デジリー・アッカヴァン&「ハンパな私じゃダメかしら?」/失恋の傷はどう癒える? - 鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!
Desiree Akhavan監督の経歴と彼女のデビュー作"Appropriate Behavior"についてはこちら参照。
今、日本で上映されている作品の中では「エマ、愛の罠」が割と好きだ。詳しくはキネマ旬報にレビューを書いたのでそれを読んで欲しいが、ちょっと納得が行かない部分もある。それは主人公エマのセクシュアリティに関する描写だ。彼女は男性・女性へともに惹かれるバイセクシャルだが、このバイセクシャアル表象は性的奔放といういわゆるステレオタイプ的陳腐さを単純化しすぎでは?と思えて、微妙な感じがしたのだ。これを過激なまでに自由な魂の表出に重ねるのは安易ではないかと。
では、私の好きなバイセクシャル表象がある作品はというと「BPM ビート・パー・ミニット」で印象的だったナウエル・ペレ・ピスカヤーが主演しているベルギー映画"Je suis à toi"と、イラン系アメリカ人監督Desiree Akhavan デジリー・アッカヴァンのデビュー長編"Appropriate Behavior"(邦題は「ハンパな私じゃダメかしら?」)だ。優れたバイセクシャル表象を持つ作品は、正に多様性の塊として私を魅了する。"Je suis à toi"はアルゼンチン人男性、ベルギー人男性、チュニジア系カナダ人女性のロマコメで、"Appropriate Behavior"は主人公がイラン系アメリカ人(監督が主演を兼任)で、元恋人がトランジションを決意したクローゼットのトランス男性であったりする。更に"Je suis à toi"は主要な登場人物の体型の多様さも印象的で、かつ"Appropriate Behavior"はバイセクシャルの主人公がトランス男性との失恋の傷を癒すため出会う人物らがレズビアン女性、ヘテロ男性、ヘテロカップルととても多様だ。2作の多様な生が、こうして日常に深く根づく感じにはいつも新鮮な感動を抱かされるのだ。
で、ここで何故バイセクシャル表象について話しているかというと、最近観ていたドラマが、"Appropriate Behavior"のDesiree Akhavanが、日本ではDVDスルーになったサンダンス映画祭作品賞獲得作「ミス・エデュケーション」("The Misseducation of Cameron Post")と同年に制作・監督・脚本・主演を果たした英国のChannel 4制作ドラマ、その名も"The Bisexual"という作品を観ているからだった。いやはや、これが全く素晴らしい作品なのである。
舞台はロンドン、イラン系アメリカ人の主人公レイラ(Akhavanが兼任)は、同性の恋人セイディ(「ピータールー マンチェスターの悲劇」マキシン・ピーク)とともに順風満帆な生活を送っている、ように思われた。しかしセイディから突然プロポーズされたレイラはそれを拒絶、これが原因で恋人関係は崩れ去ってしまう。独り身になった彼女はある秘密と対峙せざるを得なくなる。彼女は周囲の人間にレズビアンだと言っていたが、実はクローゼットのバイセクシャルだったのである。
今作はまずレイラの日常を丹念に描きだしていく。友人であるゲイブ(「タイガー・スクワッド」ブライアン・グリーソン)やデニズ(Saskia Chana)らとダラダラ喋りまくったり、欲求不満解消のためにクラブで踊りまくり、そして時にはそこで出会った男性や女性と肌を重ねる。だがそんな中でセイディが新しい恋人ルビー(Naomi Ackie)を連れているのを見ると、怒りとも哀しみともつかぬ複雑な感情に襲われてしまう訳である。
Akhavan監督の持ち味は何とも気まずいユーモアの数々である。登場人物たちは現実味ある軽薄さを持ちあわせ、彼らの軽率な言葉や行動の数々が場を凍らせて、その雰囲気は笑えるほど悲惨なものになる。この軽率さをAkhavan監督は神懸かり的に絶妙な間とともに描きだしていくのだが、これが"The Bisexual"の核となる訳である。
これを体現するのが劇中において頻出するセックス描写である。例えば1話終盤の"手コキしかされたくない男VSフェラの方がしたい女"バトルの何処か居たたまれないセックスシーンなんかは印象深い。前作の"Appropriate Behavior"においても、主人公がヘテロカップルに誘われ3Pを行うも、カップルが盛り上がりすぎて彼女が蚊帳の外に置かれ、ソファーの隅で2Pを淀んだ視線で見つめる場面などは近年で最も記憶に残るセックスの1つだ。
だが同時にAkhavan監督の描くセックスは頗る真摯なものだ。彼女の作品においては、登場人物はセックスする時に喋りまくるのだ。手コキしてほしい、ゴムをつけよう、こうされると気持ちがいい。時にはセックスと関係ない与太話も合わせ、互いの欲望や要望を誠実に語りあう。しかし、それでもそこには拭い難い、生ぬるい相互不理解と気まずさが存在してしまうのである。このセックスへの真摯な眼差しは本当に独特ながら頗る正直で、得難いものに思われるのだ。
そして優れたバイセクシャル表象を持つ映画は多様性の塊と先述したが、今作も正にそうである。まず主人公のレイラがクローゼット・バイセクシャルのイラン系アメリカ人で、元恋人セイディは異人種フェチの白人レズビアン(しかも演じるはあのマキシン・ピーク!)、さらに友人がアルゼンチン人の教え子に手ェ出すヘテロ白人野郎ゲイブと、義理堅く女気に溢れるインド系イギリス人デニズだ。彼らがペラペラ無責任に喋るだけでマジに面白いのである。
"The Bisexual"などの英国ドラマを観ると、米国ドラマとは多様性を描かんとする時の腰の据わり方が違うなと思わされることが多い。米ドラマは"お前らポリコレ言ってる癖に、アジア人や黒人は白人の引き立て役でしかない訳か? ポリコレ時代の新たなsegregationか?"と、鼻白む時が本当によくある。が、逆に英ドラマでは多様性の日常への根づきに驚かされるのだ。例えば、そこには異人種間カップルが多く出る印象があるのだが、その表象が多様性の祝福(例えば最近ではアリアーヌ・ラベド主演、ポリアモリーを描いた"Trigonometry"など。今作も後々紹介したい)に繋がる時があれば、それが今作のマキシン・ピーク演じるセイディのように、中東系の次は黒人と付きあい、最終話では悍ましい秘密すら明らかになる、いわゆる異人種フェチの白人の特権的軽薄さに繋がる時もあり、表象への感じ方が多岐に渡るのだ。そこに何というか、成熟を感じる訳である。
そして本作はバイセクシャルとして生きることの苦悩へと深く潜行していく。例えばレイラはカミングアウトしていない状態で、レズビアンの友人たちとバイセクシャルに関する会話をするのだが、彼女が言うにはバイセクシャルはレズビアンに比べ"無責任"だそうだ。そんな言葉にレイラは複雑な表情を浮かべる。だが特に鮮烈なのはセイディにバイセクシャルとバレた時の反応だ。彼女はレイラを激しい言葉で罵倒尽くした挙句、後日再び会った時にはこんな言葉を投げかける。"アンタとの関係はフェイクでしかなかった!"と。
劇中においてバイセクシャルがゲイブにバレたレイラが"バイセクシャルって言葉は嫌い。何か"性的に奔放すぎ"とか"淫乱"って響きに聞こえる"と発言する場面がある。この発言が象徴するバイセクシャルへの社会の偏見と、バイセクシャルの人物自身が内面化してしまう偏見を、例えば先述の「エマ、愛の罠」などの作品は無批判に利用している印象がある訳だ。そして劇中ではレイラが同じバイセクシャル女性と時間を共に過ごす場面も存在する。彼女との対話は静かながら、その奥には感情の凄まじいうねりが存在し、そこにこそバイセクシャルとして生きることの苦悩、そして孤独が浮かびあがるのである。
"The Bisexual"は神懸かり的に居たたまれないユーモアセンスを以て、バイセクシャルに関する社会の偏見と、自身に内面化された偏見を乗り越えようとする女性の姿を描きだしたドラマ作品だ。そして今作は多様性が作品の面白さに直結するということを居心地悪いほどに証明する1作でもあるのだ。