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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

メモリア、或いはコロンビアをめぐるノイズ by Diana Martinez Muños

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3月4日からタイの映画作家アピチャッポン・ウィーラセタクン監督作「メモリア」が日本でも上映されている。今作は彼がタイ国外で撮影を行った初めての作品だが、彼が撮影地に選んだ国こそが南米のコロンビアだった。

私は映画批評家としても、いち映画ファンとしてもいつも不満に思うことがある。日本ではマイナーな国の映画が話題になる際、それは英語圏か、よくてヨーロッパの批評家の言葉を通じてのものばかりになることだ。もしそれが日本で上映されるなら日本人の文章も読めるには読めるが、私としてはその国の批評家や映画作家が何を言っているのか、どう思っているのかを聞きたいと思っている。

「メモリア」も正にそうだ。聞くのは英語圏の人々による賛辞、日本人による批評、欧米の映画史に絡めた言葉。日本にはほとんどそれしかない。私はそういう怠惰な言説には興味が全くない。私が聞きたいのはタイとコロンビアを股にかけた「メモリア」という映画を、他ならぬタイとコロンビアの人々がどう思っているのかということだ。

ということで、今回ここに掲載するのはコロンビア人の音響デザイナーDiana Martinez Muños ディアナ・マルティネス・ムニョス「メモリア」批評だ。彼女に執筆をお願いしたのは、“Pirotecnia”というコロンビア内戦をめぐるドキュメンタリーを観た時、その音響デザインがとても印象に残っており、それを担当したのが他ならぬ彼女だったからだ。そんな彼女に音という側面から「メモリア」について執筆してもらえたのは感無量だ。御託はここまでにして、ここからはぜひ彼女の文章を楽しんでほしい。

MEMORIA BY APICHATPONG - NOTES ON SOUND
By: Diana Martinez Muñoz. AKA: Kin_Autómata

誰かに「メモリア」の印象について聞くたびに、異なる答えが返ってくる。それこそ今作が何についての映画なのかを教えてくれると、私には思える。つまり人間の心のなかで記憶というものがどう作用しているか、これを「メモリア」は美しく描きだしているという訳だ。日々のなかで私たちは経験を、イメージを、状況を、音を、匂いを、形を、人々を、動物たちを、自然を、存在を、空間を集めている。私たちはその時点での心理的、精神的状態に影響されながら、ある特定の方法である一瞬を知覚する。しかし年月を経るにつれ、その一瞬への私たちの見方そのものが変わっていくことになる。記憶はぼやけ始め、他者からもたらされた物語と溶けあうことで、意味も変わっていく。そして更新され、異なる存在へと姿を変える。

記憶は、人生において重要な瞬間に現れるもの、例えばトラウマや幸福、痛みや充足感を宿している。それらによって私たちは自分自身を規定していくこととなる。そして記憶を共有する時、私たちは集合的記憶を創りだし、同じ時間、同じ歴史がまた共有される。「メモリア」は自身の記憶に迷いこんだ女性が、そこに意味を成そうと試みる物語だ。今作に特有の側面というのは、彼女に思い出すという行為を強い、記憶のコレクションと向き合わせ、そして自身を理解させるものが音であることだ。音の記憶は正確に思い出すのがより困難なものだが、環境において私たちはいつであっても音に晒されている。そして音によってこそ他の生物、空間、物体、状況、動きというものを私たちは感知させられるのだ。音は私たちに物語を語る。そして私たちは音に触れられ、存在をも震わされていく。

「メモリア」においてジェシカはコロンビア中をめぐる。そこは彼女の母国ではないし、そこは彼女の“文脈”でもない。ジェシカは音にとり憑かれ、答えを探し求めている。コロンビア、この国は混沌と狂気から響く音を享受してきた。ボゴタの霧深い早朝は車の警報に掻き乱される、ダウンタウンの路地では人々があらゆることに耽っている、しかしいつしか慈悲なき雨が到来して、突然に全てを静まり返らせる。風、虫、鳥、小川の音の交わり、それがある男を包みこむが、彼も魚を洗うという動きによって固有のサウンドスケープを立ち上がらせている。そしてまた突然、静寂が空間に満ちる響きを捉えることになり、そうしてあなたは自分の呼吸、自分の思惟、つまりは自分自身を聞けるようになるのだ。

「メモリア」の音は登場人物と監督の外部的知覚を描きだしている。彼らは、己に耳を傾けることに苦心するこの国の外部にいる存在だ。私たちコロンビア人はとてつもない量の音でできたサウンドスケープに埋めこまれ、もはや自分たちが音を、声を持っていたことを忘れている。ノイズは私たちに、暴力と戦争に傷ついたこの国、生き抜くために記憶から耳を背けたこの国が持つトラウマ、そのやり過ごし方を教えてくれる。私たちは痛みを隠すためにノイズを必要とし、そうして様々なノイズでできた巣に育まれ安心感を抱くという風に。

一方でジェシカは全く逆のことを行う。彼女はただ耳を傾ける。ノイズに満ちた環境でただ今を生きる。そして生は大量の情報とともに前を通りすぎていく。静寂のなか、彼女は理解しようと試みる、彼女は意識を集中する、音を通じて感覚を研ぎ澄ましていく。音は彼女とエルナンを繋げ、交感を促すものでもある。互いに耳を傾けるという機会が訪れた時、2人は理解しあい、ジェシカの聞くノイズも意味を成すことになるのだ。

現代の映画において音は感覚や感情を語り伝える力を持ち、音響デザインは観客にその経験をもたらしていく。「メモリア」はこの素晴らしい例ともなっている。今作はある場所に見出だされる特異性を捉え表現していくが、ここにおいてその場所とはコロンビアにおいて全てが成される舞台、つまり日常生活の場ということだ。今作が喜びとともに語るのは、静寂や音の鳴り響く複層といった記憶の場なのであり、これによって登場人物や観客は自分自身の記憶を問うための旅路に出ることになる。今作は“聞く”を深める機会、そして音を認識し、想起し、受容し、果ては音を楽しむための時間をくれるのだ。

私が思うに今こそ自分たちの声を理解する必要がある。今までとは別の方法で、“私たちは何者か?”という隠されたささやかな細部から自身を理解し、見出だすことが必要なのだ。ここ数年のコロンビアにおいて音は多くのアーティストたちと彼らの好奇心を刺激してきた。彼らにとって音は耳を傾けるのを許さないノイズまみれの環境から人々を目覚めさせ、何かを表現する方法を授けるものなのである。コロンビア映画の音が文化を描き、環境に思索を重ね、共感共苦の念を生み、そして私たちの所属する共同体がもたらす豊かさを受け入れるための実験的な方法として発展してきたのは、やっと最近になってからだ。

ジェシカがエルナンの眠っている姿を眺め、場について、エルナンについて考え、この場に存るという状態をただ素朴に生きる、そんな場面がある。それが象徴するように「メモリア」は自分自身に耳を傾ける場への招待状ともなってくれる作品だ。そして聴覚的な世界こそが物語を語り、記憶とともに私たちを形作ってくれるものなのだと、観客に教えてくれる。

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