アルゼンチンの現代史は激動の歴史以外の何物でもないだろう。特に、俗に言う“汚い戦争”が繰り広げられた、7年にも渡る軍事政権は様々な形で人々を翻弄していった。例えば共産主義者などに対する弾圧は有名であるが、同時に同性愛者に対する弾圧も凄まじいものがあったといい、それは政権崩壊後も消えない傷痕を残していった。そんな過去を生きた1人の男の姿を描いた作品こそ、今回紹介するAgustina Comedi監督によるドキュメンタリー“El silencio es un cuerpo que cae”だ。
監督の父であるハイメはこの世を去る時、家族を撮影した膨大な量のホームビデオを遺していった。家族みんなでディズニーランドへと遊びに行く姿、監督がバイオリンを拙くも一生懸命に演奏する姿。そのビデオの1つ1つからは彼の家族を思う心情が見てとれる。しかし彼には1つ大きな秘密を隠していた。彼は同性愛者であったという秘密を。
監督はその秘密について探るため、父の友人たちに話を聞いていく。青年時代にゲイであると自覚した父は時代を越えて様々な男性たちを愛してきた。しかし突如、彼はモノナという女性(つまりは監督の母)と結婚し、娘を授かることとなった。なぜ彼は同性愛者であることを隠し、結婚して家族を作るに至ったのか?1つの秘密の裏には、更に多くの秘密があるようだった。
そして監督はアルゼンチンにおける同性愛者弾圧の過去を知っていく。同性愛者であることが人々に知られてしまうと刑務所に収監されて拷問を受ける。そして精神病院に入れられた挙げ句にショック療法を施される。そんな時代が確かに存在したのである。であるゆえに、同性愛者たちは影に隠れて愛を育む必要があったのだ。
そんな中で浮かび上がる1人の男性がネストル、ハイメの恋人の1人だった人物だ。フレディ・マーキュリーのような口髭を蓄えた彼とハイメは11年もの長きに渡る間連れ添った仲だという。ハイメが遺した写真やビデオにもその姿が確認できる。それほどの関係だったのだろう。しかしハイメは最後には彼と別れて家族を作ってしまう。ネストルの心中はいかばかりのものであったと察するが、彼の行く末は軍事政権後にも続く同性愛者の苦難を反映することになる。80年代に到来したエイズ禍である。彼はその毒牙にかかって若くして亡くなったのだ。その死は奇しくもマーキュリーの死と重なることとなる。
背後にそうした死の1つ1つを抱えながらも、同性愛者であることは秘密のままにハイメは家族と過ごし続けた。友人は“彼は子供が欲しかったから、女性と結婚した”と証言する。愛を隠し通してまで授かった監督への眼差しは、ホームビデオから伺える通り、観る者の心を満たすような暖かさを宿している。しかしもう1つの証言がある。“あなたを授かった時、彼の一部は死んでしまった……”監督はその言葉の意味を探るため、自分が映し出されたホームビデオを眺め続ける。
しかし今作は意味そのものへの答えとはなってくれない。代わりに今作は答えへと至ろうとする監督のめぐる過程として、観客の心を掴んでいく。終盤において、監督は自身の息子に対してカメラを向けることになる。彼女の眼差しはハイメが彼女に向けていたものと同じく暖かいものだ。この2つの眼差しが重なる瞬間には感動的な愛が存在する。複雑なものを抱える父に対する“それでも……”という複雑で感動的な愛がここには宿っているのだ。