鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

狂気は音を以て高まる「スノータウン」

 ジェイミーは自室のベッドに横たわり、ぼうっと時を過ごす。その横顔はぼんやりとした若さを湛えながら、しかし瞳には昏く淀んだ色彩として、重々しい思索の沈黙が浮かんでいた。だがそこにはジェイミーの内面における沈黙はあれども、外界に静謐さは微塵も感じられない。閉じられたドア越し、ジェイミーの耳朶に家族たちの藹々たる声の奔流がなだれこむ。幾つもの声が絡み合い、誰が何を言っているのかは良く分からなかった。だがそれら一つ一つに、何か不穏さがある。
 兄であるトロイの声、弟ジェフリーの声、母のエリザベス、そして母の新しい恋人であるジョンの声。
 それらは団欒から響き渡る安らぎの声のはずだ。だが違和感がある、何かがおかしい。そんな蟠る不安を抱えながらも、ジェイミーは立ち上がり、彼らの団欒へと足を踏み入れる。

 人が生きていく限り逃れ得ぬ物、“死”と“影”と、そして“音”
 人は歩く時、足音を立てる。人は何かを伝える時、『声』という音を用いる。
 例え何もしていないと思える時でさえ、人は息を吸い、そして息を吐く。そこから生じる呼吸の音からは逃れることは出来ないだろう。
 だが映画において、このような“生活音”は些細な物として、人為的に掻き消される運命にある。このような音は、映画においては無意味という訳だ。だがこの“スノータウン”においては全く違う。“生活音”は最大限に尊重され、執拗とも言える程に捉えられることによって、無意味だったはずの“生活音”は意味を持つ事となる。そんな意味を持った“生活音”の氾濫こそが、この映画の魅力なのだ。

 例えば、真夜中の闇に轟くバイクのエンジン音。
 それは悍ましき訪問者の手によって、ジェイミーたちの緩慢なる自殺的停滞が破られる合図だ、黙示録の喇叭のごとき響きを以て観客に提示される。
 そして例えば、一家団欒の食卓から響く音の群れ。
 食器と食器がぶつかり合い響く金属音、口に放り込んだ食物を咀嚼する時の粘りを孕んだ音、細かく砕かれた食物を食道に押し込むときの、銀の匙が肉をほじくるようなあの不快に過ぎる音の数々!
 例えば、劇中において随所に挿入されるTVの騒音。
 悍ましき訪問者——母の新たなる恋人ジョン、彼が家族に取り入ろうとする一瞬一瞬に、がなり立てるようなTVの噪音が響く。それは何の変哲もない日常の音である筈だが、何故だろうか、何かの前兆のような不穏さを孕み、耳にする者の心に波紋を投げ掛けるのだ。

 エンジン音のような轟音に限らずとも、食器と食器が擦れあった時の微かな“生活音”にも、聞く者の心を不安定にさせる類の攻撃性があるのだ。その性質に意味を持たせることで、最大限に生かしたのがこの『スノータウン』の監督であるジャスティン・カーゼルであり、そして音響を担当したデス・ケンニアリィやフランク・ニプソンらの功績も勿論のこと忘れてはならないだろう。

 カーゼルのように、ありのままの“音”を巧みに利用した映画監督としては「イェラ」「東ベルリンから来た女」クリスティアン・ペッツォルトが挙げられるだろう。マティアス・ルートハルトやファティ・アキンらと共にベルリン派の旗手としてドイツ映画界で活躍する彼であるが、演出の特色として、そよぐ風の音、擦れあう葉のざわめき、潮流の中でぶつかり合い爆ぜる水泡の音色、そんな“自然音”の数々を映画に取り入れる手法を得意としている。人が奏でる“生活音”と自然が生み出す“自然音”という違いはあれども、軌を一とする魅力があると言えるだろう。

 ここまでありのままの“音”というのを全面的に賛美してきたが、それは劇中で奏でられる“音楽”がそれらに劣るという意味である訳ではない。むしろその音楽は“生活音”の奔流に揺るがされた我々の心の均衡を徹底的に破壊し尽し、そして絶望的な高揚感によって我々を浄化する圧倒的な響きである、と称賛を禁じ得ないほどにまた素晴らしい。
 “スノータウン”それ自体の静謐さとは裏腹に、段々と速度を増していく重低音の、恐ろしい程にシンプルな衝撃は、そして心臓を握り潰さんと欲する荒々しさは、闇に扉が閉じられる終幕の絶望を、絶対的なカタルシスへと昇華する程の力がある。
 これらを作曲したのはジェド・カーゼル、監督であるジャスティンとは兄弟という間柄だ。既に著名な作曲家である彼の、映画の為に作られた初めての曲の数々は、ジャスティンが提示する“生活音”の間隙を縫うように奏でられる。しかしそれは控えめどころか、映画を牽引するのは私だと言わんばかりに強烈なる個性を発するのだ。素朴なる“生活音”と、情緒過多なる“音楽”との闘争が繰り広げられる、その水面下における耳朶への奉公の快楽もまた体験するべき経験と言えるに違いない。

映画における音の重要性、それを再認識するに相応しい映画がこの『スノータウン』だ。目の前で繰り広げられる残虐なる風景ばかりに目を取られてはその本質を見逃してしまうだろう。敢えて内容について殆ど描かなかったのは、これを読んで下さった方々が“映画を聴く”ことについて興味を持ってくれることを願ってのことだ。目を以て喰らい耳を以て視ることの素晴らしさを、この映画は教えてくれるだろう。



残酷映画でも、中の人たちは結構ノリノリのようです