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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Brenda Akele Jorde&“The Homes We Carry”/ドイツとモザンビークの狭間で

ドイツとアフリカ大陸の間には負の現代史が横たわっている。欧米列強の1国として領土の拡大を目指し、ドイツは1884年から1915年に南西アフリカを植民地支配していた。ここに住んでいたヘレロ、ナマの両民族が1904年に反乱を起こすが“民族の絶滅”を旨として独軍は徹底的に弾圧した。この虐殺は100年経った現代でも長く懸案となってきたが、2021年にドイツが大量殺戮を認め、とうとう謝罪と賠償が始まった。だが他にもドイツが対峙を拒む負の歴史はいくつも存在する。今回はそれを描きだしたBrenda Akele Jorde監督によるドキュメンタリー“The Homes We Carry”を紹介していこう。

第2次世界大戦終結後、敗戦したドイツは西側と東側に分割されることとなるが、中でも社会主義国家となった東ドイツは同じく社会主義となったアフリカの国々との関係を深めていくことになる。そうして関係性を密とした一国がモザンビークだった。ここから数多くの技能実習生がドイツへと移住し、労働力として活用されていくこととなる。

今作の主要人物であるエウリディオもそんな技能実習生の1人だった。彼は東ドイツへと移住した後に、原発作業員として過酷な作業に従事する。その一方で現地の女性と愛しあう仲となる。だがベルリンの壁崩壊後に状況は一変してしまう。移民労働者は社会不安のなかで悪魔化され、彼らはとうとう故郷へと強制送還されてしまう。エウリディオもまたモザンビークに送還され、その後に娘のサラが生まれるのだが、パスポートの関係で彼はドイツに帰ることができない。家族は離ればなれで生きざるを得なくなる。

父が不在のままサラはベルリンで生まれ育つのだったが、彼女が直面することになるのが人種差別である。エウリディオの黒い肌を受け継いだ彼女は黒人差別の標的となり、周囲の人々とは違う異物扱いを受けて孤独を深めていくことになる。そのなかで父と会えるのは、数年に一度サラがモザンビークへ旅行に行く時くらいのものだ。この国は彼女にとって謂わばルーツであり、ここへの帰還は心安らぐものだった。

長じて彼女は国際援助ボランティアとして再びモザンビークへ渡るのだが、ここでもある障壁が立ちはだかる。ドイツで育った彼女はドイツの価値観を内面化しているゆえ、モザンビークの文化に根底のところで馴染めず、人々から異物扱いされてしまう。サラはどちらの国にも自分の居場所がないことに気づかざるを得なくなる。そんななかで彼女はエドゥアルドという青年と出会い恋に落ちるが、彼女はドイツ帰国後に妊娠を知る。問題はエドゥアルドが書類の関係上ドイツへと渡れないことだった。パートナーとも離ればなれになり、サラは母と身を寄せあいながら娘を育てることを決意する。

今作で描かれるのはMadgermanesという人々をめぐる社会問題である。エウリディオと同様に東ドイツ技能実習生として送られ、現地で家族を作りながらも強制送還によって彼らと離ればなれになってしまったとそんな状況に置かれる人が少なくない。彼らは2国間に広がる構造的な差別の犠牲者であり、この補償を求めてデモ活動を活発に行いながら、両国の政府は訴えを無視し続けている。

この作品においてMadgermanesの苦境を象徴するのがエウリディオなのだ。彼もまたドイツとモザンビークの間で宙吊りになってしまい、簡単には家族に会うことも叶わない。しかも今はモザンビークですら仕事が見つからないゆえに、南アフリカ共和国で出稼ぎ労働者として生活せざるを得ない。そんな状態ではよりいっそうサラに合わせる顔がない。

それでも後半、サラが自身の娘を連れて再びモザンビークへと帰還し、家族との再会を楽しむことになる。その光景の数々は淡々と浮かんでは消えていくが、確かにそこには彼らの喜びが映し出されている。しかし社会の差別的構造はそんなもの一顧だにすることがない。現状に何の改善も見られないまま、別れの時間は刻一刻と近づいていく。そして世界は悲しみに滲んでいく。“The Homes We Carry”はこうして未だ顧みられないドイツの負の現代史とその犠牲者の姿を描いた1作なのである。