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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Cyrielle Raingou&“Le spectre de Boko Haram”/カメルーン、学ぶことのままならなさ

日本でも数年前にボコ・ハラムというテロ組織が話題になっていたのを皆さんも覚えているだろう。イスラム法の施行とイスラム教育の実施を教義として、ナイジェリアで過激なテロ行為を繰り返していた彼らだが、その影響はナイジェリアと国境を接するカメルーンにも波及していたことは日本で知られていないかもしれない。今回紹介するのはボコ・ハラムの脅威に晒されるカメルーンの子供たちの姿を描いたドキュメンタリー、Cyrielle Raingou監督の“Le spectre de Boko Haram”だ。

上述の通りボコ・ハラムカメルーンでもテロ行為を行っており、北部では未だに緊張状態が続いていた。舞台となるコロファタという町には常時軍隊が駐留しており、重装備で市民の警護にあたるという状況が広がっている。今作の主人公はそんな場所に住む3人の子供たちだ。まず1人はファルタという少女である。彼女は羊の世話にも勉強にも熱心な少女なのだが、父がテロの犠牲となり傷心の日々を送っている。そしてイブラヒムとモハマドの兄弟もまたある難しい過去と向き合わざるを得ない。数年前、彼らはボコ・ハラムに拉致され彼らのキャンプで生活を送っていたのだ。解放されコロファタに戻ってきたのだが、そこでの生活に馴れ親しむことができないでいる。

今作はまずそんな子供たちの日常の風景を描きだしていく。果てしなく広い野原、ファルタはそこで伸びやかに過ごす羊の世話に精を出す。かと思えば家では母とともに料理をし、その合間には勉強したりとどこまでも勤勉な様子を見せている。イブラヒムたちは泥をいじりながら取り留めのない会話を繰り広げたり、母親に命じられてか水を汲みにいく際、ちょっとした喧嘩のせいで弟のモハマドが泣き始めたりとなかなかの騒ぎぶりを見せる。他の少年たちがロバに乗って野を駆ける姿なども挿入されるなどして、素朴な日常が浮かんでは消えていく。

だが長閑さとは裏腹に、町には異様な光景が広がっている。町内は常に厳戒体制であり、ライフル銃や防弾チョッキで武装した兵士たちがあちらこちらで警備に就いている。ボコ・ハラムの脅威が未だ濃厚なことの証左である一方、町民たちにとってはこれがもはや平常となっているようで、兵士の横を歩いていったり、時には兵士たちと談笑することすらある。この捻れがふとした瞬間、不穏に立ち現れるのだ。

この不穏さに対して気兼ねもなく道を駆け回る子供たちの姿は、ある種希望として映るかもしれない。しかし子供たちが寄り集まって歌うのは“敵を殺したぞ! 爆弾だ、ドカン!”といった紛争の血腥さを感じさせる歌であったり、紙に書かれる絵もまたテロリストを銃殺する兵士のものであったりと、楽天ぶりや無邪気さがむしろ観客に虚無感を抱かせるものとしても映る。これだけでもコロファタの置かれる困難さを、私たちは鮮烈に体感せざるを得なくなる。

こういった描写の合間に描かれるのは、ファルタやイブラヒムたちが通う学校での日々だ。子供たちが席に座り、黒板を見ながらノートを書き記す。時には教師に指されるので、自分なりの答えを発言してみる。フランス語の授業、数学のテスト。これらもまた先の日常風景と同様に、取り留めのない形で淡々と描かれていく。だがここで私が受けた印象というのは、生徒たちが授業や学校をそこまで楽しんでいないかもしれないというものだ。学ぶことの楽しさを彼らは感じることができず、内容をよく理解できないまま“学ばされている”といった風なのだ。

その理由の1つは容易に分かる。あの武装した兵士たちが学校の周囲で警護にあたっているからだ。先述した通り、ボコ・ハラムコーランを主軸としたイスラム教育の実施を教義しており、賛同しない学校は襲撃対象となる。ゆえに学校は特に厳重警備を必要とするのだ。そうした状態で学校にいることや学ぶことを心から楽しむというのは無理な話だろう。

そして勉強についていけるかどうかで子供たちの明暗が別れる様も、残酷なまでに表れることになる。勤勉なファルタは学校での授業や家事の後、夜の微かな灯りのなかで勉強を続けるほどで勉学そのものが大好きだというのがこちらにも自然と伝わってくる。だが勉強についていけない子供もまた多く見受けられる。イブラヒムとモハマドは正にそんな存在であり、勉強すること自体に違和感を抱いているようにすら見える。加えてこういった状況を最も近くで感じているのが教師自身であり、それを是正する道が見えないことに苦悩する姿も映画では映しだされる。

こういった形で今作が力強く描きだすのは、教育がいかに子供の生育に重要か?ということだ。だが同じテーマ性を持つ作品群が教育の美点により焦点を当てることの多い一方で、今作は負の部分にこそ焦点を当てる。ファルタと兄弟それぞれの道行きから浮かびあがるのは、どんな教育制度であろうとも、その制度がどんなに善や包括性を志向していたとしても、知を豊かに育める子と落ちこぼれる子の両方がどうしても生まれてしまうという現実だ。今作の核はそのやるせなさなのである。

“Le spectre de Boko Haram”は教育というものをただ礼賛することはしない。むしろそれが不可避的に宿すままならなさを誠実に見据え、私たちに提示するからこそ忘れがたい余韻を与えるのだ。2023年度のロッテルダム映画祭コンペティション部門で作品賞を獲得したのも、この誠実さを評価されてのことなのだろう。