“何で裸足なの?”と「クワイエット・プレイス 破られた沈黙」を観た人々が言っているのを、驚くほど頻繁にTwitter上で見た。もしこれを監督に実際尋ねたとしたなら、観客が理解できるにしろできないにしろ、彼は即答するだろうという妙な確信がある。そういう個人的な論理でこそ今作はできているのだと思える。個人的というのは得てして無駄であり、今作を無駄ばかりと思う人は多いだろう。だが、だからこそ私には切り捨てられないものがここには余りに多かった。とても豊かな映画だ。
今作を観るというのは、誰かの沈思黙考を90分端から眺めるような経験だった。眺められるその思惟とは、このクソッタレな世界でどうすれば善き人であれるのか、そのために何を切り捨てなくてはならないのかという残酷な妥協への問いなのだ。クラシンスキーのこの思考の流れに、私たちは静寂のなかで触れることになる。すこぶるシビアなものだ。
今作を観ながら浮かんだ言葉が“優等生的”というものだった。少しこれについて説明させてほしい。優等生的という言葉はいつも悪口だ。無駄、切り捨て、妥協。そういうものを胡散臭い欠点と見なし“優等生的”という言葉を使って批判する。しかし私にとって優等生的な映画というのは、善くあろうとする意思の下、そのため何かを切り捨てるシビアな妥協を繰り返す、極個人的な論理に裏打ちされた残酷な映画であり、今作は正にそれだと。私が優等生的と思う作品は、最近のものであると「透明人間」や「プロミシング・ヤング・ウーマン」に、それから今作だ。私が思うに、残酷を積極的に謳う作品よりも、こういった作品にこそ見過ごせない、割りきれない残酷さというを感じ、“いや、それでいいのか?”と観客が思うことが多く、そうしてこの作品群が何かを覆い隠してると見なす、拒否感を抱く場合が多いのではと思える。だがそれこそが優等生的の核で、かけがえがない。
語り手としてのクラシンスキーは観客それぞれに読み取らせるタイプであり、物語自体はシンプルを好みながら、作劇自体は無駄に丁寧であり、それが泥臭いという印象にまで至る。この続編では前作でギミックを全て明かしているゆえ、手数で勝負するという選択をしているので、よりいっそう泥臭さを感じさせるかもしれない。これを洒落臭いと。しかしそこで彼は、泥にまみれた裸足をてらいなく提示することになる。この泥臭さが生への誠実さで、そこから私の言う優等生的に至るのだと。
そしてもう1つ重要な要素がある。今の時代の作品として、マジョリティが自身の無徴性を有徴性に押し上げながら、相対的に自身の存在や特権性について内省するものに、私は心惹かれる。この文脈で、私には今作が白人映画であり、健常者映画であると思え、とても興味深く感じる。今作のノア・ジュープとキリアン・マーフィーは完全足手まといな存在であり、特に前者においてそれが一種の聖書的な受難にすら思える過剰さがある。こういった類いの内容を物語の中核に据えると、得てして自己犠牲やナルシシズムに堕していくが、今作でそれはあくまで並列される要素の1つと控えめに語られる。この要素をナルシシズムの域には行かせない。
さらに興味深いのは、前作においてはミリセント・シモンズのキャラが聴覚障害者なのに意味があり、功罪半ばとしてギミックの一部として機能していた。今作においてもある程度はそう機能しながらも、それ以上にジュープとマーフィーが白人健常者男性であること、少なくともあの位置に配されたことにこそ意味がある。この世界で抑圧者である白人が善き人であるには?という問いが裏にはある。このマジョリティの無徴性の逆転が興味深い。そして先述した控えめさが、アメリカの白人健常者男性というマジョリティのジョン・クラシンスキーが出す、善き人であるために何を成すべきか?への現状での答えだと。
おそらくクラシンスキーは今後一生善き人にはなれないのではないかと思う。だが善き人になろうという努力を今後一生忘れることはないだろうという確信がある。生きるということは結果でなく、過程なのだ。少なくとも今作からはそう感じた。明らかに続編への橋渡しといった切れ味鋭すぎる唐突なラストも、それが問いの終りのなさを示している。こういったクラシンスキーの真摯な加害者意識、そしてこれを生きることに違和なく馴染ませる手捌き、全く見事だ。