さて、ケニアである。この国は多言語国家であり、バントゥー語群のスワヒリ語と、植民地支配によってもたらされた英語が共通語として話されている。この2つが国の公用語ともなっているのだ。そして40以上の民族から成り立っている国であり、キクユ語やルオ語などそれぞれの民族語も存在している。今回紹介するAngela Wanjiku Wamaiのデビュー作“Shimoni”は、ケニアにおける多言語性とこれが生み出す余波を描きださんとする1作だ。
今作の主人公はジョフェリー(Justin Mirichii)という青年だ。彼はある罪を犯したことで刑務所に収監され、今とうとう釈放されることとなった。行き場のないジョフェリーは懇意にしていた神父(Sam Psenjen)とともに、シモニという田舎町へと赴く。こここそが彼の故郷でもあったのが、数年ぶりに帰郷した彼に対する町民たちの視線はとても冷ややかなものであった。
まず本作はこのシモニで再出発を試みるジョフェリーの姿を淡々と描きだしていく。元々は英語教師であったが、ここにそのような仕事はない。ゆえに教会の雑用係として下働きをすることになるのだが、肉体労働の経験はあまりなく、慣れない経験に疲弊ばかりが募る。さらにただでさえ町民からの信頼はないなか、ジョフェリーは人付き合いも苦手ゆえ、彼らと新しく関係を築くこともままならない。疲労感の次にやってくるのは、深い孤独感だった。
演出の基調はどこまでも荒涼としたリアリズムである。撮影監督のAndrew Mungaiは余計な虚飾なしにあるがままジョフェリーの姿を見据えるが、その薄暗い映像を延々と目撃するうちに、私たちは彼の鬱屈した生活風景や心理模様を追体験することになるのだ。少しばかり無味乾燥といった印象を受けるかもしれないが、おそらくその砂を噛むような感覚がジョフェリーが抱く感覚でもあるのだろうとすら思えてくる。
そんなある日、事件が起こる。ジョフェリーはミサに参加するため教会へと赴くのだったが、そこで奇妙な男を見つける。頭に白い紋様が描かれた男がおり、彼の方を見据えているのだ。ジョフェリーの脳裏にはある忌まわしい記憶が思い浮かぶ。彼は昔、この町である男から性的虐待を受けていたのだ。そしてあの奇妙な男は……
ここから物語は少しずつリアリズムとは異なる方向へと舵を切ることになる。白の男が現れると同時に、ジョフェリーはこの村に伝わる怪物の伝説を聞くことになる。この怪物は空想の存在であると理解しながら、彼の抱く不安はその怪物とあの白の男を結びつけていく。恐怖に苛まれていき、不安定な状態に陥っていくジョフェリーだったが、怪物の幻影は容赦なく彼を襲っていき、そして彼自身もまた怪物と化していくのである。
こうして本作はリアリズムと幻想の間を行き交いながら物語を紡いでいくのであるが、巧みなのはここにまた別の要素、ケニアという国自体を射程に入れるような批評を絡めていく点だ。その中心となるのが“英語”なのである。村において通常使われる言語はキクユ語とスワヒリ語の2つである。町民たちはこれらで会話を行っているので、町での日常生活は2つの響きで満たされている。
ここにおいて例外的な存在が2人いる。まず主人公のジョフェリーだ。彼も町では基本的にキクユ語とスワヒリ語を話すのであるが、英語教師として生活していた癖なのだろうか、節々で英語が現れたりそれで喋り続けることもある。町民たちは英語を解するようではあるが、自分から積極的に喋ることはあまりない。ゆえにジョフェリーの話し方は奇妙に映るようで、彼に“Englishman 英語男”などという渾名をつける者まで現れるほどだ。この“英語で喋る”こと自体が、彼と町民を隔てる障壁の1つであるような印象すらも受ける。
そしてもう1人、例外的に英語を喋り続ける存在が神父である。もちろん町民には他の言語で話すのだが、ジョフェリーとは常に英語で喋り続け、場面としても彼と会話する場面が最も多いのも相まり、ジョフェリー以外では最も英語を駆使している存在として際立つのだ。彼はジョフェリーにとって唯一の理解者として親身になってくれるのだが、裏では何か不穏な動きを見せてもいる。ある時、ジョフェリーは世話になっている女性から自分の娘に英語を教えてほしいと頼まれる。こうして彼は英語の家庭教師としても働き始めるのだが、この事実を知った神父は女性に詰め寄るのだ。あれほど私が教えると言ったのに!
この奇妙な焦りぶりには、観客も不信感を抱くことになるはずだ。そして物語はケニアにおける英語の不気味な立ち位置をも暴きだしていく。ケニアで使用される英語は、宗主国だったイギリスのものが主となっている。そこに加え、スワヒリ語などから影響を受けたケニア英語が使われることもあるそうだ。植民地化以後より使われてきたこの英語は発展する都市の言語として使われたゆえ、商業、学校教育、政府という領域でより広く話されている。つまりは権力層/インテリ層の言語という側面もあるのだ。
この背景を念頭に“Shimoni”を見ていくのならば、興味深い風景が現れる。町において町民から信頼を獲得し、権力を保持しているのは神父である。つまりカトリック信仰が権威の座についているのだ。彼が英語を話し続けるのは権力の証であるのかもしれない。そして他の者が子供に英語を教えていると知り焦りを見せるのは、英語という権力の象徴が民にも共有され、自身が権力の座から引きずり下ろされることへの懸念ゆえなのかもしれない。英語は権力層に占有されなければならないのだ。
この権力構造の撹乱を、意図してにしろせずにしろ担っているのがジョフェリーということなのだろう。彼は元英語教師、つまり知識層に属する人間である。権力層と知識層は常に重なりあい、相互に影響を与えあいながら特権を享受しているが、今作においてジョフェリーはそれから逸脱し、英語を知として人々に共有しようとしている。彼を御しきれないと判断した神父は、裏での暗躍を始める。こうして現れるのは、ケニアにおいては植民地支配でもたらされた英語がキリスト教のカトリック信仰と結託し、文化的な面から支配を行っていると、そんな不気味な構造なのだ。
“Shiromi”はその物語自体は、刑務所帰りの男が赦しを求めて足掻くという平凡なものかもしれない。だがこの物語に、英語という言語が不可避的に宿す政治性を見据える批評精神が合わさることで、今までの1作とは一線を画するような洞察を持った作品へと昇華されている。ここにおいて、怪物とはあまりにも多様な姿を持ちすぎるがゆえに、底を知ることなど叶わないのである。