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監督の前作についてはこちら参照
私はここ数年、キプロス映画界の動向に注目してきた。2010年代の映画界を席巻した国の1つがギリシャだったことは“ギリシャの奇妙なる波”と、例えばヨルゴス・ランティモスらギリシャ人監督たちへの熱狂を見るのなら疑いは一切ない。だが2020年代に入り、奇妙さが飽和状態になっていくにつれ少し陰りが見えてきたように思う。だが一方で同じくギリシャ文化圏ながら今まで注目されてこなかったキプロスの映画作家たちが着々と力をつけてきているのを、映画批評家として感じてきた。この映画ブログで紹介してきた記事群を読んでいただければ、私が抱くキプロス映画界への期待を感じていただけるんじゃあないかと思う。
そして今回、その期待を上回る、本当に軽々と上回ってくるような作品がキプロス人作家によって作られたのを、私はとうとう目撃することになった。この驚愕は3年前にアゼルバイジャン映画界の鬼才Hilal Baydarov ヒラル・バイダロフによる「死ぬ間際」(紹介記事はこちら)と同等のもので、2020年代における映画体験のハイライトの1つになると私はもう既に、既に確信してしまっている。ということで今回はキプロス映画界から現れた傑作、Kyros Papavassiliou監督の第2長編“Embryo Larva Butterfly”を紹介していこう。
……と書いたのだが、最後にもう1つだけ。ここまで期待を煽っておきながら難だが、この映画は私がそうだったように“キプロス映画”以外の事前情報を一切知らないままで観てもらった方が良いのではないか?という気も正直している。これは公式のあらすじや他のレビュー記事が大事な部分をネタバレしているとかではなく、このあまりに奇妙すぎる映画に対してほぼ完全に無防備な形で飛びこんでもらった方が絶対に良いと思うからだ。なので“Kyros Papavassiliou監督の第2長編“Embryo Larva Butterfly””だけ覚えておいてもらい、観られる機会が来たら絶対にその機会を逃さないでほしい。あらすじすら読まないで、である。
とはいえ誰かがこうして日本語で紹介しなければ、日本の皆さんに知られて上映される機会が生まれるといったことは起こらないので、この後にはいつものような紹介記事をキッチリ書かせていただく。そこでも根幹のネタバレなどはしない。だがこの映画を十全に紹介するためには当然だがあらすじを書かざるを得ず、それでいてその簡易なあらすじですら映画を観て体感してもらう方が絶対にいいと私は思っている。なのでネタバレ厭派の方はタイトルだけ覚えてもらって、ここでブラウザバックしてほしい。別にネタバレは気にならないという方だけに、この紹介記事を読んでほしい。ということでここからやっと、この稀代の映画について紹介していくことにしよう。もうガッツリと紹介させていただきます。
今作の主人公はペネロペとイシドロス(Maria Apostolakea & Hristos Sougaris)という夫婦である。2023年、彼女たちはいつものように一緒のベッドで目覚め、それぞれに日常の些事を始めることになる。ペネロペの方は、今日から家で働き始める介護士であるアナを迎え入れる。ペネロペには障害を持つ弟がおり、自分が居ない時に彼を介護してもらうためアナを雇ったのだ。そしてイシドロスは移民である彼女に英語で挨拶をし、自分の仕事を始めようとする。これが彼らの日常である。だが翌日、世界は2030年になっている。ペネロペとイシドロスの体は7年分老い、白髪なども増えている。それでいて彼らはそれに驚くでもなく、当然のこととして受けとめ、この2030年において日常を生きていく。そして翌日、世界は2037年になっている……
“Embryo Larva Butterfly”という映画に広がる世界は、完全に制御を失っている。時間の進みが直線的ではなくなってしまっているのだ。今日は2023年、明日は2030年、明後日は2003年。こうして時間がランダムに並ぶようになってしまい、過去/現在/未来が完全にシャッフルされてしまっているのである。監督はこの大変貌を遂げた世界で生きる1組の夫婦の生を丹念に追っていくわけだ。
ここまでが冒頭20分ほどのあらすじである。おそらくこれだけでも上で私が色々と書いた理由が分かってくれると思う。前提からしてあまりに奇妙なのだ。“奇妙”と書いたが、今作はこういう意味で“ギリシャの奇妙なる波”の奇妙さを継承しているSF作品としてまた興味深い。しかも同じギリシャ語が公用語で、ギリシャ文化を共有するキプロス出身の映画作家によって作られているゆえ、2020年代においてより正統な形で波が継承されていることを示していると言えるかもしれない。
世界も不条理でありながら、ここに形成された社会構造もまた不条理なものだ。時間を制御するための管理局では唯一人生を直線的に生きることを許されており、その特権を振りかざしてペネロペら市井の人々を抑圧していく。さらに階級に根づいた差別やリプロダクティブ・ヘルスにおける搾取、こういったものが私たちが生きる世界とはまた別の形で表出し、さらなる地獄を観客に見せつける。その状況で何のために生きているのか、何のために一緒に生きているのか。ペネロペとイシドロスはそう思いながらも、別の時間軸にいる翌日においても2人は一緒にいるゆえ、そこにはただ虚しさだけがある。
上述通り、今作はSF的な設定こそが大きな牽引力であることは間違いない。それでいて脚本も自身で執筆した監督はその世界観の説明は最小限に抑えながら2人の心こそを描くことに注力し、SFとしてよりもメロドラマとして作品を構築していく。それをサポートするのがThodoros Mihopoulosによる技巧的な撮影だ。リアリズムよりもむしろ不自然な長回しや絵画的に整った構図など、演出の存在ひいては虚構性を前面に押し出した撮影によって、撮しだされる光景自体は何の変哲もない日常のそれながら、非現実的な質感が確かに宿っているのだ。そして時折2人の顔のクロースアップが印象的に挿入される。そこでは感情は乾き、ひびわれた表情が浮かぶしかない。
今作を観ながら私が想起した言葉がある。それは“人間讃歌”だった。だがこれは例えば「ジョジョの奇妙な冒険」などで提示される、どこまでも人間を肯定する眩い強さというものを意味しない。人間があまりに醜く救い難いのに、それでも己もまた人間であるがゆえにその醜さ、救い難さを見放せないと、むしろそんな弱みとしてのそれだ。過去・現在・未来がごちゃ混ぜになった世界で、誰もが時間や愛という概念にしがみつき、生きることの恥を晒す。それは人間はこういう風にしか生きられないのかと、観る者に深い落胆を与える類いのものだ。
私は現代のキプロス映画に際立っているのは稀なヒューマニズムだ。そしてこれはやはり人間や世界への希望ではなく、むしろ絶望にこそ裏打ちされたヒューマニズムなのである。“Embryo Larva Butterfly”はギリシャの奇想とそんなキプロスのヒューマニズムが溶けあい生まれた、壮絶な“人間讃歌”だ。ここまで読んでもらって、正直かなり奥歯に色々なものが挟まったような書きぶりだと思った人が大半だろうが、筆者としてもそれは承知のうえでこの記事を書かせてもらった。この映画を観る機会がやってきたら、それを是非とも逃さないでほしい。