
皆さんは“チャウシェスクの落とし子”という言葉を聞いたことがあるだろうか。ニコラエ・チャウシェスクをリーダーとする社会主義政権下のルーマニアでは国力を増強するために避妊や中絶を禁止され、それによって多くの子供たちがこの世に生まれることとなる。しかし80年代に経済が急激に悪化すると子供を遺棄する困窮家庭が増加、親に見捨てられた彼らは劣悪な環境の孤児院で虐待や差別など非人間的な扱いを受けるか、ストリートチルドレンとして過酷な生活を送るしかなくなってしまう。チャウシェスク独裁政権が1989年に崩壊後、この実情が世界に知れ渡ることとなり子供たちは“チャウシェスクの落とし子”と呼ばれるようになる。
日本においては人気マンガ「BLACK LAGOON ブラック・ラグーン」に登場する双子の殺し屋を思い出す人もいるかもしれない。正に彼らは“チャウシェスクの落とし子”であり、人身売買の犠牲になりこういった存在に身を落としてしまったことが作中では明かされる。さて今回は、このルーマニア現代史の悲劇を起点に、ルーマニアという国で善き人として生きるために何をすべきか葛藤する女性を描きだしたAlexandru Baciu アレクサンドル・バチユ&Maria Popistașu マリア・ポピスタシュ監督作“Y”を紹介していこう。
今作の主人公はオルガ(Popistașuが兼任)という中年女性だ。ルーマニアの富裕な家庭に生まれた彼女は、ワインのバイヤーとして何不自由のない豊かな生活を享受していた。そう生きれるほどの財産を築いたのは弁護士である祖母イレアナ(Lucreția Mandric ルクレツィア・マンドリク)がいたからこそだったが、そんな彼女は衰弱の途にあった。ある日、彼女を見舞った際にオルガは政権崩壊後、とある孤児院で起こった出来事を、後悔とともに語り始めたのだったが……
序盤はオルガとイレアナを中心とする家族劇として今作は展開していく。オルガには何人もの姉妹がおり、その家族らも交えながら定期的に両親の住んでいる邸宅で食事会を開いている。彼女たちはそこでそれぞれの生活について語るのだが、皆が親密な関係にありながらもやはり価値観の違いなどは厳然として存在し、衝突も多かったりするわけだ。
このようにして序盤は彼女たちの会話が主体であり、それを映し出すCarmen Tofeni カルメン・トフェニによる撮影も絵画さながらのリッチさを誇るのだが、正直代わり映えがないという印象をも抱かざるを得ない。ルーマニア映画は全体的に登場人物たちが饒舌なのだが、ここではそんな饒舌な言葉が響くばかりで、その動きに魅力が少ないのである。しかしここで観るのを止めないでほしいと私は言っておきたい。
孤児院での出来事、そして当時に出会った同僚や子供たちについてを語った後にイレアナはこの世を去るのだったが、オルガは彼女が遺したノートを見つける。それを手掛かりとして彼女はその後悔の意味を知るため、過去を探っていく。彼女は政権崩壊後に孤児を救うための活動を行っていたが、そこには想像を絶する状況が広がっていたのだとオルガは知ることになる。
劇中、調査を続ける中でオルガの見つけた映像が観客にも提示される。栄養失調によって障害を持ってしまった子供が、ベッドに横たわりあらぬ方向を見つめている。そしてその周りには大量のハエがたかりにたかっている。孤児院にはそんな子供たちが何十人もいるのだ。彼らを世話する看護師たちも、機械的に行動するのみで状況を改善する力も気力もない。こういった場所はルーマニア中に存在し、正確な数が分からないほど多くの子供たちが亡くなった。
こうして“チャウシェスクの落とし子”の詳細を知ったオルガは驚愕し、その生活にも影響が出始める。中でも大きく影響を受けたのが恋人との関係性だった。彼女はレズビアン/クィア女性でありアンダという同性のパートナーと暮らしているのだが、前々から彼女は子供を欲しがっていたがオルガはあまり乗り気ではなかった。その姿勢が調査を通じてより明確になる中で、アンダとはとうとう大喧嘩に発展、別れ話まで持ち上がることとなる……
少し話は逸れるがこの描写に関連してルーマニア映画におけるクィア表象について書きたい。ルーマニアは性的少数者の権利に関して保守的であり、差別も激しい。そんな中で多くはないながらクィア映画も制作されてきたが(その少なくない作品が重苦しく悲劇的)どれもクィア性自体がテーマだった。だが今作のオルガについてはクィアであることも重要であるが、彼女の生を構成する要素の1つでしかないという描き方が成されている。同性婚がなく、かつ同性愛者のカップルが養子を取ることに否定的かつ制度的にも難しいというクィア特有の問題も描かれながら、そこが主眼ではない。こういったクィアの特殊性よりも、普遍性に重きを置いたルーマニア映画はかなり少ないので個人的に印象に残った。
そしてオルガは自分の富裕層というルーツに立ち戻ることになる。家族がそうであるように彼女もまた何不自由ない自由気ままな生活を送っているわけだが、これは今の世の中では特権であり、悲しいことに誰もが享受できるものではない。さらにこの生活が名も知らない他者の犠牲と、それへの無知に支えられていたとするなら……オルガはこの特権性に意識的にならざるを得ないわけだ。
だがこの意識は必然的に家族との軋轢をも生まざるを得ない。最も衝突が激しいのは父であるラドゥ(Ionel Mihailescu)とだ。娘の訴えに対して彼はそれが“偽善”であると切り捨て“チャウシェスクの落とし子やらが気になるなら自分の財産をNGOに寄付でもするか、それとも孤児でも引き取るか?”と容赦ない批判を向ける。その理解され難さに打ちひしがれながらも、オルガは社会の不公正に何ができるかを追い求め、翻っては彼女自身がどう善く生きることができるのかへの問いにも繋がる。このある種普遍的なテーマを、チャウシェスクの落とし子というルーマニア現代史の悲劇を発端として描きだす意味で、今作は今のルーマニアでこそ作られた、真摯なる葛藤の映画と言えるだろう。
