ネパールの山岳地帯に位置する僧院の数々は日本でも有名な観光地だろう。しかし険しい高地を行くトレッキングは相当に過酷なものだ。この記事を書くにあたって色々検索すると、ある村からある僧院までトレッキングで数時間といった文言すら見掛け、運動神経絶無かつ難病持ちの私は正直ブルってしまった。さて今回紹介するのは、そんな僧院へのトレッキングを通じてある親子の関係性を描きだす、ネパールの新人監督Sunil Gurungによる短編“Windhorse”である。
今作の主人公となる存在はサナムとカルマ(Jampa Kalsang Tamang & Sudarshan Gurung)という親子だ。つい先日にサナムにとっては妻であり、カルマにとっては母である女性が亡くなり、その供養をするために彼らはネパールの高地で再会を果たし、ともに僧院を目指すことになる。
物語において主眼となるのは、この父と子の間に広がる複雑微妙な関係性である。息子のカルマは理由こそ語られないがオーストラリアに移住しており、この地で家族を持つほどに根を張っている。それゆえサナムとの距離は物理的に遥か離れており、さらには家族を省みなかった彼に対して精神的にもかなりの隔たりが存在している。例えばトレッキング中にも父に対してほとんど笑顔も見せることがないほどだ。その険しい表情には常に怒りのような感情が満ち満ちている。
そんな疎遠な息子に対して、サナムもどう接していいか途方に暮れているようだ。不器用なりにも何とか彼と交流しようとするのだが、そこにはどこか人生の先輩として大きな顔をしたがる傲慢さが存在しており、それを見透かされてかカルマは何度となく拒絶反応を見せる。サナムの狼狽は反抗期の息子に手を焼く父親のそれにも見える、カルマはもはやそんな年齢ではないのだが。
そしてそこには男らしさというものも関わってくる。未だ若く健康なカルマは軽々と山道を進み、悠々トレッキングをこなすのだが、サナムは歩みも遅く、幾度も休まなければトレッキングを続けられない。息子の背中を力なく見つめざるを得ない状況は、文字通りに息子の後塵を拝すといったものとなっているのだ。こんな状態で男らしさにおいて何とか張りあえるというのが、立ち小便で尿をどこまで遠くに飛ばせるか?なのだからなかなか惨めである。それもサナムが勝手に横で張り合ってくるのだから、カルマもウンザリして怒りを露にする。2人の冷えきった関係性も然もありなんと思わざるを得ない一幕だ。
こういったサナムの頑迷さに対してカルマはもちろんだが、映画自体もどこか突き放すような視線を向けているように思える。監督のSunil Gurungはアメリカを拠点とするネパール系アメリカ人であり、オーストラリアに根を下ろしたカルマに少し共鳴する背景を持っており、これが視線の重なりに関係があるかもしれない。2人の住む場所が英語圏というのも注目すべきだろう。劇中、サナムとカルマがネパール語でなくその合間に英語で喋る場面がなかなかの回数あるのだ。このスイッチングにはオーストラリア在住というカルマの事情以上の、ネパールの固有的な事情が関わってる可能性もあると、個人的には思えた。今後ネパール映画を探求するにおいて、探求していい要素かもしれない。
今作に今らしさを感じたのは、家族という概念そのものに対するドライな認識だ。この過酷なトレッキングを通じて父と子が絆を取り戻し、家族として再び歩み始める……というのが予想される筋立てだが、そういった瞬間はついぞ訪れない。オーストラリアでの生活の足しにとサナムがなけなしの金を渡そうとしてもカルマは拒絶し、僧院への巡礼が終わった後、彼は挨拶もなしに立ち去り物語はそのまま終わってしまうのだ。サラっとしながら、その実かなりシビアな終りに私としても少し呆気に取られた。
撮影監督Narendra Mainaliが映しだすネパールの高地は、灰燼の色彩に塗り潰された峻険たる地として凄まじく際立っている。そしてここに刻まれている険しく大いなる道筋は、監督が描きだした“家族”に対する乾いた諦念も相まって、何か人生そのものの険しき道行きをも象徴しているように思われてならない。少なくとも“Windhorse”には観客にそう思わせる厳粛な力が宿っているのだ。