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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

“アルバニア、その映画デザインという芸術” by Thomas Logoreci

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さて、現在この鉄腸野郎では世界各国、特に東欧の映画評論家にインタビューし、日本ではあまり知られていないその国の映画史や映画批評について聞いてきた。今までにスロヴェニアの映画評論家4人に話を聞いた4本の記事を出した他、今後は北マケドニアアルバニアアゼルバイジャンの映画評論家に話を聞いたインタビュー記事がお披露目になる予定である。

そんな中、アルバニアの映画史を調べようとした際、私はThomas Logoreciという人物に出会った。彼はアルバニアアメリカ人の映画批評家映画作家であり、現在は妻で同じく映画作家Iris Eleziとティラナに在住している。早速彼に連絡をしたところ、インタビューを快く受け入れてくれ、しかもアルバニア映画への興味の礼にと、彼が2016年に開催したアルバニア映画ポスター展覧会のカタログを送ってくれた。東欧映画には目がない私には最高の贈り物だったが、そこで素晴らしいものを見つけた。

Logoreciがカタログの最初に記していたのは、アルバニア映画のポスター史からアルバニア映画史を探る、1万字にも渡る論考だった。読みながら、私は目眩がした。世界にはまだ見ぬ映画がこんなにたくさんあると。そして同時に英語で書かれたアルバニア映画史についての記事がどれくらいあるだろうと。アルバニア語には歯が立たないが、英語なら割かし対応できる。そして私はこの文章を訳する許可をもらい、翻訳に取りかかった。

ということで、ここから紡がれるのはアルバニア映画史についての1万字に渡る論考である。このワンマン映画誌の読者方、あなたはどのくらいアルバニア映画を挙げることができるだろう。おそらく1本も言えない方が大半だろう。しかしそういった人々に対して、日本語で書かれた記事は存在しなかった。それも今日で終わりである。ぜひこの文章を読んでほしい。あなたの知る映画史の埒外にもまだこんな豊かな世界が広がっていると分かるはずだ。そして後にお披露目されるだろうLogoreciのインタビュー記事と合わせて読めば、アルバニア映画史の全貌が垣間見えるはずだ。それではアルバニア映画史の旅を楽しんでほしい。

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私が鮮明に覚えているのは、1984年、週に1回もらえる2ドルを貯めて、Mira LiehmAnthony J. Liehmが執筆した分厚い本"The Most Important Art: Soviet and Eastern European Film After 1945"の中古版を買ったことだ。その頃、私はカリフォルニアの高校に通う若い映画狂で、アルバニアアメリカ人として、映画を通じ父の故郷を知るのに熱心だった。想像してみてほしい。10ドルの本を買って、家に走り、序文を読んでみたら"我々は国際版においてアルバニア映画の章を削除した。それは調査に古いデータしか使えず、我々の基本的なコンセプトに沿うことができなかったというシンプルな理由からである"という文章が目に飛び込んできた時の驚きを。アルバニア無しの東欧映画? そんなの可能なのか?

今でも、誰かが私に映画という美術様式の視覚的なパワーを定義するイメージをリスト化してほしいと求めてくる時、その独特の瞬間の数々は、1944年から1991年までの半世紀続いた共産主義の独裁時代、その時に作られた映画から立ち現れてくる。

馬車の運転手が泣きながら少年の叩き割られた死体を運ぶ、そしてその姿をカメラが脇から追っていくうち、黒衣の女性が子供の顔を愛撫する。この忘れられない終幕はHysen Hakaniのモノクロ映画"Debatik"(1961)のものである。それからMuharre FejzoFehmi Hoshafiの素晴らしい風刺劇"Kapedani"(家父長制, 1972)はこんな夢の風景から幕を開ける。老いたパルチザンの男が500年の間に襲ってきたアルバニアへの侵略者たちと戦う姿を妄想する。ナチからオスマン帝国トルコ人まで、男はモジャモジャの口ひげの左側を上げて彼らの攻撃を知らせる。それからViktor Gjika"Rrugë të bardha"(白い道々, 1974)での緊迫した終盤だ。キリストのようなポーズで凍りついた電話の修理人が電柱に掴まりながら生にもしがみつく。そして自身を犠牲にして、田舎町の住民たちが新年を祝えるようにするのだ。

これらのサインはアルバニア映画において輝きながら、バルカン半島の外では何も意味することはない。それでもアルバニアで育った人々には、これら印象的な場面の数々は複雑で感情に満ちた美術的遺産を象徴している。永遠に消えてしまう危機に陥っている遺産を。

こんにち、1党独裁体制が崩壊して20年と半分が経った後においても、アルバニアの映画的な遺産はあまり知られていない(それについて書かれてもいない)おそらくとても知識のある映画批評家でも挙げられる監督や作品は、厳格だったマルクス的政府が衰えていった時代から現れたものだろう。例えば"Tirana Year Zero"(2001)のFatmir Koçi「スローガン」Gjergj Xhuvani ジェルジ・ジュヴァニらは、Enver Hoxha エンヴェル・ホジャ(1908~1985)という指導者を独裁を行っていた時代に生きるうえでの、今でも続くトラウマを描いた重要な作品を制作した。

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アルバニア人にとって、歴史におけるこの時代は複雑な意味に溢れており、新聞やベストセラーの本、夜のテレビ番組などでも議論が続いている。ある者には映画スタジオの時代に作られたこの映画芸術は痛みを以て閉じられた社会を思い出させるだろう。外国映画をテレビで観ることは"外圧とプロパガンダ"の影響にあると牢屋に収監されることを意味していた社会を。

ソビエト連邦が作った映画スタジオShqipëria e Re(新たなるアルバニア)を1952年に開いたのはホジャ自身である。彼がこのアルバニア唯一の映画スタジオに就任してから、232のフィクション長編、数千のドキュメンタリーやニュースリール、そして数百のアニメーション映画が作られた。

この"The Art of Albanian Motion Picture Design – Highlights from the Kinostudio Years"という展示会は2016年の4月から6月までティラナのアルバニア国立芸術ギャラリーで行われ、1940年代後半の最も初期のアルバニア映画ポスターから2014年の最新デザインまで年代順にお披露目される。ソビエト連邦のデザイナーによる最初の作品群も展示し、アルバニア映画史の最初期にオマージュを捧げている。これらは標準的な社会主義的リアリズムにおける牧歌的な風景を描いている(いくつかは永遠に来なかった栄光の未来を、幸せな形で明示してもいる。老いた吟遊詩人が古代アルバニア叙事詩的な歌を唄う。誇り高き父親が熱心な息子に、トラクターのタイヤの跡がついた肥沃なる大地を見せる)残ったポスターはとても少ないが、残ったものはコレクターアイテムにもなっている。

スターリンが亡くなった1953年から1960年代前半まで、熱意のある映画作家や技術者たちがソビエト連邦での修行を終えて戻ってくると同時に、アルバニア映画は最初の満開期を迎える。Sergei Yutkevichアルバニアソ連の共同制作である叙事詩的映画"Skënderbeu"(1954, 最初期のカンヌで賞を勝ち取った)やKristaq Dhamoの感動的な田園ドラマ"Tana"(1957)などだ。それに加え"Debatik"などは、社会的リアリズムの様式が支配的になった国民映画の誕生を示唆しているだろう。しかしそれも東側諸国における理論的イノベーションによって少しずつ取って代わられていくのであるが。

そしてこの短いルネッサンスは、ホジャが先人であるスターリンの過剰性を批判したフルシチョフに追随することを拒否した時、停滞を迎える。1961年、ホジャはモスクワに行き、ロシアの指導者はマルクス主義に対する裏切者だという強烈なスピーチを行った(このダヴィドVSゴリアテの時代は後にKujtim ÇashkuPirro Milkaniによる映画スタジオ制作映画"Ballë për ballë"(面と向かって, 1979)に結実する)アルバニアは突発的にマルクス主義者としての道を急旋回し、2000マイル離れた毛沢東主義の中国へ向かう。

ホジャより前の時代、アルバニアの映画館ではイタリアのコメディやメロドラマ、いわゆるTelefoni Bianchiという種類の作品が上映されていた。そしてソ連人がアルバニアの映画館に詰めかけ、戦争時の心躍るスペクタクルや集団農場を舞台としたミュージカルを楽しんだ。時おりは西側の作品も上映されることになった。スタンリー・キューブリックスパルタカス(1960)やエリア・カザン「革命児サパタ」(1952, マーロン・ブランドはフランス語吹替だった)にヴィットリオ・デ・シーカミラノの奇蹟がその一例である。だが1960年代に文化的な締めつけが強まっていくことで、この映画的な自由の灯は消え去り、"The East is Red"などの中国映画が増えていった。

アルバニアの観客たちは突然この文化革命の真っただ中に投げ出され、どう対応したのか? 観光客として、ある1人の外国人ジャーナリストが1960年代にアルバニアを訪れ、こう書いている。"中国映画がたくさんの屋外上映場(ある観光客はアルバニアには歩行者のためのドライブイン・シネマがあるのかとコメントしている)でお披露目されている。暗闇の中で、学生たちは濃厚なプロパガンダにブーイングをあげ、口笛を吹いていた"と。暗闇の中での笑いは反抗の一種であったのだ。

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おそらくアルバニアの観客は自分たちの国民映画が隆盛してから、こうも簡単に他の映画を軽蔑することができたんだろう。ソビエト連邦でカメラマンとして訓練した人物は立派な映画監督になった。1960年代中盤、アルバニアジョン・フォードと呼ばれるDhimitër Anagnostiは2作の逞しい映画を作った。モノクロの"Komisari i dritës"(輝ける人民委員, 共同監督はViktor Gjika)と、海を舞台としたスリラー映画"Duel i heshtur"(沈黙の決闘, 1967)である。男優や女優の新しい世代、例えばTimo FllokoRikard LjarjaRobert NdrenikaMevlan ShanajRoza Anagnostiなども映画における演技芸術を、舞台の伝統から、必要な時大きなスクリーンを支配できる、アクセスしやすい雛形に変えたのである。テレビを持つことがほとんどのアルバニア人にとって贅沢だった時代から、映画の観客数は膨大であり、住民たちは1年に10本の映画(圧倒されるほど国威発揚的な)驚くことに、アルバニアの国土に反比例して、映画スタジオは1975年から1980年まで1年に13本もの映画を作っていた。

皮肉にも、頻繁にカオスだった文化大革命の真っただ中で、吹替えられたアルバニア映画だけがイデオロギー的に純粋な製品であり、中国の映画好きには合っていた。Gëzim ErebaraPiro Milkaniパルチザン映画"Ngadhnjim mbi vdekjen"(死を越えた勝利, 1967)は中国においてマイルストーンであり続けた。その長い影響はシャオ・チアン「玲玲の電影日記」でフィクション化されている。この毛沢東の映画館における中国人の生活を甘酸っぱく描き出す作品において、面目をつぶされた妊娠中の労働者は、"Ngadhnjim mbi vdekjen"アルバニアの女優Eglantina Kumeが死にも臆さず進んでいく姿を見て、自殺を思いとどまる。中国の共産主義政権は、アルバニアの男優Rikard Ljarjaが、映画内でギターをかついでパルチザンの歌を唄う場面があったことで、中国全土のアコースティック・ギターを壊すことを取りやめたという伝説もある。アルバニア映画はフィクションにおける自殺を止める力を持ち、独力で中国のギターを守ったようなのである。

初期の映画ポスターは驚くべきもので、リアルな皮肉や見せびらかし、サイケの仄めかしから作られている。例えばKsenofon DiloGrigor IkonomiMyrteza FushekatiShyqyri SakoNamik Prizreniなど、ジャンルにおける巨匠や芸術家による濃厚な色彩の大胆な構成が特徴的だ。

1968年から1973年の間、アルバニアの美術界では予期せぬ雪解けが起こった。この自由化の理由は多様なものであるが、いくつか例を挙げられる。1967年にアルバニアは世界初の無神論的国家を宣言したのだ。その過程で膨大な数のモスクや教会を破壊したのである。そして1968年にはソ連プラハに侵攻した後、ワルシャワ条約機構から撤退した。ホジャはしばらくの間それをスムーズに成し遂げようとしたようである。首都ティラナのメイン通りにおいて、彼は本やロックのレコードを禁止したのである。絵画においてはEdison Gjergo"Epika e yjeve të mëngjesit"(朝の星々の叙事詩, 1971)という時代を象徴する作品を作り上げた。そして国際ブッカー賞の受賞作家であるイスマイル・カダレは2作の傑作を書き上げた。"Kështjella"(城, 1970)と"Kronikë në gur"(石の年代記, 1971)である。

映画ポスターにおいてもその移行は反映されている。Shyqyri Sakoによる"Duel i heshtur""Horizonte të hapura"(開かれた地平線, 1968)の印象的なデザイン、そして"Odiseja e tifozave"(翼のオデッセイ,1972)の色とりどりなカット&ペーストは代表的なものである。そして何本かの記憶に残る作品もこの創造的な自由の炸裂から生まれた。コメディ作品Kapedani(1972)や、アルバニア北部の高地にはびこる深刻で家父長制的な伝統を反映したスタイリッシュな作品である、Piro Milkani監督作"Përse bie kjo daulle"(なぜ太鼓は響くのか,1973)などである。1973年にはこの芸術的な開放は突然の停滞を強いられてしまう。ポスターも、想像的なデザインの"Kapedani"から、黙らされた否定的なデザインのMyrteza Fushekatiによる"Momoza llastica"(甘やかされたミモザ, 1973)のようなものに取って代わられてしまう。

しかしアルバニアがさらにドグマ的な社会主義的リアリズムの様式に鞍替えするうち、映画的な結実もまた増えていく。理論的な停滞にも関わらず、映画スタジオに所属する編集兼映画監督のXhanfize Kekoは、子供映画というジャンルを駆使して、同僚の男性監督による作品には見られない関心を表現してみせた。1977年の作品"Tomka dhe dhokët e tij" (トムカとその友人たち)は子役たちから自然な演技を引き出す注目すべきスキルをフルに発揮している。内容としてはある少年たちのグループが自分たちのサッカー場を軍事基地にしてしまったドイツ人兵士に復讐するというものだ。1970年代の過渡というこの時期に見るべきポスターはKleo NiniAlush ShimaAzis Karalliuらのもので、手書きで想像力に溢れた、力強いものである。

そして映画作家の新しい世代、社会主義ルーマニアで学んだKujtim ÇashkuSpartak Pecaniがバトンを受け取った。例えばÇashkuの異様な"Pas vdekjes"(死の後に, 1980)やPecaniの"Si gjithë të tjerët"(他の皆のように, 1981)などがその代表例である。1974年以降のこの時期、映画スタジオではアニメーションが作られるようになった。最初のアニメーション・デザイナーたちはルーマニアで勉強しており、彼らの最初期のポスターは有名な東欧、特に1960年代のポーランドのポスターにオマージュを捧げたものだ。アルバニア最初のアニメーション映画は"Zana dhe Miri"(ザナとミリ,1975)という、しなやかで挑発的、ミニマルな作品だった。ポスター自体もそういったものだ。

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1985年におけるホジャの死より前の5年間は、独裁政権の最も荒涼とした時代だった。1978年に中国と決裂した後、アルバニアの孤立は深いものとなった。毎年行われるメーデー・パレードの際に旗は立てられながらも、既に感情を全て失った手を握っていた訳である。昼も夜も停電が続いた。機械の新しい部品もなかった。ほとんどの家族は夜明けに起きて、パンやミルク、灯油のため列に並ばなくてはならなかった。1982年、Viktor Gjikaは多くの才能や映画スタジオの資源を一か所に集め、この国で最も高価な映画を作った。1912年のアルバニア独立宣言を描いた、圧倒的な愛国主義的クロニクル"Nëntori i dytë"(2度目の11月)である。

エンヴェル・ホジャの死後には当惑が残されながら、イデオロギー的な高速具からは暫定的に解放されることになる。共産主義のシステムが崩壊する前の80年代後半、アルバニアの観客は450ある室内・野外映画館に詰めかけ、Dhimitër Anagnostiの愛すべき"Përrallë nga e kaluara"(過去からの物語, 1987)やBujar Kapexheの崩壊を滑稽に予見する"Tela për violinë"(ヴァイオリンの弦, 1988)を観に行った。この印象的な2作は10年前は考えられないもので、ホジャ時代の社会主義的再現映画から、個人的な悪魔に憑りつかれた人々の映画へ移行していった訳である。Ndriçim Xhepa"Flutura në kabinën"(キャビネットの中の蝶, 1988)で、孤独で不機嫌な酔いどれトラック運転手として愛が持つ救済の力を目撃する。一方でMarjeta Ljarja"Rrethi i kujtesës"(記憶の環, 1988)で、精神医学の救済の力を発見するホロコースト生存者を演じている。

独裁制から民主主義への困難な移行は映画スタジオ"Shqipëria e Re"の死を引き起こした。そして西側諸国が初めて見たアルバニアのイメージは何千人もの難民たちが衰えゆく政権から逃げ出し、イタリアへ行くためボートでアドリアン海をわたる場面だった。90年代前半のほとんどはアニメーター、編集、監督、カメラマンたちには仕事がなかった。以前の従業員たちは映画スタジオから離れ、首都の外へ移住していた。そして閉じられた鉄の門が開き、再び映画製作ができるようになる日を願っていた。映画作家Eno Milkaniは1990年代中盤の悲しい時代をこのように振り返る。彼がスタジオに赴いたところ、ビルの重い鉄扉が撤去されスクラップとして売られていたそうだ。40年前に開いた後、映画スタジオ"Shqipëria e Re"は完全に消え去った訳である。

しかし90年代にそれ以降、観客の頭からは"Kapedani""Debatik""Përrallë nga e kaluara"が頭を離れなかった。何故ならこれらの作品がテレビで延々と流れ続けたり、ビデオが道端の市場で売られていたからであり。イデオロギー的な内容に関わらず、スタジオ映画はアルバニア人集合的記憶の一部になったのである。

だがこの20年間、アルバニアの映画遺産はあらたな困難に直面している。他の国と同じように、オリジナルのネガが褪色し始めているのだ。アメリカの映画活動家Regina Longoによって始められたアルバニア映画プロジェクト(ACP)という組織は、アルバニアの危機に瀕した映画に世界中の関心を集めるためのものだ。アルバニア独立の100周年が祝われた2012年の11月、ACPはViktor Gjika"Nëntori i dytë"リマスターを行った。次はXhanfize Keko"Tomka dhe shokët"のリマスターを行い、1977年のアルバニアで上映してから実に37年後、イギリスで劇場公開された。いくつかのリマスターによって、映画スタジオ時代にアルバニアで作られた映画の数々は国際映画祭やレトロスペクティヴで上映されることになるようだ。

こんにち、この映画スタジオ時代の映画たちはある種の復活を遂げている。映画批評家Julian Bejkoは過去のアルバニア映画における複雑なニュアンスと大きな社会的移行について分析した、2冊の素晴らしい本を出版している。アイルランド映画批評家映画作家Mark Cousinsアルバニアへと旅行し、長編のエッセー映画"Here Be Dragons"を製作、アルバニアの映画遺産を守ることの歴史的な重要性について描いている。Cinema Du Reelでは過去のアルバニア産ドキュメンタリーを上映するプログラムを行い、パリのポンピドゥーセンターでも上映が行われた。

それでも2016年、現状は恐ろしいものだ。次の10年間で深刻な進歩が成されず、映画を貪りつくす破壊的な科学の脅威に立ち向かえなければ、6400の最初期のアルバニア映画たちは消え始めることになるだろう。何よりも、この古典ポスターの展覧会"The Art of Albanian Motion Picture Design – Highlights from the Kinostudio Years"はアルバニアと各国の人々に向けて、この国の映画が直面する脅威を伝えるために行われている。

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映画スタジオ時代、アルバニア映画が上映されるにあたって、プロダクション・デザイナーたちは独創的でユニークなポスターを作るよう努め、それらは2016年、この国立芸術ギャラリーで開かれる展覧会でも展示される。Sali AllmuçaArben BashaKsenofon DiloMyrteza FushekatiGrigor IkonomiAzis KaralliuBujar LucaKleo NiniNamik PrizreniAlush ShimaDhimitër TheodhoriAstrit TotaIlia XhokaxhiShyqyri Sako(まだまだいるが)らこそ、才能ある職人たちであった。

彼らそれぞれの貢献は映画デザインという芸術において、想像を絶するほどの達成である。この展覧会は劇映画やアニメーション、ドキュメンタリーといった作品のオリジナルのワンシートやハーフシート・ポスターだけではなく、衣装スケッチや制作スチール、リーフレット、チラシ、オープニング・ナイトの案内なども展示してある。映画スタジオ時代に作られた数百のポスターから、キュレーターたちは特に手書きで書かれた作品を選出した。それらこそ最も芸術的で最もオリジナル、芸術とプロパガンダ、歴史を自由に内包したものであると思われたからである。

ある時代、これらのポスターはイデオロギー的な検閲や望まれないサブリミナル的メッセージの挿入という厳しい過程を経ており、そのコピーはアルバニア各地の数百という映画館に送られた。それらを今見ると、今とは異なる熱狂や刺激が存在した時代が戻ってくるようだ。才能あるアルバニア人の芸術家たちが集まり、クリエイティヴで目を惹くような形で映画を視覚化しようと試みる。しかも求められるイデオロギー的内容も無視しないでである。

彼らクリエイターにとって、構成や視覚的内容は芸術の核である。しかし検閲にとっては社会主義リアリズムの原理に従ったメッセージやポーズが絶対なのである。これらが均衡する場所を見つける必要があったのだ。デザイナーのほとんどは極めて慎重であり、間違った線や色彩、ポージングや人物で大きなトラブルに巻き込まれることを知っていた。それを敢えて越えようとする者はポスターデザインを一種の闘技場のように捉えていた。スタジオでよりも少しだけもっと自由に、自身を表現できる場所である。1960年代から70年代前半、ポスターのデザインや表現方法は、英雄的だとか革命的だとかは少し抑えた上で、さらに印象主義的で主観的なものだった。それは西側諸国の映画に多くを負っていて、例えばイタリアやフランス映画、そしてロシア構成主義が主だった。

いくつかの愛らしいものを除いて、展覧会のポスターは結局似たような主題に取り組んでいた。悪と戦う善の勝利、英雄的な反ファシスト戦線、国の経済的な再建、古い生き方との戦いと軽蔑、社会主義的リアリズムを背景に行われるロマンス、理想と共産党、国のために人生を犠牲にする伝説的な人物……映画スタジオはデザイナーたちが間違いを犯さないよう念を押し、人々の人生は主人公の姿が持つメッセージ性や気構え、苦闘や勝利を反映していると思わせた。ポスターは正しく比喩的で、写実主義的な形で描かれ、ネガティヴと思われる全てに対し、それらを消し去るようなポジティヴさが要求された。映画が上映されることを伝える以上に、ポスターは長年字が読めなかった多くの人々に"1000の言葉"を訴えかけるようなものとして実用的であるべきだったと、それは忘れるべきではないだろう。ポスターは来たる映画に対する視覚的プロローグであったのだ。映画の最初のピークとして、道で、組合で、壁や木に貼られ、工場や学校にも現れ、貼れる場所ならどこにでも現れるものだったのだ。

共産主義の間、これらのユニークなポスターたちは文化イベントを告知するにも重要な役割を果たした。政権下での乾いた、一辺倒な人生からの、しばしの休息を与えてくれた訳である。その時代は自身の願いを声高に主張するのも、自分が孤独であると認めるのすら危うい時代だった。マヤコフスキーが言った通り、ペンは銃剣でもあったのである。アルバニアにおいて、1970年代後半からヨーロッパ全土を覆った共産主義の終りまで専制政治が熟していく過程で、おそらくこれらの映画やポスターはその時代を耐える助けとなっていったのだろう。

アルバニア映画への私の個人的な旅路は2014年に完成した。Iris Eleziとともに、私はアルバニア/イタリア/コソボ共同制作の作品"Bota"の監督・脚本を手がけた。この劇的な(時おりコミカルな)作品はチェコのカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭でプレミア上映された。映画はアルバニア共産主義後を描いた緩やかな比喩として、3人の夢追い人が沼の端に位置する寂れたカフェで時間を過ごす様を描いている。"Bota"主演の俳優として、映画スタジオ時代における2世代に渡る才能が顔を出している。Tinka Kurtiアルバニアの初長編"Tana"(1958)の主演俳優で、Artur Gorishtiハンフリー・ボガートに対するアルバニアからの解答とも言われた人物で、1983年にKujtim Çashku監督作"Dora e ngrohtë"(温かな手)で電撃的なデビューを果たした。

カルロヴィ・ヴァリのステージに立った時、私は頭の中で計算をした。そして、両親がカリフォルニアのモントレーにある軍用映画館に、たった2人残され"Skënderbeu"を観てから約60年が経ったのだと気づいた。

次の60年は簡単ではないだろう。アルバニアにはまたシネマテークがなく、映画館自体がかなり少ない。しかし希望もある。アルバニア国立芸術ギャラリーやアルバニア国立映画アーカイブアルバニア国立映画センター、そして映画を上映するキュレーターたち……アルバニアの豊かな映画史についてのこの魅力的な展覧会は議論や討論を呼ぶだろう。そしてアルバニアの映画にはもっと真剣に勉学や保護、祝福する価値があるとも分かるだろう。

Thomas Logoreci

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