主人公のアフサン(İlham Babayev イルハン・ババイェフ)は父親(Valeh Kərimov ヴァレフ・カリモフ)によって"孤児院"と綽名される寄宿舎学校へと入れられることになる。だがここは暴力と悪徳が支配する無法地帯であり、臆病な彼はただただ脅威を耐え忍ぶしかなかった。この極限状態のなかで彼の精神は変容を遂げていく。
"Pəncərə"("窓", 1991)において描かれるのは当時のアゼルバイジャンにおける教育システムの腐敗だ。無法地帯である学校では子供たちの心は荒廃していき、残酷な行為の数々がいとも容易く行われる。だがそれ以上に酷なのは強権的な教師たちの存在だ。彼らは子供たちを度を越えて厳しく律していき、子供たちはそれに反抗することによって状況は悪化の一途を辿ることとなるのだ。
その最中には生徒たちそれぞれの背景も描かれていく。ある者は"孤児院"から逃げ出したいと願い、重く閉ざされた扉を叩き続ける。ある者は故郷への恋しさに震えながら、枕を涙で染めていく。そしてある者は隣接する女子寮の少女に恋をして、愛を育んでいくのだ。こういった思春期の多様な風景が繰り広げられながらも、全体としての印象はとても荒涼としたものだ。少年たちは否応なく暴力と苦痛に蝕まれていき、自身も悪徳に手を染めるのだ。そして教師たちもまた確かに自身の理想を持っている。だがその理想こそが子供たちへの抑圧に繋がるという悪循環がここには広がっているのである。
監督であるHəsən Əbluc ハサン・アブルジュとƏnvər Əbluc アンヴァル・アブルジュ(劇中では寮長役も兼任)の演出は、ブレッソンを目指すとでもいう風な厳粛さに満ち溢れている。当然その領域には至らないが核に粛たる規律が刻まれているかのようなリズムや空気感は悪くない、そう大きくはないアゼリー映画界でこれは野心的だと称えたくなる程だ。
そしてこの森厳なる雰囲気はElxan Əliyev エルハン・アリイェフの冷徹な撮影によって増幅していく。そのレンズと被写体の距離感はどこか凍えた緊張を湛えており、時おり不用意な肉薄を遂げる瞬間はあれども一線を越えることはないままに、凍てを持続していくのである。そのなかでMobil Babayev モビル・ババイェフの劇伴は少々騒々しく、これでは監督たちのブレッソンへの野心も形無しだ。
この"孤児院"に生きる子供たちは無法と暴力に埋没していき自身を残虐へと変貌させるか、それとも彼らに虐げられる敗者になるかしか道はない。監督たちがこの状況を丹念に描きだしていくなかで、その最も大きな被害者となるのがアフサンだった。様々な事件の勃発によって神経を擦り減らしていった彼の精神は平衡を失い、最後には窓から飛び降り自殺を遂げる(題名の"Pəncərə"はこの"窓"を意味する訳である)
ソ連属国末期のアゼルバイジャン映画は暗い作風の作品が多い。例えば1987年制作のHüseyn Mehdiyev ヒュセイン・メフディイェフ監督作"Süd dişinin ağrısı"(レビューをどうぞ)は出産時に亡くなった母を想いながら、その罪の意識と彼女を忘れていく家族への怒りから、1人の少年がショットガンで自殺するまでを描いた反出生主義の傑作であり、主人公が自殺するという点で凄まじい絶望を共有している。そして今作が制作された1991年、アゼルバイジャンは念願の独立を果たしながら、ナゴルノ・カラバフ紛争の激化とそれに伴う情勢や経済の悪化によっていっそうの闇の時代を迎えることとなる。この安定はHeydər Əliyev ヘイダル・アリイェフが第3代大統領就任を果たす1993年を待たなくてはならない。安定を引き換えにアゼルバイジャンは世界でも随一の縁故主義と腐敗政治を得ることになるが……
最後に監督であるHəsən ƏblucとƏnvər Əblucについて記していこう。Həsənは1942年、Ənvərは1947年生まれであり、両親はイラン北西部のアーザルバーイジャン出身のアゼリー人だが政治犯として追われ、アゼルバイジャンへ流れ着いた。Həsənは演技を学んだ後に映画や舞台で俳優として活躍する一方、Ənvər はアゼルバイジャンとソ連双方で監督業について学び映画監督としてキャリアを積んでいくことになる。そんな彼らが数少ない共同監督として一緒に手掛けた作品がこの"Pəncərə"という訳である。だがHəsənはこの3年後に51歳の若さで亡くなることとなる。それでもƏnvərは映画作家として"Ağ atlı oğlan"("白馬に乗った少年", 1995)や"Tərsinə çevrilən dünya"("裏返った世界", 2011)などを製作、アゼリー映画界の巨匠の1人としてキャリアを確立した。