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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

長い間、私は世界を変えられると思っていた~Interview with Jancsó Miklós

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razzmatazzrazzledazzle.hatenablog.com

ということでJancsó Miklós ヤンチョー・ミクローシュのインタビューその2である。今回はハンガリーの雑誌Ügyvéd Világが行った、ヤンチョー生前最後のインタビューである。媒体が映画雑誌ではなく法律雑誌で且つインタビュアーが弁護士(これはおそらくヤンチョーが若い頃に弁護士としてのキャリアを積んでいたからだろう。実際にインタビュー内でもこの話題は多く出る)ゆえに映画の話は少なく、ヤンチョー自身の生い立ち、特に初長編"A harangok Rómába mentek"("鐘はローマへ行ってしまった")までの激動の人生についての話題が多い。この時点で90代だったので、歴史の生き証人としての言葉を引き出したかったのかもしれない。という訳でJancsóの映画について知りたい人には不満かもしれないが、文献的な価値は大いにあるインタビューだ。ぜひ彼の人生について知ってほしいと思う。それではどうぞ。

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2014年1月の最後の日、ハンガリーで最も偉大な映画監督の1人Jancsó Miklósが亡くなった。1921年に生まれ、50年代から映画を作り始めた後、彼は死ぬまで映画製作を続けた。彼の名は世界の映画を学ぶハンガリーの若者たちに有名であり、故郷の映画館に行ったことのある者なら誰でも知っているのだ。キャリアを通じて彼はカンヌ映画祭の監督賞に5回ノミネートされ――1度は賞を獲得もした――そしてカンヌで生涯功労賞を授けられた。最も知られている作品は"Szegénylegények"("無法者たち", 1965)、"Csillagosok, katonák"("星たち、兵士たち", 1967)、"Még kér a nép"("そして人々は未だ問い続ける", 1971)などだろう。Wikipediaは彼のスタイルをこう表現している。"Jancsóの映画は映像の様式化、優雅に振付の成されたショットの数々、長回し、歴史的背景、田舎という舞台、そして精神分析の欠如によって特徴づけられている。彼の映画で反復されるテーマとして権力の濫用がある。そして彼の作品群はソビエト支配下、もしくは共産主義下のハンガリーの寓話的なコメンタリーでもありながら、批評家たちにはJancsóの探求を普遍的な次元で語ることを好む者もいる。1960年代の終りから特に1970年代にかけて、彼の作品は更に様式化され、過度なまでに象徴化していった"と。

ここからはIndex.huに掲載されたJancsó Miklós最後のインタビューの翻訳を、彼らの許可を取りここに掲載する。

おそらく"Szegénylegények"に最も特徴的であり、他の多くの作品にも当然見られるが、個人と国家、法と体系の間にある繋がりというものは重要だ。これはJancsó Miklósが映画を製作する前、弁護士であったことを考えれば全くの偶然とは言えない。2012年9月1日、雑誌Ügyvéd Világではこの映画監督にインタビューを行った。聞き手はBodolai László ボドライ・ラースロー(Index.huの弁護士)とSzávuly Aranka サーヴリイ・アランカである。

Index.hu(IH):映画を製作する前、あなたは法律を勉強していましたね。それは何故でしょう? もしくはもっと正確に尋ねるなら、何故あなたは結局弁護士として活動することはなかったのでしょう?

ヤンチョー・ミクローシュ(JM):結局私が法を勉強したのは何をしたいのか自分で分からなかったからなんです。そして法はこの時代の"コミュニケーションの学位"というべき物でした。つまり何がしたいか分からない者はみな法を勉強していたんです。このせいで実際は授業で学んだことのない弁護士が多く生まれました。ただテストだけ受けていた訳です。私はいつも出席していましたけどね。それでも私が本当に好きだったのは文化人類学で、その授業にも通っていたんです。

IH:どの大学に通っていましたか?

JM:ペーチ大学に1学期いました。当時はキャンパスに住んでたんです。その後にはクルジュ=ナポカ(ハンガリー語ではKolozsvár コロジュヴァール)に行きました。当時私の父がそこに飛ばされ管理者として働いていました、だから私たちはついていった訳です。実際私の家族はとても奇妙な存在でした。半分ルーマニア人、半分ハンガリー人の家族でしたから。私は2人のきょうだいとここに住んでいましたね。かつて私たちはトランシルヴァニア地方(ハンガリー語ではErdély エルデーリイ)に住んでいました。母は12人きょうだいの1人、父は10人きょうだいの1人でした。"近い親類"というのが122人であった場所でお祝いをしていた訳です。

IH:1番好きな科目は何でしたか?

JM:ローマ法に興味がありましたね。教授はÓriás Nándor オーリアーシュ・ナーンドル(ハンガリー語でÓriásは"巨人"を意味しています)という人物ですが、実際には140cmしか身長がなかったんです。それから法哲学者のHorváth Barna ホルヴァート・バルナの授業も好きでした。彼は自由に関する政治を専門としていたんです。私たちは彼から法とは自由だと学びました。そして法は自由からしか生まれないと。

IH:法は自由だと言っていた人物がいたとはとても興味深いです。

JM:今大学生活がどういうものかは分かりませんが、当時はあらゆる人々がいたんです。私たちはある種のアンチ・ゲルマン一派だったんです。そういうクラブもありましたね。

IH:その時代の政権下で思考しなくてはならなかったという事実は、あなたの考えに影響を及ぼしたと言えますか?

JM:おそらく……私は弁護士の元でパラリーガルをしていました。法の書類を準備して運び、あらゆる場所に伝達していた訳です。弁護士として続けていくチャンスも実際にはありました。そんな時に戦争がやってきたんです。私はロシア人たちの手に堕ちた訳です。

IH:一体何が起きたんでしょう?

JM:戦争の終り、大学に通っていた人々は軍隊から出ていきました。私自身は徴兵されてもいませんでした。そして1944年の3月18日、私は卒業証書を受け取ったんです。次の日ドイツ軍がやってきました。国家というシステムの牙は少しずつ人々に達していきました。誰かが大学を卒業したと知られれば、その牙は彼らを襲ったんです、そして私にも。夏までにルーマニア人たちは戦争から撤退し、私の父のような役人たちはハンガリーに戻ってきました(もちろん私たちと一緒にです)私の姉はセーケシュフェヘールバールに軍士官である夫と一緒に暮らしており、私も彼らと一緒に住むことになりました。しかし基地が爆撃された後、小さな村に住むようになったんです。しかし1週間経たず、隣人たちがある若い男が軍隊に行っていないと通報したんです。そういう訳で私はモールで兵役に就くことになりました。しかしもはやそこには武器も制服も兵舎ありませんでした。ただルールだけがあったんです。ですがある同僚がいて、君は分隊長になるだろうが金をくれ、そうすれば彼らに君を退役させてやれると言いました。そこで彼に従ったところ、実際に退役することになったんです。そうして村に戻ったんですが、国家憲兵隊がやってきました。義理のきょうだいが航空隊で士官をしており、彼が憲兵隊を追い払ってくれたんですが、私は再び軍に入隊させられました。今度はきょうだいの分隊にです。それでも素晴らしかったのはガソリンがなければ、戦闘機がなかったからです。その後ロシア人たちがやってきて、皆が西欧に逃げていきました。しかしセルビアハンガリー人兵士として戦った義理のきょうだいは国から離れることはないと宣言したんです。なので私たちはロシア人を待った訳です。彼は3年半後に、私は半年後に帰国しました。

IH:捕虜としてどこで過ごしていましたか?

JM:ロシア皇帝が夏の避暑地に使っていた、レニングラードの近隣部です。私たちはここを再建しました。半年で肺炎に罹ってしまいましたね。薬はなかったです、と言いますかベッドで寝ていることだけが薬だったんです。あなたはCsontváry Kosztka Tivadar チョントヴァーリ・コストカ・ティヴァダルのある電報について知っていますか?

IH:具体的にどのことについてでしょう?

JM:皇帝であるフランツ・ヨーゼフが病に伏したというニュースを知った時、Csontváryはこのような電報を書きました。"皇帝を太陽の下へと。止めろ。報告が欲しい。止めろ。Csontváry。止めろ"と。ロシア人は病気の私を同じように扱いました。彼らは私を太陽の下に置き去りにしました。後々医師が憐れに思い、私を家へ送り返してくれたんです。イースターの日に私は捕虜になり、11月4日に家へと帰りました。その後1年間、私は寝たきりの状態になっていました。

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IH:元気になった後、何が起こりましたか? 弁護士への道に戻ることはなかったんですか?

JM:ほとんどそうなるはずでした。私は弁護士会に登録されたんです。良き指導者もいましたが、どうにもなりませんでした。そして悪友たちの消息を追っている時、映画や演劇を学べる大学があると知りました。ずっと演出家になりたいと思っていたんです。入学試験の際、Balázs Béla バラージュ・ベーラ(訳注:ハンガリーの映画監督、代表作は"Valahol Európában"。映画理論家としても有名で「映画の理論」「映画の精神」などの邦訳がある)と長く話した後、彼は私が映画を学ぶべきだと諭しました。そして本物の卒業証書をもらった1年後の1951年、私は大学を卒業したんです。

IH:ラーコシ・マーチャーシュ Rákosi Mátyásの時代をどう乗り越えましたか。あなたの社会への姿勢を考えると、この時代をどう対処したか想像し難いです。

JM:私は左寄りのポピュリストで西側諸国のラジオを聞いていたので、政権の言うことが現実と違うことは分かっていました。ある時私たちはロシアのハンガリー語放送を聞いたんですが、そこではハンガリー語でロシア憲法が読みあげられていました。1947年の最初の選挙において、私の友人たちは全国農民党(Nemzeti Parasztpárt)側に付いていたんですが、私だけはハンガリー急進党(Magyar Radikális Párt)の側にいました。しかし1949年までに党はたった1党だけになっていました。当時私は"何てこった、何か間違ってるだろ"と言ったものです。彼らは人々から利益を搾取していると。それから共産主義が終るまで投票すらしませんでした。1回もです。

HI:それから映画の学位についてはどうなったんですか?

JM:学位を持っていない者以外は映画業界で働くことはできませんでした。しかし私たちはすぐに仕事を得られた訳です。私の場合はTVのニュース番組という仕事をもらいましたね。

HI:しかしプロパガンダ映画を作る必要はなかったんですか?

JM:当時映画スタジオは2つありました。1つは長編劇映画を作っており、1つはドキュメンタリー(TVニュース含め)を作っていました。私たちの6人が学位を持っていたんですが、4人は劇映画のスタジオに配属され、私含め2人はTVニュースのスタジオに行った訳です。

HI:大学では何を学びましたか?

JM:何もです。映画を観て議論していただけですね。Szőcs István セーチ・イシュトヴァーンはロマンティックで庶民的な映画へと私たちを導いてくれましたが、例えばアメリカ映画などは1本も見せてくれませんでした。しかし映画館にもたくさん行きましたね。当時Ferenc Hont フェレンツ・ホントという人物が大学の指導者になりました。彼は本物の左翼知識人であり、セゲド野外祭(Szegedi Szabadtéri Játékok)を始めました。それでも彼は演劇には詳しかったですが、映画に関してはそれほどでしたね。1949年Makk Károly マック・カーロイBacsó Péter バチョー・ペーテル周りにいた生徒たちが若いパイオニアたちに関する映画を作り始めたんです。予算を手に入れチッラベルツ(Csillaberc)のキャンプで撮影をしていました。当時、録音装置は200キロもあり、運ぶには2人の人手が必要でした。ドイツのアリフレックス社のカメラは軽かったんですが、録音装置が搭載されておらず半径60mの範囲内でしか使えませんでした。つまり音のある映画を作るのは難しい仕事だったんです。と突然にHontが現れて生徒たちの撮影計画に貢献したいと言ってきたんです。当時カメラにはレンズがなかったのでカメラのアームを探してくれました。この時代の撮影機器はそんなレベルだったんです。

HI:あなたはあの1956年(訳者注:ハンガリー動乱勃発の年)をどう生き抜きましたか?

JM:幸運によってでしょう。当時私は中国にいました。ハンガリー軍所属の音楽隊がオーケストラ、コーラス、ソリスト、ダンサー全員300人含め中国に招待されていたんです。いわゆる"兄弟国"は互いに深く関わり、人々は頻繁に国を行き来してたんです。私の最初の妻(訳者注:Wowesznyi Katalin ヴォヴェスニイ・カタリン、 1949-1958)は民族舞踏の踊り手で国立の組織に所属していました。彼女はスロヴァニアの小さな町で、自分たちを迎えてくれた言葉について教えてくれました。"平和のために共に戦おう"と。中国の話に戻りましょう……私たちは列車で行ったんですが、3週間かかりました。もう気も狂わんほどでしたよ。ロシア人たちも厳戒態勢にありました。列車の中では駅で買ったポストカードや地図まで押収されてしまいました、スパイに関わるものだということで。すぐ返してくれましたけどね。そんな中で1956年は進行していました。友人たちは私が射殺されたか、亡命したかと思っていたそうです。

HI:活動家として、真実を求め続けた者として、あなたはその影響もなくどう生きられたのでしょう?

JM:それに関しては、よく分かりません。私がこの国にいなかった頃、同僚の1人が私を降格させるべきだと進言しました。彼女は生粋のボリシェビキでしたが、私はそうではなかったんです。それから2人で色々と話しあい互いの視点を共有したので、私が通報されるということはなかったですね。

HI:特にどういったニュース番組を作っていましたか?

JM:地方に関するニュースですね。キシュヴァーラド(Kisvárad)における豚の餌やりなどそういう類のことです。TVニュースは組織化されておりまずは政治のニュース、その後が重工業、それから農業や文化、これで終わりでした。全て違うセクションの人々が作っていましたね。私は地方ニュースのセクションにいました。まず上の人間が私やリーダー、プロダクション・マネージャーにアイデアを手渡します。もちろんカメラマンにもですが、当時録音はしていませんでした。そしてクルーが撮影地、農夫が共同で経営する、もしくは国が経営する農場に行くんです。しかしまずは村評議会のリーダーや経営者のトップを探します。彼らと話すのが最初の一歩なんです。あるペンテコステの日にはニュース映画を作る必要もありました。パレードをしている村に行って、評議会の長か農園経営者のトップを探す訳です。すると彼らは言うんです。"ほら来た、天蓋を持ってきてくれたぞ!"と。

HI:どのように村へ行ったんですか? 車か、それともバスで行ったんですか?

JM:映画スタジオには古いシュコダ(訳者注:チェコの自動車メーカー)が3,4台ありました。ロシア人は車を全て持っていってしまった筈なんですが、スタジオはどういう訳か車を守り抜いていた訳です。車には幾つもタイヤが収納してありましたね。50kmほど走るとパンクしてしまうので、変える必要があったんですよ。

HI:ということは偵察に行っていた訳ですか。

JM:そうですね。村に行ってアポを取り、2,3日後にまた戻る訳です。共同農場のリーダーはカメラの前で餌をやる仕事に値する農夫を推薦してくるんです。そして私たちは町に帰り、脚本を書いて委員会の許可を取るんです。こうして村へ戻って、ニュースを作る訳ですね。そこには日曜日の最高の服装を纏った農夫たちがいて、それはまあ当然カメラの前ではいつもの服装では餌やりなんてできないということです。何か賞を獲っているなら、その証も披露されることになります。撮影後にはまた戻り、委員会が完成品を認めればTVニュースでそれが流れます。1週間に1,2回はやっていましたね。

HI:ニュース制作にかかわった後、いつ、そしてどのようにデビュー長編"A harangok Rómába mentek"に携わることになりますか。

JM:1958年ですね。しかしあれは酷かったです。

HI:何故です? あの作品が好きではないのですか?

JM:作っている途中でもうこれは酷いなと分かっていました。この時私はやっと映画を作れるようになったんですが、それは1956年以降映画スタジオのリーダーが急進的な共産主義者になり、変化の名の下に長編映画を作るべきだと言い出したからです。少し前、ある人物が"A harangok Rómába mentek"を持ってきて、私も観ることができたんですが最後まで見通せないほどでした。いつもは自分の映画は観ません。自分がヘマをやらかした様を見ざるを得なくなるからです。演劇をしている同僚たちはずっと幸運でしょうね。同じ作品を何度も何度も繰り返すことができ、パフォーマンスごとに作品を変更できるんですから。しかし映画はいわば缶詰に入れられた商品なんです。

HI:しかし缶詰に入れられて商品が残るというのは良いことでは?

JM:そうでしょうか、私には分かりません。他の監督の映画は観ますよ。それから大分前、イングランドで私の作品の上映会がありました。そこで"Szegénylegények"の1度も触れられたことのないコピーが見つかったんですよ。それでそのクオリティに興味があり観たという訳です。

HI:"Szegénylegények"と言えば……あなたはこの映画で舞台設定に関する深刻なタブーを幾つも破りましたね。個と秩序に関する関係性の描写はとても率直なもので、これが許されたことに驚かされます。どのようにこんな芸術的・創造的自由を獲得できたんでしょう?

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JM:分かりませんね。自分でも不思議に思ってるんですよ。私が友人のHernádi Gyula ヘルナーディ・ジュラ(訳注:ハンガリーの小説家、脚本家。"Szegénylegények"から2005年に亡くなるまでヤンチョー作品の脚本を執筆)と初めて出会った時、ハンガリーでは若い小説家の新しい世代が現れていました。Gyulaは私をこのサークルに導いてくれたんです。こんにち私たちの多くは同じテーブルに座ることすらできません。しかし当時そこには1つの大きな目的があり、それは深い部分においては批評とも言えました。私たちは自分たちの社会を批評的な眼差しで見据え、見たものを報告しなければならないと。何故、そしてどのように彼らはこの結論に至ったのでしょうね? Aczél György アツェール・ジェルジ(訳注:1956年以降、文化庁の長官を務めた人物)については良く知っています。もし"Szegénylegények"を彼らの誰かが観たなら、1956年に直接繋がる一般化と分かってしまうでしょうね。Aczélも馬鹿者では断じてないでしょうが、彼は認めてくれたんです。何故でしょう? 彼は何も言っていません。そして自叙伝すら書かなかった故に、この答えを墓場まで持っていってしまったんです。

HI:"Szegénylegények"に現れる兵士たちには、あなたのロシア軍捕虜としての経験が反映されているんでしょうか?

JM:おそらく、全てにおいてです。当時の映画スタジオにはクリエイティブ・チームが存在しました。リーダーを筆頭に脚本家や監督がいたんです。私はNemeskürty István ネメシュキュルティ・イシュトヴァーンという大衆化を推し進める歴史家と仕事をしました。彼はハンガリー人としてハンガリーの歴史を宣伝していきたいと考えていたんです。ラーコシ政権下においてそういうものはあまり存在していませんでしたからね。彼はJókai Mór ヨーカイ・モール(訳注:ハンガリーの小説家、1825-1904)の小説の代わり、自分たちで本物の歴史映画を作ろうと言いました。"Szegénylegények"は3つの物語で構成されています。まず1つがMóricz Zsigmond モーリッツ・シグモンド(訳注:ハンガリーの革命家、小説家、1879-1942)の物語、2つ目があるならず者たちの物語(セゲドの小説家が執筆しました)、そして3つ目が彼らがいかにフランスの憲兵をスパイとして疑ったかについての物語です。これはロシアのある将軍が直面した実際の出来事なんです。

HI:映画において彼らが記していることは本当なのでしょうか? そしてそれがあなたの考えを象徴していると言えるのでしょうか?

JM:実際、私たちは自分自身、自分たちが言うことに系統立てて説明したことはありません。それがいつだって問題なんです。映画を作り終えたら、また別の映画を作る必要があると。これがHernádiが妥協のない確固たる立場であり続けた理由です。予算と秩序の両方が映画に影響を与えています。元妻であるMészáros Márta メーサーロシュ・マールタ(訳注:ハンガリー最初の女性映画監督と呼ばれる人物)とKádár János カーダール・ヤーノシュ(訳注:ハンガリーの政治家、1956年から1988年までハンガリー社会主義労働者党書記長を務めた、1912-1989)が自由化を進めていた時代に仕事を始められていかに幸運だったかについて話したことがあります。誰かが何かを書いた時、それは彼ら自身についてのことになります。国勢調査員であろうと……実際現れるものに私は興味がありませんが、同時にそれを真剣に受け止めなくてはいけません。公共の意見というものが大事になってくるんです。アメリカ人が映画を作ると同時に映画を人気にしようとするのは偶然ではありません。当時の状況下において、私の初期の映画群が国際的に評価されたのは幸運でした。たくさんの仲間と出会いました。それでもベルイマンやアントニオーニと同じグループにいるという訳ではありません。私は私自身の主人なんです。

IH:今進行中の計画はありますか?

JM:はい。

IH:ファンディングが行われる機会はありますか?

JM:この業界は馬鹿げているほど多くの金を必要としていますからね。数十年間金が集まった時だけ映画を作ってきて、熟慮を重ねていました。初めから終わりまでそうしてきた訳ではないですが、多かれ少なかれ私は私のしたいことをしてきたんです。

IH:もちろん承知はしていますが、映画製作に関するテクノロジーはどれほど変わったでしょうか?

JM:とてつもなくです。大学では実際のフィルムを切っていました。先にもカメラや音響に関しては話しましたよね。しかしこんにちの編集技師はパソコンを使っているでしょう。大きな変化ですよ、これは。

IH:もし私の記憶が正しいなら、あなたは共産政権が終った後、2回ほどオフィスを経営していましたね。

JM:経営ですか? そうさせられただけで、頼まれたんですよ。名前を貸したんです。

IH:何故承諾したんですか? この国で何かが変えられると信じていたんでしょうか?

JM:そういうことについては何度も何度も考えました。ここ数十年間、この世界で何かを変えられると信じたことが何度もあります。私がMárai Sándor マーライ・シャーンドル(訳注:ハンガリーの小説家、1900-1989)が好きではないのは高級化というものが好きではないからです。しかし彼が日記の中で書いていたことは重要です。誰かが世界を変えられるなど真剣には考えられないでしょう。

IH:しかし変化は可能である、物事は良くなっていくべきだと信じること、それが活動家であることの全てではないでしょうか?

JM:もちろんです。そうでなくてはならないんです。全てはクソッタレで人々が自分を踏みにじっていくという事実と直面し続けながら生きることなど無理です。しかし同時に変化に対して前の世代と全く同じことをし続ける人々がいることも知っています。1949年の選挙時、私は共産主義者自体が直立する社会となると確信しました。後々全てが展開していくごとに――不運なことに今でも同じですが――約束されたものが何かに関わらず、あなたは何かが正しくないと悟るでしょう。しかし、まあ、いつもそういうものです。

IH:ここ数十年、自分が弁護士だった頃のことを思い出しますか? 例えば訴訟や裁判について聞いたり、読んだ時など。

JM:私の中の弁護士が刺激されたことは一切ないですね。しかしKádár Jánosの裁判を見た時、様々な思いが心に去来しました。例えばこの裁判に決着を付けようとする人間は一体誰なんだ?といったことです。ある時、私はある田舎町に呼ばれ、若い弁護士にそこまで連れていってもらいました。時代はフィデス=ハンガリー市民同盟最初の時ですね。若者は裁判官である同僚の1人がいかにフィデス党員を無罪にしたかを話してくれました。その若者は裁判官に何故か聞いたそうです。意見を変えさせられたのか、それとも金をもらったのか。彼は何もしていないと答えました。ただ平和に生きたかったそうです。

IH:最近、どういった本を読んでいらっしゃいますか?

JM:たくさんの異なったジャンルの本です。

IH:もし何者かがありあまる程の予算を与えてくれたなら、どういった種の映画が作りたいですか?

JM:まあ、そんなこと誰にも起こらないでしょう。逆にこんにちの社会ではたくさんのテーマは見つかるでしょうけども。

IH:偶然は人生にとって大切なものとお考えですか?

JM:もちろんです。

IH:人生において偶然と呼べる何かが実際に起きましたか?

JM:そうですね、偶然というものが何か正確には分かりません。40年代のある時、私はバロッシュ(Baross)通りの角にいました。2人の労働者がトラックから鉄を下ろしていました。するとその破片の1つが私の右目の真下に当たりました、ミリ単位の出来事です。事故でしょうか? その1年前か1年後、ユッレーイ(Üllői)通りのヴェレシュマルティ・シネマ(Cinema Vörösmarty)のちょうど真向かいに前衛芸術家の集まるクラブがあったんですが、そこで時計を見ました。時間は2時10分で、私は入り口から出ていき、ドアを閉めました。その時、バルコニーが……

IH:崩壊したと。この出来事がこの世界において何を意味すると思いますか?

JM:分かりませんよ。しかし問うには良い質問ですね、この国の未来に何が起こるのか?

原文:For a Long Time, I Thought That I Could Change the World: Miklós Jancsó’s Last Interview | ppm hungary


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