さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)
この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアやブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。
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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画作家やライターになりたいと思ったんですか? どうやってそれを叶えましたか?
トーマス・レゴレツィ(TL):映画作家になりたいと思ったのは11歳ごろからです。私はカルフォルニアの中心部にある小さな町モントレーで育ちました。そんな小さな町にいると、ロサンゼルスの映画学校で学ぶなんて遠い夢のように思えました。それでも私はモントレーを離れロサンゼルスでドキュメンタリーを学び始めたんです。ここで私はイラン系アメリカ人作家Caveh Zahedi カヴェー・ザヘディのインディ作品"I am a Sex Addict"にプロデューサー・編集として関わることになりました。
それから5年が経って、私は2004年に初めてアルバニアにやってきました。ここでFatmir Koçi ファトミル・コチという監督の作品"Koha e Kometës"に携わることになりました。2007年を通じて製作が行われ、今でもアルバニア映画史において最も高額な映画作品として名が残っています。それからアルバニアの中心的な映画祭であるティラナ国際映画祭でプログラマーを2年勤め、"Bota"という作品の共同監督・共同脚本家を妻のIris Eleziとともに務めました。今作は時おりコミカルなドラマ作品で、2015年にはアカデミー賞のアルバニア代表にも選ばれました。
TS:あなたが初めて観たアルバニア映画は何でしょうか? その感想は?
TL:覚えておいて欲しいのは、私が小さな頃アルバニア映画を観るのは本当に難しかったことです。ほぼ不可能だったと言ってもいいでしょう。アルバニアは世界から完全に隔絶されていたんです。私のアルバニア生まれの父親とアメリカ人の母親は1954年に出会ったのですが、それは最初のアルバニア映画と呼ばれる、ソ連・アルバニア共同制作映画"Skanderbrg"の上映会場でした。
父が基地で行われる上映に行ったのは、自分の故郷の映画が上映されると知ったからです。母は毎日映画を観に行っていて、どんなものも観ていました。彼らは劇場にいたたった2人の観客でした。1987年には父の友人が"Skanderbrg"のVHSカセットを送ってくれました。ニューヨークのアルバニア人がいる店で買ってくれたんです。カセットケースにはアルバニアのシンボルである双頭の鷲と共産主義の星が描かれていました。私は何度も何度もこの映画を観ました。プリントがとても古くて、クレジットが色あせてしまっていましたが、そのせいでそこに私の大叔母であるMarie Legoreci マリエ・レゴレツィの名前があると気づくのに数年かかりました。彼女は俳優として出演していたんです。
"Skanderbeg"は15世紀にトルコ人と戦ったアルバニアの国家的英雄についての物語です。今作はアルバニア映画史において重要な作品と考えます。しかし今作をアルバニア映画と呼ぶかには論争があるんです。ロシア人映画監督Sergei Yutkevich セルゲイ・ユトケヴィチはセルゲイ・アイゼンシュタインの生徒でした。アルバニアで撮影されたアクションシーンはスリリングで衝撃的です。しかしソ連で撮影された打算を以て撮影された場面の数々は重苦しく退屈です。それでも非難し難い古典作品の1本でもあります。もし"Skanderbeg"が作られなかったら、両親は出会っていなかったでしょうし、私も生まれていなかったでしょう。
TS:あなたにとってアルバニア映画の最も際立った特徴とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底したリアリズムと黒いユーモアなどがあります。ではアルバニア映画はどうでしょう?
TL:私にとってアルバニア映画とは生存についての物語です。大いなる障害を乗り越え、ある種のアイデンティティーや尊厳を保とうとする訳です。共産主義下において、多くの映画はイタリアやドイツからの解放戦争を描いていました。アルバニアのマルクス主義政権はロシアやイギリス、アメリカの助けなしに国を解放したことを誇りに思っていました。共産主義末期、1980年代に作られたアルバニア映画も個の生存闘争を描いており、これが共産主義の崩壊にもある意味繋がることになります。崩壊後の、90年代ゼロ年代のアルバニア映画は、資本主義によって変化が訪れた時代に、人々が自身のアイデンティティーや個をいかに保ち続けるかを描いていました。
アルバニア映画は失われた機会について映画でもあります。私が悲しく思うのは、アルバニアが同じ地域の国々、例えばルーマニアなどができたようには、自身の国の映画を定義しえなかったことです。ジャンニ・アメリオの"Lamerica"やダルデンヌ兄弟の「ロルナの祈り」、ラウラ・ビスプリの「処女の誓い」やジョシュア・マーストンの"Forgiveness of Blood"、そしてDaniele Vicariの"La nave dolce"など、アルバニアにおける出来事について作られた有名な作品は全て外国の映画作家が作っています。アルバニア人の手による物ではありません。
アルバニア映画について考える時、時折頭に思い浮かぶのはGjergj Xhuvani ジェルジ・ジュヴァニの作品"Slogans"(2001)です。今作は共産主義時代、人々が山の中腹に石のスローガンを描くために送られる姿を描いた作品で、そのスローガンとは独裁政権の勝利を伝えていたんです。スローガンの最後の場面で、政権に打ち負かされた教師が生徒ともに拒否されたスローガンを再び作り直すことになります。その時の教師の表情――Arthur Golishti アルトゥル・ゴリシュティが演じています――はアルバニア人が耐え忍んできた歴史の多くを語ってくれます。
"Skanderbeg"
TS:世界のシネフィルにとって最も有名なアルバニア人監督はXhanfize Keko ジャンフィゼ・ケコでしょう。"Tomka dhe shokët e tij"など彼女の作品は雄大であり、彼女はアルバニアのアッバス・キアロスタミと言いたくなるほどです。しかしKekoと彼女の作品はアルバニア本国でどのように評価されているのでしょう?
TL:長年の間、彼女はアルバニアで尊敬されていると思います。しかし映画コミュニティにおいて、彼女はもっと尊敬されている男性監督と同じほど知名度はありませんでした。どういう訳か、彼女は子供映画の監督として見過ごされていたんです。それから興味深いことが起きました。アイルランドの映画評論家・映画作家Mark Cousins マーク・カズンズの硬い意志と言葉によって、彼女は国際的な知名度を獲得することになったんです。
Cousinsは世界に広めるべきアルバニア人作家を探すため、2013年にこの国へやってきました。私が気に入っているのは、彼がXhanfize kekoを選んだのは彼女がただの職人であるからだけでなく、共同した子役たちから素晴らしく豊かな演技を引き出せる監督だったからということです。アルバニアに来た後、彼はKekoの作品を特集したドキュメンタリーをいくつも作っています。彼の最新作である14時間のドキュメンタリー"Women Make Film: A New Road Movie Through Cinema"の1セクションは彼女に捧げられています。
アルバニアの映画作家やシネフィルたち――ほとんどが男性ですが――は男性監督であるDhimitër Anagnosti ジミタル・アナグノスティが世界で最も有名な作家だと見做してきました。私としても、彼はアルバニア映画史に堅実な貢献をしてきたと思います。しかし彼の作品がアルバニア国外、国際的に評価されているかは定かではありません。あるアルバニアの男性監督が私に言いました。"Xhanfize kekoはアルバニアの最も偉大な女性監督だ。しかしAnagnostiが我々にとって最も偉大な監督だ"と。そでもだが世界の映画史という観点から見ると、Xhafize Kekoこそが世界に知られる作家なのでしょう。
TS:アルバニア最初の長編映画は"Tana"(監督はKristaq Dhamo クリスタチュ・ジャモ)ですね。私もその新鮮さと若々しさに魅了されました。しかし今作は1958年に作られていますね。どうしてアルバニアで初の長編映画が作られるのはこんなにも遅かったのでしょう?
TL:理解しておくべきなのは、第2次世界大戦の終結時、アルバニアには映画産業というものが存在していなかったことです。共産主義者が実権を握った時、映画は優先事項ではなかったし抑圧もとても激しいものでした。ここにこのような物語があります。支配者であったイタリア人たちがある若いアルバニア人医師に8mmカメラを残しました。彼はShkoderの北部の町でパルチザンが行進する姿を撮影しました。しかし政府の締めつけは激しく、カメラは没収され彼は監獄に収監されました。そしてフィルムは永遠に失われてしまいました。
無から映画産業を興したのはソ連です。ロシア人たちがKinostudioを建築し、その建物は今でも我々の文化庁として建っています。Xhanfize kekoら映画の熱狂者たちはモスクワやプラハへ映画製作を勉強しに行きました。しかしアルバニア映画の大きな悲劇の1つは1961年にソ連と決裂したことでした。"Tana"は1959年に制作されたのですが、ロシア人が映画を製作するために多大なサポートをしてくれたんです。彼らが去った後、アルバニアは文化的な孤立状態に陥ることとなります。"Tana"はロシア人が去る前に作られた数少ない1本なんです。"Debatik"という作品は"Tana"が魅せたような叙情性を持っており、それらはアルバニアが東側ブロックにいれば残っていたものだろうと思われるのです。
TS:あなたは他のインタビューで"もちろん、アルバニア文化においてイスマイル・カダレの影響を無視するのは不可能でしょう"と仰っていましたね。ではアルバニア映画の領域において、その影響はどのようなものだったんでしょう? 少なくとも、彼の作品は何度も映画化されていますね。
TL:イスマイル・カダレは世界的に見てアルバニアで最も有名な文化アイコンでしょう。彼の小説は数十もの言語に訳されていますし、ノーベル賞にもノミネートされ、マン・ブッカー賞を受賞してもいます。共産主義下、Kinostudio時代において、彼と妻のElenaは映画の脚本をいくつも書いていました。そして小説の多くが映画に脚色されてもいます。アルバニアでだけではありません。ブラジル人監督ウォルター・サレスは「ビハインド・ザ・サン」を、カダレの作品を元に制作していますね。しかしアルバニアにおいて彼は複雑な人物です。カダレが共産主義下で世界的な名声を獲得した事実は、多くの知識人にとって攻撃の対象でもあります。個人的にはマルクス主義時代の行動で誰かを断罪するのは難しいと思います。アルバニアは完全な独裁主義政権であり、多くの芸術家が生きるためにできることをやらなければなりませんでした。皮肉なのは、アルバニア映画とは違いカダレの作品は世界的に評価されていることです。カンザスで、モスクワで、東京で、人々はどこの本屋でも彼の翻訳作品を見つけることができます。イスマイル・カダレはアルバニア人の経験を世界に伝えた一方で、アルバニア映画は世界の文化に対してそういったことを成し得ることは叶いませんでした。
TS:次は"Vdekja e kalit"について聞きたいと思います。今作に個人的に思い入れがあるのは、私が生まれた1992年に制作された作品であるからです。それから英語版Wikipediaにこういった記述を見つけました。"この映画はエンヴェル・ホジャの独裁政権下における初の反共産主義映画として注目に値する"というものです。これは本当なのでしょうか? もしそうならこれについてぜひ日本の読者に説明してください。英語にも日本語にも今作についての情報はありませんからね。
TL:Wikipediaは間違ってますね。"Vdekja e kalit"は独裁政権が崩壊した後、最初に作られた作品なんです。エンヴェル・ホジャ自身は1985年に亡くなっています。監督はSaimir Kumbaro サイミル・クンバロ、共産政権のKinostudio時代におけるリーダー的な存在の1人でした。脚本はNexhati Tafaという人物が執筆しており、彼は私のとても好きなアルバニア映画"Dimri i dundit"の脚本も書いています。不幸なことに、今作の芸術的ブレイクスルーは続くことはありませんでした。そしてこの作品はアルバニア映画の現実的な前提を表しています。特に今作はフランスと共同制作を行っています(撮影監督と作曲家はフランス人です)しかし1990年代はアルバニアにとって信じられないほど過酷な時代となりました。社会主義から資本主義に移行する過渡期にあったんです。1997年、アルバニアは経済崩壊のトラウマに苦しみ、ほとんど内戦状態に陥りました。その間、映画製作はストップしてしまったんです。
Kumbaroの"Vdekja e kalit"がとても好きです。今作を観るのはすこぶる感動的な経験でした。監督はとても賢く、政権が崩壊してすぐ、独裁に傷ついていた人々についての映画が作れたのは幸運でした。"Vdekja e kalit"には知識人的な無関心はありません。感情に満ちた作品で、スリラーの雰囲気とともに進んでいきます。
長年、エンディングには不満を感じていました。"Vdekja e kalit"の終盤、不当に収監されていた軍人の男が、通りで自分を裏切った人間と再会します。その人間が新しい民主主義的な政府で重要な政治家になっていると知った時、男は立ち去ることができなくなります。アルバニアにおいてこの場面はとても皮肉なもので、なぜなら共産主義者は1人も裁判にかけられなかったからです。しかしそれによってラストにはカタルシスも解放も存在しないんです。私と妻のIrisは今作を首都のメイン広場で上映しました。最後の場面の間、ほとんど30代以下の観客の間には痺れるような雰囲気が満ちていました。アルバニア人はこの国で上映される作品のほとんどがハリウッド映画でありながら、自国の映画にも共感できるという事実には希望を抱きました。
"Vdekja e kalit"
TS:あなたは執筆したアルバニア映画の紹介文の中で、こう書いていますね。"新しい世代の映画作家、例えばKujtim Çashku クイティム・チャシュクやSpartak Pecani スパルタク・ペツァニらが社会主義のルーマニアで学んだ後、バトンを受け取りました"と。私にとってこれがとても興味深いのは、私はルーマニア映画の研究者であり熱狂的なファンでもあるからです。なので聞きたいのは、映画におけるアルバニアとルーマニアの関係性はどういうものだったのかということです。社会主義時代において交流は頻繁なものだったんですか?
TL:不幸なことに、アルバニアとルーマニアの交流は頻繁なものではなかったですが、とても重要なものでありました。1975年までにアルバニアは他国のほとんどと国交が断絶していました。しかし政権の文化の担い手は映画作家たちは他国で訓練する必要があると認識していました。
長年、若いアルバニア人はロシア、ポーランド、イタリアのアニメーションしか観ることができませんでした。しかし1975年、2人のパイオニアであるVlash Droboniku ヴラシュ・ドロボニクとTomi Vaso トミ・ヴァソが数か月ルーマニアに赴き、アニメーションの極意を学び取っていったんです。そしてアルバニアに戻ってアニメーションスタジオを建設しました。
2人の映画監督Kujtim ÇashkuとSpartak Pecaniは20代の頃にルーマニアへ送られました。Çashkuは共産主義を描いたベスト映画の1本"Kolonel Bunker"(1996)を製作し、私立学校Marubi Academyの校長にもなりました。Pecaniは映画を作り続けましたが、Kinostudio時代の作品はとてもメロドラマ的なものでイタリアのTVドラマのようでした。
Pecaniはルーマニアからアルバニアへ戻ってきた時、独裁政権がいかに検閲を強めているかにショックを受け悲しんだかを記しています。おそらく彼は監視されていたんでしょう。Çashkuはブカレストを発つ前に買ったという輝くオレンジ色のシャツについて書いています。そのシャツはアルバニアの乾いた社会においては際立っており、彼がそれを着ていると人々は嫉妬したそうです。そして最後には服を放棄せざる得なくなりました。私が思うにこの話はアルバニアの政権の不条理さや危険さを伝えているでしょう。ルーマニアとアルバニアの芸術的なコラボが結実しなかったことを象徴してもいるでしょう。
TS:あなたにとって最も重要なアルバニア映画はなんでしょう? その理由も教えてください。
TL:私の意見としてはMuharrem Fejzo ムハレム・フェイゾとFehmi Hoshafi フェフミ・ホシャフィの"Kapedani"だと思います。今作は1972年に制作されたモノクロ映画です。今作は1968年から1973年の間、アルバニアの共産主義政権がリベラリズムに傾いた奇妙な時期に作られた作品です。
"Kapedani"は海沿いの村を離れ首都に赴き、政権下において女性の持つ権利に抗議する、野性的で頭の固いパルチザンの姿を描いています。今作は喜劇的で快活、緩くも黒いユーモアを同時に持っています。時にはそれが同じ場面に同居しているんです。全てのアルバニア映画が持つべきだったものでしょう。しかしリベラリズムの波は途絶え、それが本作の最後となりました。幸運なことに映画自体は生き残りましたがね。今作がコメディだったことで共産主義下でも生き残ったのではないかと思われます。
今作は今でも老若男女に最も人気で魅力的なアルバニア映画です。ここには他のアルバニア映画で繰り返されることのなかった、夢の場面やファンタジー的な場面が存在しています。監督のFejzoが今後猛烈にドグマ的なプロパガンダ映画ばかり作り出したのが悔やまれます。おそらく"Kapedani"の面白さを償うためだったんでしょう。
TS:もし1本だけ好きなアルバニア映画を選ぶなら、何を選びますか。その理由もぜひ知りたいです。個人的な思い出があるのですか?
TL:これは個人的なものになりますが、私のとても好きな映画に7分の小さな傑作アニメーション"Kompozim"(1992)があります。監督のStefan Taci ステファン・タツィは私が最も好きなアルバニア人映画監督であり、アニメーターになることを決めた後、共産主義政権が崩壊してから10年もの間に傑作を作り続けました。
彼の作品群は1時間にもなりませんが、何度も何度も観てしまうんです。彼は純粋な芸術家であり、あらゆる方法で実験を行っています――例えばカットアウト手法やクレイ・アニメーションなどです。彼はアルバニアの独裁政権の崩壊を描いた素晴らしい作品"Gjera qenuk ndryshojne"(1993)を製作していますが、ここにおいてはリンゴとナイフしか使っていないんです。そして"Kompozim"はアルバニアの過去と現在に対する作家的な視線であり、色彩と音楽に満ちた鮮烈なタブローが浮かび上がっています。彼の作品は手製でパソコンなどは使っておらず、従って完成に1年はかかります。
Stefan Taciはアニメーションで以て彼独自の世界を作っています。それは眩く熱気溢れる世界であり、そこに永遠に住んでいたいとすら思います。アルバニア人アニメーターによる作品群は自国の観客にとって長年全く知られずにいました。私とイリスは数年前にティラナのオペラ劇場でこれらのアニメーションを上映しました。その頃Taciは誰も自身の作品を観ないのに絶望していました。しかし"Kompozim"を上映した時、文化庁の長官が闇の中で叫んだんです。"何てことだ、これはまるでゴッホだ!"と。
TS:アルバニア映画の現状はどういったものでしょう? 日本からはその状況について全く窺い知ることはできません。なので日本の映画好きもアルバニアの現状を知りたがっています。
TL:アルバニアで映画作家であること、映画を製作することは生存闘争のようでもあります。アルバニアの文化庁は国立映画センターに1年で100万ユーロを与えてくれました。映画の計画は受け入れられた場合、基本資金の量に左右されます。映画作家はプロデューサーや財政家の領域にも立ち入らなければならず、計画を完遂するための予算の残りを自分で集める必要があります。しかしアルバニア映画は金を稼げず存在感も薄いので、映画を完成させるための予算を稼ぐため多くの年数をかける必要があります。私とIrisの場合、このおかげで"Bota"の脚本を何度も何度も改稿できた訳ですけども。
TS:2010年代が数か月前に終わりました。そこで聞きたいのはこの年代において最も重要なアルバニア映画についてです。例えばJoni Shanajの"Pharmakon"、Iris Eleziの"Bota"、Florenc Papasの"Derë e hapur"などがありますが、あなたの意見はどうでしょう?
TL:思うにここ10年での最も重要なアルバニア映画はJoni Shanajの"Pharmakon"だと思います。監督がYoutubeに英語字幕付きで配信しているので、ここではあまり語る必要はないでしょう。思うにバルカン半島、もしくは世界の映画に関心があるなら今作を観て、経験するべきです。私はその年のトップアルバニア映画を祝うイベントにて、ティラナの劇場にある大きなスクリーンで今作を観ました。ファーストショットで、あるプロデューサーが劇場を飛び出し、前庭で餌付いていました。これほど素晴らしい讃辞が私には思いつきません。
"Pharmakon"