さて、このサイトではマンブルコアという、日本では完全に無視されていたゼロ年代の米インディー映画界における大いなる潮流について解説してきた。だが日本で不当に見過ごされてきた存在は何も彼らだけではない。アメリカ本国では一定の評価を獲得し、無二の立ち位置を築き上げてきた映画作家が数多くいる。そんな中でもとりわけ独特な位置にいるのがデヴィッド・ゴードン・グリーンという監督だ。
彼の名前を聞いてピンとくるタイプの人間にはおそらく2つのタイプがいる。まず1つはジェームズ・フランコやダニー・マクブライドみたいないわゆるアパトーギャングとつるんで「スモーキング・ハイ」やら「ピンチ・シッター」みたいな下らないアメコメ作ってた変な奴だろ?と思うタイプ。もう1つは「セルフィッシュ・サマー」って映画がベルリンの銀熊賞獲ったり、ニコラス・ケイジを主演に起用した「グランド・ジョー」はヴェネチアで超評判だったインディーでもアートハウス寄りな監督でしょ?というタイプ。この認識にはかなりの隔たりがあるのだが、しかしどちらも確かに彼の一面ではある。それでいて彼にはもっと多くの顔があり、実際アメリカにおいても底の知れない予測不可能な人物として名を馳せている。ということで今回から少しずつデヴィッド・ゴードン・グリーンという百面相作家の全貌を迫っていきたいと思う。今回は2000年製作の記念すべき長編デビュー作である“George Washington”を紹介していこう。
デヴィッド・ゴードン・グリーンは1975年4月9日アーカンソー州のリトルロックに生まれた。ラマーズ法のインストラクターである母親、医学部の学部長である父親、そして3人の姉妹に囲まれテキサス州ダラス近郊で少年時代を過ごす。家の近くには森や小川など大自然が広がっており、ここでの経験が後の作品作りにも繋がっていく。更に近くに出来たレンタル店ブロックバスター・ビデオで「アンタッチャブル」を借りたのがきっかけで映画にハマり「レディホーク」や「発情アニマル」など様々な映画に親しむ。7歳でキャロル・バラードの「ネバー・クライ・ウルフ」を、9歳でデヴィッド・リンチの「エレファント・マン」を、その後ピーター・グリーナウェイの「コックと泥棒、その妻と愛人」を観て将来の夢が決まったという。スーパー8を持って映画製作に明け暮れる一方、ロバート・アルトマンやテレンス・マリック(特に「天国の日々」)の作品に触れたり「アメリカを斬る」「普通の人々」という2つの作品との出会いによって、1968年から1980年までのアメリカ映画が至上だという価値観が形を成したのだそうだ。
最初はテキサス大学で学んでいたが、少年時代からの友人で後に自身の作品にも出演することとなる俳優ポール・シュナイダーと共にノースカロライナ美術学校に入り直し、映画製作を学ぶこととなる。卒業後はロサンゼルスで制作会社やスタジオでの仕事に携わるが、ここでの経験はハリウッドのやり方に反発を抱くだけの結果に終わる。ノースカロライナに戻ったのち、彼はドアノブ工場で働きながら予算を稼ぎ、撮影監督のティム・オールなど大学時代の友人を集めて長編映画の製作を開始する。共同生活を営みながらの親密な時間は、グリーンの初長編である“George Washington”へと結実していくこととなる。
“George Washington”の舞台となるノースカロライナ州のとある田舎町だ。昔は活気に満ち溢れていたというが、その面影はもうどこにも見ることは出来ない。溜め息のような衰退と世知辛い貧困が町を呑み込み、終わりの影ばかりがそこには宿る。今作はそんな町で生きる人々を描き出した一作だ。
中心となるのは夏の日を駆け回る少年少女たちだ。眼鏡が特徴的な小学生バディ(Curtis Cotton III)は恋人のナージャ(Candace Evanofski)と別れたばかり、自分は子供っぽすぎるというのだ。代わりに彼女が好きになったという相手はバディの親友であるジョージ(Donald Holden)だ。自分よりもずっと大人っぽくて格好いいのがその理由だという。だがバディの嫉妬とナージャの好意を尻目に、ジョージは遠い目をしてどこかを見つめている……
まず私たちに迫ってくるのは撮影監督ティム・オールが映す、ジョージたちを取り巻く環境の数々だ。ボロボロの土塊と化していく廃墟の群れ、ゴミが堆く積まれた無駄にだだっ広い裏庭、世界から取り残され打ち捨てられたままに朽ちていく街並み、その風景は息詰まるようなリアリズムに満ちている。だがここに宿るのは絶望感だけではない。廃墟にたむろする労働者たち(この中には盟友ポール・シュナイダーの姿も)は他愛ない冗談に笑いを響かせ、少年たちは自由に残骸の巷を駆け回る。そして両者は対等の立場で日常のあれこれや愛について語りあい、笑いあう。ここでは生々しい絶望と希望の息遣いが静かに拮抗しあっているのだ。
だがそういったリアリズム描写とは真逆の場所をも、今作は指向している。ジョージたちの世界は昼と夜とを問わず、不思議な橙色の光に満ちている。まるで黄昏の中で時間が静止してしまったとでもいう風に。この感触はどこか懐かしいものだ。例えば子供の頃、時間を忘れて友達と外を駆け回っていた楽しい時間が思い出されるような感覚、この時間に終わりなんて来ないのでは?と錯覚するような感覚。それでも実際に私たちは夜からは逃れられない、だがジョージたちは殆ど常に夕暮れの中にいる。そんな懐かしさと現実離れした空間には、どこにも存在するはずのない場所への奇妙な郷愁が滲んでいるのだ。
そしてこの郷愁を加速させるのがZene BakerとSteven Gonzalesによる様々な要素が混ざりあう、いわば万華鏡のような編集だ。物語は一直線に進んでいくことはない。少年少女、時には大人たちの視点を目まぐるしく移ろいながら、更に現在/過去、現実/空想が混じりあう劇的なまでの蛇行と共に物語は進むのだ。シーン同士の繋がりもジャンプカットに暗転、ディゾルヴなど不可解なまでに一貫しない。この錯雑性は、しかし橙色の彩りによって息を呑む詩情へと全てが溶けていく。私たちはこの映像詩を、まるで夢でも見るようのフワフワと漂うことになるのだ。監督はテレンス・マリックからの影響を公言しているが、今作を観ると然もありなんとしか言い様がない。
物語が進むにつれ、紡がれる詩はジョージという少年の心に肉薄していく。終ることのない夏休みの最中、彼は1つの大切な命を失いながらも、同時に1つの大切な命を救うこ。この2つの経験が彼にとり憑き、まるで亡霊のように心を苛むようになる。そして無邪気さは死の鉈によって容赦なく潰えていくこととなる。そんな残酷な世界に対し、ジョージはちっぽけな体で以て立ち向かおうとする。青いタンクトップを身に纏いスーパーマンのような扮装をしながら、彼は町の中を走り抜ける。“僕は世界で一番強くなりたい、英雄になりたい”という切なる希望を胸にして。
今作の題名“George Washington”とは当然アメリカ建国の父である合衆国初代大統領であるジョージ・ワシントンを指し示しているが、それと同時にジョージの英雄=大統領になりたいという微笑ましい願いをも指し示す。時は2000年、しかし黒人が大統領になるというのは夢のまた夢というものだったのだろう、おそらく私たちが思う以上に。それでも今作が完成し高い評価を獲得した9年後、バラク・オバマが大統領に就任し初の黒人大統領が生まれることになった。この瞬間に“George Washington”という作品の意味はより一層深くなった。例えこの時代が遥か彼方に過ぎ去ってしまったとしても。
参考文献
https://www.theguardian.com/culture/2001/sep/25/artsfeatures1(監督インタビューその1)
https://www.wsws.org/en/articles/2000/09/tff-s28.html(監督インタビューその2)