと表現できる1作だ。だが演出を見ていって分かるのは、作り手側の映画史への深い造詣だろう。前述のジャンル映画の流れを学び汲んでいくだけでも、面白い作品はできるだろうが、その埒外にある映画を観てその技術を吸収し、取り入れていく、これがジャンル映画を更に深化させることもある。笑う者もいるだろうが、今作において語りに厭味なく嵌った華麗な横移動撮影を観るたび、私は長きに渡るこの撮影法の歴史に思いを馳せた。そういった映画史の蓄積を今作には感じたのだ。"Sweetie, You Won't Believe It"はホラーコメディ、そしてジャンル映画の持つ喜びをトコトン突き詰めた破格の1作だ。シッチェス映画祭でも絶賛された今作とその監督Ernar Nurgaliev2020年代のジャンル映画界に現れた輝く彗星だ、きっと未来を更に血みどろ肉塊まみれにしてくれるに違いない。

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12. “Blind Love” (Damien Hauser、ケニア)

一言で言うならば、今作は自由すぎる。監督は物語に、ここでは絶対にネタバレしたくない様々な要素を闇鍋的にブチこんでいき、整合性などかなぐり捨てたような何だか凄まじいものを提示してくる。そして観客を予想もできない地点へ連れていってしまう。少なくとも私は後半部から驚愕の連続で、口をあんぐり開けるしかなかった。正直今でもその衝撃が抑えられないでいる。あの微笑ましいロマンティック・コメディがまさかこんなことになってしまうなんて、と。毎年、私は自分でも呆れるほど大量の映画を観ており、今年も世界各国の映画を観まくってきたわけだが、“Blind Love”は間違いなく今年1番の問題作だ。本当に必見である。いやマジで何だったんだ、あの映画一体……

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11.「スーパーヒーロー戦記」(田崎竜太、日本)

“物語の作り手=神”という古風な考えに拠りすぎも、仮面ライダーセイバーの設定を縦横無尽に駆使し、メタに次ぐメタの過激な語りを極めていく。果てに、現実を生きるため物語を紡ぐ意志、死の先にこそ続く物語の可能性、その全てへの祝福が語られる。日本でしか作られ得ない無限がここにはあった。今作を観た際、10年後に2020年代ベストを語るにあたり絶対に語り逃してはならない作品が現れたと思わされた。仮面ライダージオウ Over Quartzer」が特撮メタ語りの絶頂かと思えば、終わらねえよと脳髄ブン殴られたような衝撃を喰らわされたんだった。だがそういうのを度外視したとして……最後に現れる藤岡弘、彼のセリフで隣の席の方が泣いていたが、私も泣いたよ。いや、泣くでしょう、あれは。特撮と歩んできた人生が、本当に走馬灯みたいに流れていった。

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10. “France” (ブリュノ・デュモン、フランス)

この"France"という作品は白人の業を描いた、薄気味悪い映画だ。それなのに私はレア・セドゥ演じるフランスに私は反感だけでなく、共感すらも抱いた。そして気づいたのは私は芸術家として、この共感と反感の危うい狭間にこそ近づきたいということだった。人間とは誰しも完璧な共感の対象、完璧な反感の対象とはなり得ない。人生においてこれは混じりあう。だが人生を芸術として描こうとすると、どこか一部分を切り取らざるを得ず、描かれるのは人間であるのに、完璧な共感の対象、完璧な反感の対象に堕してしまう。だが芸術家としてそここそ避けなければならないものだ。何故なら2つの狭間、そこにこそ人間存在という糞便が現れるのだから。ゆえに私はカラックス"Annette"の安易な共感の放棄よりも、デュモンの"France"のこの突き詰められた糞を推す。

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9. “Un endroit silencieux” (Elitza Gueorguieva、ブルガリア/ベラルーシ)

クローン病自閉症スペクトラム障害という不治の病を持つ私が世界の映画を観たり、言語を学んだり、世界旅行のようなものだ。その意味で私にとって最も大いなる旅は、ルーマニア語で小説を書いている、つまりはルーマニアで小説家として活動しているということだろう。自分でもどうしてこんなことになっているのかよく分からないが、そんなことよりもルーマニア語という母国語以外の新しい言語で書くことを私は楽しんでいる。そしてその作品が他でもないルーマニアの人々に認められたことは一生の誇りだ。つまりはそういう喜びを、この“Un endroit silencieux”を観ながら、私は再び感じることができた。だからこの映画に感謝したいのだ。

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8. “Directamente para video” (Emilio Silva Torres、ウルグアイ)

今作を観るというのは、ある人間の心のうちに存在している、底の知れない迷宮を旅するようなものだった。それは人間心理それ自体の暗黒ともいうべきなのだろうか? これを十全に表現できる言葉を私は見つけられていないのだが、いや本当にそれほどの驚くべき現実を“Directamente para video”という作品は提示しているのである。VHS、そしてZ級映画の魔というべきものを炙りだす、私にとって本当に忘れ難い1作となる作品だった。今後もう一生忘れられないのではという予感にすら苛まれている。Emilio Silva Torresという監督は何て劇物を作ってしまったのかと、私は全く驚くしかない。

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7. “Advokatas” (Romas Zabarauskas、リトアニア)

富も名声も手に入れた白人シスゲイ男性であるマリユス、激動のシリアから逃れて難民となったアラブ系のバイ男性であるアリ。アリへの愛を貫こうとするマリユスに立ち塞がるのは難民の現実、何より彼自身の特権性と独善性。それでもマリユスはNGO団体やアクティビストの言葉に学んでいき、愛する人と対話を繰り返し、差別と苦難の先へ手を伸ばす。"Advokatas"は世界に満ちる悲しみと残酷を相手取り繰り広げられる、珠玉のゲイロマンスだ。故に彼らが最後に行う選択、これは本当にずっと、ずっと考えていくしかないものだろう。だがだからこそ、この作品は今作られなければならなかった誠実さについての映画となったと、私は言いたい。

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6. “Topology of Sirens” (Jonathan Davies、アメリカ)

亡くなった叔母の家に引っ越してきた主人公が、彼女の所有する楽器の中に小さなカセットテープを見つけ、その謎を追う……というあらすじだが、そんな探偵もののようなあらすじから想像もできない領域へ本作は展開していく。広がっていく空間、その中に満ちていく響き、そして心は安堵と不穏のあわいを揺蕩いながら、音に溶けていく。実験音楽への胸を打つ愛が、記憶を追い求めるささやかな旅路を通じ、世界への大いなる優しさへ変わっていく。本当に、本当に私にとってかけがえのない1作になった。

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5. “Interfon 15” (Andrei Epure、ルーマニア)

2021年はルーマニア映画界にとって、再びの躍進の年だった。まずベルリンでRadu Judeの新作"Babardeală cu bucluc sau porno balamuc"金熊賞を獲得、カンヌには5作のルーマニア映画が出品され、ヴェネチアでは新"Imaculat"ヴェニス・デイズ部門の作品賞を獲得した。さらにサン・セバスティアン映画祭では先述の“Crai nou”コンペティション部門で作品賞を獲得するなど、その勢いは疾風怒濤だ。そんな豊作の2021年において、私が最も感銘を受けたルーマニア映画が、この“Interfon 15”だった。人間存在の虚しさにまつわるこの1作は、仏教における“諸行無常”という感覚を濃厚に湛えており、そこに静かなる感動を覚えた。もし私がルーマニア語で執筆した小説を映画化するなら、監督はこのAndrei Epureしかいない。それほどまでに惚れこんでしまった。

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4.「科捜研の女 -劇場版-」(兼﨑涼介、日本)

落下で始まり、落下で終るOPから、この落下の倫理をめぐる映画に私は襟を正した。落下するが落下させられるとして悪に歪められながら、マリコによってそれが落下するへ、今再び回帰する。何よりその回帰の核が極端なまでに直球な、映画であろうとする意志であることに、心を打たれた。つまりは科捜研の女という映像作品を、映画という文脈に置き映画として楽しんでもらうにはどうすればいいか? この問いへの作り手の答え、これ1回のみだろうそのてらいなさと、まっすぐさに純粋な感動を覚えたのだ。今年、最も“映画”を観たと言いたくなる作品が、この科捜研の女 -劇場版-」だった。

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3. “Kom hier” (Marieke Elzerman、ベルギー/オランダ)

今作が描きだしているのは、ペットシェルターで働く女性の日常だ。そこに現れるのは、ペットと共に生きる、誰かと共に生きる、つまりは自分とは違う他者と生きていくことへの苦悩に他ならない。しかし、とある2人の女性の視線がぎこちなく交錯していき、苦悩は少しずつほどけていく。私たちはこの光景に"それでも、誰かと一緒に私たちは生きていきたい"という想いを聞くだろう。そして切ないまでの暖かさに包まれながら、2人の手が繋がれていく。“Kom hier”という作品は、本当に真摯な、真摯な愛の映画だった。

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2. “98 segundos sin sombra” (Juan Pablo Richter、ボリビア)

子供たちは生きてきた時間、何かを学ぶ時間がまだ少ないからこそ、必死になって生きなくてはいけない瞬間が多い。そういう時間は当然だがあまりあるべきではない。しかし、どうしたって避けることもできない。今、私たちがこのクソ社会に目を向ければ、これもまた一瞬で分かってしまうことだ。そして、また抱えるには重すぎる“生まれたことの絶望”に押し潰されようとしている子供たちがいる。しかし、彼らの心に何とか寄り添おうとする大人たちも、確かにいる。こうしてシビアな現実で生きる子供たちへの責任を、作り手である大人が何とか、何とか全うしようとする、そんな切実さの結実がこの“98 segundos sin sombra”という1作なのだ。難病と診断されるなど激動を味わった2021年の最後に、私はこの映画を観れて本当によかった、そう思っている。

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1.「レミニセンス」(リサ・ジョイ、アメリカ)

これは紛れなく脚本の映画だ、しかしここまでの賛辞として使いたくなる時は今までなかった。自らが書いた言葉をセリフとして他の誰かに託すという芸術。曲がりなりにも小説家という言葉を扱う芸術家として、監督である以上に脚本家であるリサ・ジョイに深い、深い嫉妬を覚えた。そして、何て残酷なのだろうか、この映画は。誰もが切実に言葉と声を求めて、その果てには呪われるしかない。その厳然たる運命だけが最後に残る。もし私に言葉遊びを許してもらえるならこの映画は“救いがないという救い”そのものだ。だが何よりも言いたいのは、これは類い稀なる詩だということだ。いや、映像詩ではない。これは声に裏切られ、声に打ち負かされながら、声を信じ愛しつづけた者だけが書くことのできる、ただひたすら、声を求める朗読詩だ。自らが書いた言葉をどうすればここまで誰かに託せるのか? その悲壮な信頼だけが辿りつける詩だ、生きるということについての詩なのだ。


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