さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)
この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアやブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。
さて、今回インタビューしたのはハンガリー人の映画研究者Bátori Anna バートリ・アンナである。彼女は東欧映画の専門家であり"Space in Romanian and Hungarian Cinema"という英語本を執筆するなどしている一方、現在はルーマニアのバベシュ=ボーヤイ大学で教鞭を取っている。今回はそんな彼女にハンガリー映画との出会い、Jancsó Miklós ヤンチョー・ミクローシュという偉大な映画作家に対する辛辣な評価、2010年代におけるハンガリー映画の動向、そしてこの時代を代表する天才と彼女に言わしめるReisz Gábor レイス・ガーボルなどなど、様々なことについて聞いてみた。という訳で、ハンガリー映画史の海へ漕ぎ出せ!
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済藤鉄腸(TS):まず映画の研究者になりたいと思ったのは何故でしょう? そしてそれをどのように成し遂げたんでしょう?
バートリ・アンナ(BA):いつも映画に魅了されてきました。子供の頃は、革命後の経済危機で閉まってしまった映画館で遊んだりもしていましたね。それは秘密の世界のようで、古いポスターやチケット、リールなどで溢れており、そこで映画を観ていた思い出があります。この場所は私にとって避難場所であり、ここで映画史について学んだり、時間にゆっくりと消費されていく映画を観ながら、上映室の椅子に独りで座っていたものです。しかし私はこれとは真逆の経験もしてみたいと思っていたんです。つまり映画は決して死んでいないと、皆に伝えたかった訳です。
TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういった映画を観ていましたか? 当時のハンガリーではどういった映画を観ることができましたか?
BA:そうですね、90年代にはケーブルTVやビデオテークのおかげで、観たい映画は何でも観ることができました。最初、私は「ジョーズ」や「イージー・ライダー」「グッドフェローズ」といったアメリカのとても有名な古典映画を観ていましたね。これらはほんの一部です。そして15歳の頃、私の初恋の相手は芸術映画にド嵌りしていました。彼はテレビで放映される名作を何でも録画していたんです。その時はインターネットがなく、ダウンロードなどはできる筈もないので、彼が私にとって唯一のトレントサイトだった訳です!(笑)そうして私はベルイマンやフェリーニ、メンツェル、トリュフォー、ゴダールなど素晴らしい映画作家(主にヨーロッパ人ですが)に出会えました。そしてある日彼はジャームッシュの「ナイト・オン・アース」を見せてくれて、それで人生が一変してしまいました。思い出せるのは今作を観てこう思ったことです。"これについて学びたい"と。
TS:あなたが初めて観たハンガリー映画は何ですか? その感想もぜひ聞きたいです。
BA:90年代のハンガリー映画はかなり酷かったです。大きな危機的状況に直面していて、私が10代の頃に作られた作品の殆どが演出も脚本もお粗末なコメディでした。思うに初めて観たハンガリー映画は1998年の"Zimmer feri"("フェリのギャングども")ですね。今作はバラトン湖で繰り広げられる観光客の金銭的搾取を描いた作品です。とても面白くて、諷刺に満ちたコメディですね。とてもハンガリー的なんです。今でも愛してますよ! これを除くと、子供の頃に観たハンガリー映画で突出した作品を思い出せません。そういう映画は観たくなかった、だって酷い映画でしたから。
TS:あなたにとってハンガリー映画の最も傑出した特色とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛に関する哲学、ルーマニア映画は徹底的なリアリズムと黒いユーモアなどです。では、ハンガリー映画についてはどうでしょう?
BA:難しい質問ですね。敢えて表現するなら、私たちの映画は風景という比喩に満ちた映画ということです。スクリーンで観られる全てがとてもハンガリー的な特色を持っています。ハンガリー大平原の終りなき水平線、ハンガリーの"海"であるバラトン湖、迷宮的なブダペストなどなど。それらの全てがメッセージを含んでいます。閉所恐怖症的な感覚、感情的な親密さなどですね。ハンガリーに逃げ場はありません。歴史と憂鬱に立ち往生し、ハンガリーの無限の光景へ完全に埋没してしまうんです。
TS:ハンガリー映画史において最も重要なハンガリー映画とは一体何でしょう? あなたの意見を聞かせて頂きたいです。
BA:間違いなくTarr Béla タル・ベーラの「サタンタンゴ」("Sátántangó")でしょう。今作はハンガリー史をめぐる完璧な舞踏なんです。今まで観たなかでも最も素晴らしい映画の1つです。そして今作はハンガリーについて知らねばならない全てを伝えてくれます。未だ忘れ去られていないシステムの移り変わり、ハンガリー人の厭世的な精神、そしてパーリンカへの私たちの愛(もしくは依存)についてです(笑)
TS:もし1本だけ好きなハンガリー映画を選ぶとすると、それは何になりますか? その理由もお聞きしたいです。個人的な思い出がありますか?
BA:私の最も好きな作品はKároly Makk カーロイ・マックの"Szerelem"("愛")です、そこに嘘はないです。苦闘と歴史、忍耐、そしてもちろん愛についての美しい、叙情的な映画です。イメージにまつわる本物の傑作ですね。今作は世界に言及することなく愛についての全てを伝えてくれます。撮影だけでなく、演技や編集も素晴らしい。絶対に観るべきです!
TS:ハンガリーの外側において、世界のシネフィルに最も有名なハンガリー人作家はJancsó Miklós ヤンチョー・ミクローシュでしょう。例えば"Oldás és kötés"("緩慢と緊張")や"Csillagosok, katonák"("星たち、兵士たち")などの彼の作品を観る時、それらがいかに優雅で緻密であるかに深く感動させられます。ハンガリーの無限の大地を背景に、彼はハンガリー人の複雑な心理模様を描きだしています。しかし、彼や彼の作品はハンガリー人にどのように受け入れられているでしょう?
BA:そうですね、私は彼の映画が好きではないただ一人の存在かもしれません!(笑)"Oldás és kötés"は唯一好きですが、思うに残りは例え話っぽすぎるんです。Jancsóが自分の映画で何を伝えたかったか分かっていたのかすら定かではありません。しばらくの後、彼は自分自身の映画世界(cinematic universe)に迷ってしまったんです。映画研究者としてとても辛辣な批判だと自覚していますが、彼は世界において過大評価されすぎていますね。彼を愛するのはただ偽善者だけなんです。あら、言ってしまいましたね(笑)
TS:ハンガリー映画を観る時にいつも感動させられるのは、映画作家たちが息を呑む優雅さと綿密な努力によっていかに長回しを駆使しているかです。ハンガリー映画史を通じて、この技術は映画作家たちに受け継がれています。Radványi Géza ラドヴァーニ・ゲーザからJancsó Miklós、 Gaál István ガール・イシュトヴァーンからBódy Gábor ボーディ・ガボール、Tarr BélaからNemes László ネメシュ・ラースロー……しかし私のような外国人にとって謎めいているのは、なぜこの技術が歴史を通じてハンガリーの映画作家の魂に共鳴しているかです。この長回しへの傾倒の源は一体何でしょう、そしてどのようにこの技術は構築されていったんでしょう?
BA:長回しは時間と空間の絶対的拡大として機能しています。この場合、触覚という意味において、長回しは風景を感じるために私たちの知覚を遅々としたものにしていくんです。そうすることで私たちは自分たちの眼前に存在するものを見分け、観察の名の下にメランコリーを感じるようになります。ハンガリー史とは循環についての永遠に終わらない物語なんです。私たちは常に終りからこそ始まり、常に始まりでこそ終るんです。この時間と空間への停滞こそが、思うにハンガリーの映画作家たちが長回しを通じて描きだそうとしているものなんです。もちろんモダニスト的な語りがこの種の映画に大きな影響を与えた訳ですね。
TS:特に私が知りたいのはJancsó Miklósの長回しがどのように構築されたかということです。彼の長回しは頗る慎重に構築されている故に、動き続ける登場人物の姿は軍隊の禁欲的な規律に重なっていきます(例えば"Szerelmem, Elektra"("我が愛、エレクトラ")などです)彼はアントニオーニに多大な影響を受けたと言われていますが、実際彼の演出様式はそのフィルモグラフィを通じてどのように成立していったのでしょう?
BA:彼の長回し――Tarr Bélaにも似ていますが――時間を通じてどんどん長く長くなっていきます。私の意見として、Jancsóはもはや物語を語る気がなかったと思われるんです。もしくは彼は(ある種の慎重さを以て)どう物語を語ればいいのかを忘れてしまったのかもしれません。私たちが観る物は空間における終りなき舞踏です。アントニオーニとは違い、それを越える深さは存在しないと思います。物語の不在、一貫性の不在、そこにはただ純粋な撮影だけがあります。深淵への永遠に動き続ける無限性、それこそがJancsóなんです。
TS:あなたは"Space in Romanian and Hungarian Cinema"という興味深い本を執筆されていますね。ぜひこの本についてお伺いしたいです。この本を執筆した理由は何でしょう? 何故本のなかでハンガリー映画をルーマニア映画に繋げようと試みましたか? そして現代のハンガリー映画はルーマニア映画からどのような影響を受けているでしょう?
BA:そうですね、数百もの東欧映画を観た後、私はそれらが似たようなミザンセーヌ、演出法を持つことに気づきました。そしてこの美学的な近似性を探求し始め、ルーマニア映画とハンガリー映画における語りの空間が共産主義という過去を呼び起こす比喩的なデバイスとして機能しているという結論に達しました。もちろんこれは映像的なコミュニケーションの含蓄的な方法でです。故に私の主な意図としてはこの地域の映画を分析するだろう新たなアプローチ、それを提供する2つの空間的なモデルを通じてスクリーン上の社会主義的な記憶が持つ暗黙の了解について雛形を作ることでした。ある一方で、これらのモデルは――私は垂直と水平の囲い(vertical and horizontal enclosure)と呼んでいますが――映画における身体的で社会主義的な空間と密接に連関しています。他方で、生産物の演出法は、遠近法に関する空間に閉所恐怖症的な雰囲気を与えるパノラマのような技術を中心に機能しています。この方法論においてロケーションとスクリーン上の空間は、社会主義政権の制限的な恐怖を間接的にレファレンスとする、規律上の空間を用意する訳です。しかし数文だけでこの理論を要約するというのはとても難しいです(笑)もしアカデミックでない言語を使わなければならないなら、言えるのはこれらの芸術映画が鬱々としているのは、身体的空間を描き、構成していく方法論によってなんです。これに関してなら数時間喋れますよ(笑)
TS:2010年代が数か月前に幕を閉じました。ここで聞きたいのは、2010年代において最も重要なハンガリー映画とは何だったのかということです。例えばNemes Lászlóの「サウルの息子」("Saul fia")、Mundruczó Kornél ムンドルッツォ・コルネールの「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲」("Fehér isten")やEnyedi Ildikó エニェディ・イルディコーの「心と体と」("Testről és lélekről")などなど。個人的にはTill Attila ティル・アッティラの「ヒットマン・インポッシブル」("Tiszta szívvel")を挙げたいです。今作は2010年代における新鋭の1作として素晴らしく、その障害者に関する描写も目覚ましいものがあります。
BA:2010年代、ハンガリー映画は素晴らしい活況を呈していました。故に1作だけを選ぶのは難しいことです。あなたが挙げた映画は全て好きです、特に「心と体と」と「ヒットマン・インポッシブル」は素晴らしいと思います。見ての通り、身体と身体的知覚は最近の映画界において注目すべきトピックとなっていますね。他にもKocsis Ágnes コチシュ・アーグネスの"Pál Adrienn"("パール・アドリエン")やHajdu Szabolcs ハイドゥ・サボルチの"Bibliothéque Pascal"("パスカルの図書館")、Pálfi György パールフィ・ジェルジの「フリー・フォール」("Szabadesés")もこの傾向にあります。間違いなく新しいトレンドが存在しており、それはスクリーンにおける肉体性や傷ついたり機能不全を起こした身体に注視しているんです。2010年代以降の経済的、政治的、イデオロギー的な危機は私たちの政治としての身体へのアプローチを変えてしまった訳です。驚くことではありませんが。
2010年代の最も重要なハンガリー映画は何か、ですか? 私が挙げたい作品はHajdu Szabolcsの"Ernelláék Farkaséknál"("エルネッラと狼たち")、Reisz Gábor レイス・ガーボルの"VAN valami furcsa és megmagyarázhatatlan"("説明できない奇妙な何か")、Ujj Mészáros Károly ウッイ・メーサーローシュ・カーロイの「リザとキツネと恋する死者たち」("Liza, a rókatündér")とMundruczó Kornélの"Szelíd teremtés: A Frankenstein-terv"("しなやかな創造物:フランケンシュタイン計画")ですね。
TS:とても驚きながら喜ばしいのはあなたがUjj Mészáros Károlyの「リザとキツネと恋する死者たち」の名を挙げたことです。今作は2010年代のハンガリー映画として日本で最も有名で、例えば「不思議惑星キン・ザ・ザ」や「エル・トポ」のようなカルト映画として祀り上げられています。そこで聞きたいのは今作がハンガリーのシネフィルたちにどのように受け入れられているかということです。そしてこれは馬鹿げた質問でしょうが、そのMészárosやKárolyという信じられない名前から、彼はMészáros Márta メーサーロシュ・マルタかMakk Károlyの親類ではないかと思ってしまうのです。これについてはどうでしょう? この名前はハンガリーではポピュラーなものなのでしょうか?
BA:「リザとキツネと恋する死者たち」はハンガリーで大きな成功を収めました。ハンガリー映画の記録を幾つも塗り替えたんです。観客は今作を気に入り、批評家たちも褒めていますね。思うに私たちは、別世界へ連れていってくれる完成度の高いお伽噺に深く深く飢えていたんです。名前に関しては面白いですね、この2つの名前はハンガリーではとても希少なものなんです。それでも彼らに血の繋がりはありません。
TS:ハンガリー映画界の現状はどういったものでしょう? 外側からだとそれは良いように思えます。Nemes László以降も、新しい才能たちが有名な映画祭に現れています。例えばロカルノのKenyeres Bálint ケニェレシュ・バーリント、カンヌのSzilágyi Zsófia シラーディ・ジョーフィア、ヴェネチアのHorvát Lili ホルヴァート・リリらです。しかし内側から見ると、現状はどのように見えますか?
BA:まあ、間違いなく私が10代の頃よりは良いですね!(笑)クオリティの高い映画製作という意味において、注目すべき物語と演出法を持った映画は未だ増えているように思えます。ここには常に新しい才能が存在していますし、デジタル革命によって、素晴らしい物語を語るために完璧なセットや金銭的な後ろ盾が必要ではなくなっているんです。同様に、グローバリズムと国境を越えた映画製作によって、ファイナンス段階において新しい世代がより容易に新たな機会を得られるようにもなりました。私は楽観主義でいますね。この産業にいる多くの素晴らしい人々は、ハンガリー映画がこれからの10年も映画の世界地図に留まっていられると私に信じさせてくれます。
TS:あなたにとってハンガリー映画界で最も注目すべき新たな才能は誰でしょう? 例えば私としてはそのアニメーションの繊細なタッチからSzöllősi Anna シェッローシ・アンナを、ハンガリーのドス黒い現実への鋭い批評からBaranyi Benő バラニ・ベネーを挙げたいです。あなたのご意見はどうでしょう?
BA:Baranyiは間違いなく最も才能あるハンガリーの短編作家の1人ですし、Szöllősiのアニメーションも規格外の素晴らしさです。今、ハンガリーには多くの才能がいる訳です! 長編作家に話題を向けると、Reisz Gáborは疑いようもなくハンガリー映画界の新たな天才と言えます。彼の2本の長編を観てみてください、本当に素晴らしいです! 彼の映画はナショナルでありながら、同時に国境を越えるもので、現在のポスト社会主義、ネオリベラル的な世界における存在論的な危機を描きだしています。肉体性の映画について私が語ったことを覚えていますか? ぜひそのことについて考えながら彼の作品を観てみてください。気に入りますよ。