宗教と性愛の関係性は何というか極端だ。例えばキリスト教を見てみれば、神の名の元に性愛およびセックスは著しく制限され、それが回り回って「スポットライト」のような忌むべき性的虐待事件やケン・ラッセルの「肉体の悪魔」のような性欲大爆発な事件を巻き起こしたりする。だがそういった制限に反旗を翻しフリーセックスを打ち出した新興宗教はどうなったかと言えば、マンソン・ファミリーのように虐殺が起きれば、ガイアナ人民寺院では集団自殺が勃発する。宗教と性愛の間ではいつの時代も抜き差しならない闘争が続き、いつになっても終りがこない。さて"文芸エロ映画に世界が見えてくる"、今回は南米はチリで繰り広げられるそんな闘争を描き出した「ダニエラ 17才の本能」aka"Joven y Alocada"を紹介していこう。
マリアリー・リバス Marialy Rivasはチリを拠点とする映画作家だ。チリ映画大学で学んでいたが中退、1996年に"Desde Siempre"で映画監督としてデビューする。そしてSebastián Lelioと共に世紀末のサンティアゴを描く作品"Smog"を監督するが、その後は広告業界での仕事が多くなりしばらく映画界からは離れることとなる。だが2010年には短編"Blokes"を製作、隣人の女性に恋をした少年の姿を描く今作はカンヌ国際映画祭で上映され、マイアミ国際映画祭やサンフランシスコ国際映画祭では作品賞を獲得するなど話題になる。そして2012年、彼女は自身初の長編映画"Joven y Alocada"を完成させる。
ダニエラ(アリシア・ロドリゲス Alicia Rodríguez)は17歳の高校生、彼女はチリの首都サンティアゴの郊外で家族と共に暮らしている。弟や牧師である父、ガンで闘病中のおばイサベル(「マタニティ・ハント」イングリッド・イーセンシー)、そしてダニエラが最も嫌っている厳格な母テレサ(アリン・クーペンヘイム Aline Küppenheim)、しかし彼女にとってこの"厳格な"というのは他の家庭とはまた違う。つまり彼女の家庭は厳格なキリスト教福音主義を信仰している家庭なのだ。
ここで福音主義について少し。この宗派は聖書を絶対視するキリスト教の保守派だ。偶像崇拝を禁止し、キリストが再びこの世に復活し信者たちを天へと召す携挙を信じ、創造論を信じ進化論などもっての他という大まかな特徴が挙げられる。特にアメリカにおいてはその台頭が顕著であり、最近ハリウッドで猛威を振るう、いわゆる"キリスト教啓蒙映画"はこの宗派によって製作されている事が多い。今作においてもチリでの熱狂的な信仰が描かれる(監督によると、現在人工の17%が福音主義を信仰しているという)のだが、彼らは無神論者などの異分子を否定しながら繋がりを密な物とし、その一方でロックバンドを使って若者たちに信仰を広めようとするなかなか衝撃的な姿が撮し出されていく。
そんな信仰の光景に対してダニエラは冷めた視線を向ける。彼女は信仰に背を向けてセックスを謳歌し、その体験をブログに綴っていくのだ。子供時代から今に至るまでのオナニー経験の移り変わり("ある時アタシはベッドに擦り付けるのが最高って気づいた!")、初めてアナルに挿入された時のこと("感想は普通、何かウンコしてるみたいな気分だった")などなど。そのブログには真摯な感想や罵倒、出会い厨まで様々な反響が集まり、彼女はネット上で密やかに有名人となっていた。
厳格なキリスト教福音主義コミュニティにおいて性に奔放であることはどういう意味を持つのか?……つまりこれが"Joven y Alocada"のテーマだ。ある日ダニエラは同級生とセックスしたのがバレて高校を退学になってしまう。福音主義において"婚前交渉の禁止"は絶対という訳である。当然母親はブチ切れ、福音主義者が忌み嫌われる国に強制送還し布教に殉ずるなんてマジでヤバすぎる罰を受ける寸前まで行くが、おばのおかげでその罰は回避。それでも福音主義者が経営する(!)TV局で雑用をやる羽目になるのだが、ダニエラがジッとしている筈がなかった。
リバス監督の演出はポップでキュートな彩りに満ちている。冒頭からペニスヴァギナのアニメが乱舞(日本版ではがっつりボカシだ、クソッたれ!)、色とりどりのテロップに「セーラームーン」(!!!)や「ベンハー」などのフッテージ映像が自由に入り乱れていく。そしてFacebookやブログなどのSNSもガンガン画面に登場し、作品の随所にネット文化が華を添えていく。最高なのはダニエラのモノローグと共にブログの文章が画面に打ち込まれた後、読者のコメントが現れるのだが、それを打っている読者の顔面がドアップになって出てくるのだ。真剣に共感している者、卑猥な言葉の通りに卑猥なニヤつきを浮かべている者、途中マジな福音主義者の若者が現れて真顔で説教してきたりとユーモアも炸裂。とにかく情報量が多い作品ながら、リバス監督は的確にそれを捌いていく。
そして今作の着想源は共同脚本家であるCamila Gutiérrezが実際に執筆していたブログなのだという。実在の人物が今作のモデルとなっている訳だ。監督はこの出会いについてこう語っている。"2005年頃、私自身も写真ブログをやっていたんです。1日ごとに写真をアップして時々は文章も書いたり……殆どの人々は写真だけでしたけど。そんな時に彼女のブログを見つけたんです。あけすけな性の話と、福音主義を巡る若さや教会についての話が交わり合っていて、自然とそれに惹かれていったんです。そして半年が経って、何かしなくちゃと思い始めました。映画にしようとは思ったんですが、ドキュメンタリー、モキュメンタリー、フィクション、どれにするかは分かりませんでした。でも彼女と実際に会って、話が動き出したんです。
最初、あのブログは現実のことだとは思っていませんでした。書き手の彼女が若いか若くないか、嘘を書いてるか書いてないかも分からなかったんです(中略)彼女は自分自身の矛盾の中で表現していました、例えば"神は信じてない、でも地獄は怖い"という風に。そういった告白は映画にするに劇的なもので、彼女の中にある傷に惹かれていきました。彼女の全ては2重なんです。それがとても魅力的でした"
だが1歩間違えれば軽薄以外の何物でもなくなる演出を技術的に支えるのが2つの要素だ。まずDoPセルヒオ・アームストロング(「NO」「クリスタル・フェアリー」)による撮影だ。彼の紡ぐ画面を見た瞬間にはネット文化を包括する故の新しさより、むしろ懐かしさを感じる観客の方が多いのではないだろうか。色味が刈り取られた粒子の荒い画面、その失われた色彩を満たすように画面にかかる薄紫のヴェール。Armstrongの紡ぐ画面は確かなフィルムの質感が宿っているのだ。このある種オールドファッションな指向が、今作を軽薄から遠ざけていく。
更にAndrea ChignoliとSebastián Sepúlvedaによる編集にも注目すべきだ。多大な情報量を捌く上で編集は成功にしろ失敗にしろ早さが求められるが、彼らはむしろ遅さを重要視する。性急さを良しとせず、歩みの遅さと情報量の多さを共存させながら観客にじっくりとダニエラの道筋を見据えさせる。この独特のテンポの根底にあるのはダニエラの抑圧だ。午後の生ぬるい授業の途中、机に頬杖をついて外から空を眺めるようなアンニュイな感覚。性に奔放であろうとしても福音主義の響きが彼女を解放感から遠ざける。この爆発しそうで爆発できないもどかしさが、今作を信頼性を宿していく。
そんな中でダニエラのありあまる愛は画面へと溢れだしていく。彼女はTV局の福音主義っぷりに唾を吐きかけながら、局員である青年トマス(フェリペ・ピント Felipe Pinto)と恋に落ちる。だが好青年ではありながら、愚直に"婚前交渉の禁止"を守ろうとする態度が味気ない。そしてダニエラは同じく局で働く女性アントニア(マリア・グラシア・オメーニャ Maria Gracia Omegna)にも恋をし、彼女とはキスにセックスに愛を謳歌していく。そうしてバイセクシャルであるという自分に辿り着いたダニエラの姿は自由で生命力に満ち足りている。私はパインとチーズ、どっちかだけなんて選べない!
だがそれは福音主義ひいては母親テレサとの深まる軋轢をも意味している。テレサは敬虔な福音主義者であり、祈りや会合も欠かすことはない、正に保守化の傾向にあるチリが求めて止まない模範的な人物だ。つまり彼女を敵に回すというのは社会そのものに反するのと同じなのだ。ダニエラはそれに対して果敢に中指を突き立てようとしながら、社会の圧力と家族という名の呪いによって動揺もまた抑えることが出来ない。リバス監督はダニエラの劇的なまでに波打つ心模様を鮮烈さによって捉えていく。愛がなければ私は無だ、ダニエラは他ならぬ聖書の言葉を引きながら自分について語る。この信仰と愛に引き裂かれる17歳の肖像が"Joven y Alocada"だ。自由を求める少女による抵抗の記録は奔放ながら苦く心に染みていく。
今作はサンダンス国際映画祭でプレミア上映され、ワールドシネマ部門で脚本賞を獲得、サン・セバスティアン国際映画祭では監督賞を獲得するなど世界各地で話題となる。2015年には2作の作品を製作、まず1本は短編ドキュメンタリー"Melody"を製作、今作はバイオリンに身を捧げた2人のチリ人女性を描き出した作品だ。そしてもう1作は第2長編の"Princesita"だ。チリの山奥、とあるセクトで生まれ育った12歳の少女が辿る大人になるまでの道筋を幻想的な筆致で描き出すカミング・オブ・エイジもので、Camila Gutiérrezとの再タッグ作品ともなっている。
最後に1つ。今作の製作にはパブロ・ララインという映画作家が関わっている。日本でもガエル・ガルシア・ベルナルが主演した「NO」が公開されているのだが、彼は現代のチリ映画界を代表する人物でありその監督作で世界に名を轟かせると共に、若い世代の作品をプロデューサーとして送り出していく重要な役割を担っている。エンド・クレジットにそんな彼の名前が現れるのだが、そのクレジットの横にはこう書かれる、"あなたが居なかったら私は無のままだった"と。両者の密な親交が伺える感動的な賛辞だが、こういった関係性が現代チリ映画界の隆盛を導いたと言えるだろう。ということで頑張れチリ映画界、頑張れRivas監督!
参考文献
http://www.indiewire.com/2012/02/futures-young-wild-filmmaker-marialy-rivas-talks-her-sexy-sundance-award-winning-debut-49290/(監督インタビュー)
http://www.pride.com/box-office/2012/11/30/director-marialy-rivas-her-provocative-film-young-wild-out-nyc-and-vod-today(監督のプロダクションノート。ピノチェト政権、この国でレズビアンであること、映画の製作過程などなど)