鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

陈冠&“深空”/2021年、ロックダウンを駆ける愛

さて、マカオである。中国の特別行政地区であり、かつてはポルトガルの植民地だったこともあり西洋と東洋の文化が入り交じる場所、もしくは“アジアのラスベガス”との異名でも有名かもしれない。だが映画という面ではかなり影の薄い地域でもあるだろう、私自身もマカオ映画というのを今まで観たことがなかった。というわけで今回はそんなマカオから現れた新鋭作家の作品を紹介していこう。それこそが2021年のヴェネチア国際映画祭でプレミア上映された、陈冠 Chen Guan 監督のデビュー長編“深空”(“Shen Kong” / “Out of This World”)である。

2021年、中国のどこかの都市。コロナの蔓延を防止するためのロックダウン下で、リーヨウ(魏如光 Wei Ruguang)という青年は退屈な引きこもり生活を余儀なくされていた。友人に電話し暇を潰そうとも、鬱屈は晴れそうにない。やっぱ外出なきゃ腐っちまう!とばかり彼は外出制限も無視し、都市へと独り繰りだす。そこでひょんなことからシャオシャオ(邓珂玉 Deng Keyu)という女性だ。彼女は恋人に会いにこの街へ立ち寄ったところ、ロックダウンに巻きこまれ滞在を余儀なくされているのだという。暇を持てあます2人は一緒に街を彷徨いはじめる。

今作はそんなリーヨウとシャオシャオの姿を描きだしていく1作とひとまずは言えるだろう。昼なのに不気味なまでに人影が見えない都市を、まるで世界にたった2人だけという風に彼らは自由に駆け回る。どこまでも空っぽな道路をプラップラ歩いたり、いつもは人でごった返しそうな遊園地も貸し切り状態ではしゃぎまくる。そういった青春めいた風景が浮かんでは消えていく。

撮影監督であるYang Zhengは、そんな2人の彷徨いを手振れを伴ったドキュメンタリー的なリアリズムを以て描きだしていく。この偶然を心の底から楽しんでいる2人の若い生命力、コロナ禍ゆえに息苦しいはずだのにその生命力に触れ徐々に溌剌さを伴う空気感。彼の撮影はそういったものを鮮烈に捉えていき、スクリーンの向こう側にいる私たちの皮膚にまでその明るさを伝えていく。

そしてその生命力に押されてか、撮影様式もリアリズムから逸脱する時がある。例えばドローンによって映しだされる2人が路地を行く姿の俯瞰ショット、例えばバイクに乗る2人の視点そのままPOVショット、例えば違う方向を向く2人の表情を並べるスプリットスクリーン。リアリズムの狭間狭間にそういったテクニカルな画の数々が現れる様の裏には、若さ溢れるリーヨウとシャオシャオに共鳴するような自由な遊び心がある。それがリアリズム一辺倒の域から今作を楽しげに逸脱させていくのだ。

だがそんな自由さだけを2人は享受できるわけではない。今作の節々には2021年当時の中国都市部の難しい状況が見え隠れする。ロックダウンによって人影が一切なくなった街並みは荒涼として侘しく、かつての騒がしさを思い出す縁すらない。唯一人々が犇めくのは病院だけだが、マスクをした医師や看護師たちの表情は沈痛で現状への苛立ちが滲む。そのせいか患者たちに居丈高に対応する様も見られ、口論のような状況が絶えることがない。そして病院の外では密かに供給不足のマスクの密売が行われていたりするのだ。

こういった息苦しさの煽りを喰らうのはやはりリーヨウたちのような若者たちだ。遊び盛りの時期をコロナによって無慈悲に奪われ、その不満をどう処理していいのかすら分からない。部屋に籠ってそれをやり過ごそうとする者がいれば、リーヨウたちのように居てもたってもいられず外へ繰り出す者もいる。鬱憤晴らしのためにバイクで道路を疾走する光景には解放感もありながら、どこか危うさも感じざるを得ない。そして彼らの欲望も炸裂を遂げ、ホテルの一室でセックスへと雪崩込むこととなる。大量の紙を燃やしシーツにまで火が燃え移りながら、それすら気にせず騎乗位に明け暮れるシャオシャオたちの肉体は輝きながらも、どこか脆く見える。

そんな今作を観ながら私は不思議な感触を味わっていた。既視感を抱きながらもその源が杳として知れないとそんな感覚だ。だがある時点に正体に気づくことになる。あのささやかな出会いからの刹那的な高揚感、楽しみ、快楽、しかし何よりあの切なさはいわゆる一夜もののそれに似ているということだ。都市の夜を行く2人の孤独な迷い子たちの物語、そこに現れる情感と同じものを今作は宿していると分かったのだ。

そして違和感の正体にも気づくことになる。今作と一夜ものの最大の違いは、今作に浮かぶ都市はほとんどが昼間の状態であることだ。陽光は雲に遮られて雰囲気自体どんよりとしながらも、都市は昼の白に包まれ、リーヨウとシャオシャオはその巷を行くばかりなのだ。それでも深夜、路地から人が消えるように、ここにも人影がほとんどない。ゆえに奇妙な形で2つが共鳴しあっているのだ。

昼間でありながら都市の中心部にこういった風景が広がっているのは、今作の撮影時期がロックダウン真っ只中だったからだろう。振り返るなら2021年初頭のコロナ禍最初期、世界中が未知のウイルスの脅威に晒され各地で混乱が起きていた。私自身も、近くの店から完全にマスクが消えていたこと、住む町の不気味な静けさ、撮影延期によるテレビ番組の放送休止など日常の混乱をまざまざと思い出せる。そしてその当時、ロックダウン厳守の中国の都市部に広がっていた風景が私たちが“深空”に見るものなのだろう。こういった危機的状況を映画的な快楽へ鮮やかに変貌させてみせる監督の手腕には恐れ入ってしまう。物語は数日に渡りながらも、今作を一夜ものならぬ一“昼”ものとでも名付けくなるほどだ。

しかし今作の核となっている存在は何よりもリーヨウとシャオシャオを演じる主演俳優の魏如光と邓珂玉だろう。コロナ禍という災厄への苛立ち、その間隙を縫い炸裂する刹那的な喜び、来たる別離の予感への悲しみ、そしていつか芽生えだす愛のような何か。そういった輝きを一身に体現する彼らの姿がこの中国におけるロックダウンの記録を、若さに生きた男女の青春の証へと変貌させるのだ。“深空”は2021年だからこそ作ることのできた無二の映画として今後語られ続けることになるだろう。