さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)
この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアやブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。
今回インタビューしたのはクロアチアの映画批評家Marko Njegic マルコ・ニェジチである。彼は相当気合の入ったプロフィールを送ってきてくれたので、全訳しよう。
"Marko Njegicは最も活動的なクロアチアの映画批評家であり、クロアチア映画批評家組合と国際映画批評家連盟(FIPRESCI)のメンバーでもある。1979年生まれ、スプリットでグラマースクールを卒業する。そしてそのまま法を学んだ後、ザグレブではジャーナリズムを学んだ。2005年からはスプリットに住み日刊紙Slobodna Dalmacijaに所属の映画批評家、コラムニスト、ジャーナリストとして活動、ヨーロッパ映画賞や映画祭などのレポートの他、レビューやエッセイ、インタビューを広く刊行している。3つの映画コラム連載を持つが、オンライン雑誌のCineMarkoでの活動が主なものだ。加えてスプリット映画祭やスプリット地中海映画祭(FMFS)にも所属する一方、Odiseja u uteruというラジオ番組にも出演、映画学や映画批評をテーマとする映画誌Hrvastski filmski ljeptopisやWebサイトPopcorn.hrにも参加している。クロアチア最初の映画誌HollywoodやSlobodna Dalmacija内の週刊文化誌Reflektorでも編集として活動している。モトヴン映画祭のFIPRESCI審査員(2010)、ここで映画批評のワークショップを開催する。その後もヴコヴァル映画祭(2012)、FreeNewWorld国際映画祭(2013)、アッヴァントゥラ映画祭(2014)、ドゥブロヴニク映画祭(2014)、ベオグラード映画祭(2016)、ダルマチア映画祭(2016)、リブルニア映画祭(2016)、ベティナ映画祭(2019, 2020)で審査員を務める。Moj-film.hr(2013)やCinestarの'You Can Become a Film Critic As Well'(2014)やスプリット芸術学校の批評家コンテストにも参加している。2014年末、自身の10年間の記事を収録した初めての著書Filmotekaを出版する。2017年と2018年にはクロアチア視聴覚センターでマイノリティ共同制作の芸術アドバイザーとして勤務、ベルリン映画祭に手掛けた3作の作品が選出される。2019年にはマルチメディア展覧会'An Hommage to Alexander F. Stasenko'が開催、この展覧会はウクライナのコサックにルーツを持つスプリットの映画作家の人生と作品に捧げられた"
ということで今回はそんな彼にクロアチア映画史の流れや、この国の偉大なる映画作家たち、そして2010年代最も存在感を発揮したクロアチア人監督Dalibor Matanić ダリボル・マタニチについてなどなど様々な事柄について聞いてみた。それではどうぞ。
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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になりたいと思いましたか? どのようにそれを成し遂げましたか?
マルコ・ニェギチ(MN):それは映画を愛し始めた頃からですね。映画について語るのが好きでした。高校からは何か書くのも好きだったんですが、クロアチア語と英語の宿題があったり、国語の授業で読書感想文なんかも書く必要があったので、自然とそうなりましたね。こうしている時、同じように映画を分析できたらと思ったんですが、選択授業でちょうどそんな授業があったので始めました(例えばジェームズ・キャメロンの「トゥルー・ライズ」などがテーマになりました)この時期からノートに観た映画について書いたり、点数をつけ始めました。9年生頃からですね(言い換えれば高校2年生の頃でしょうか)そこから10年ほどが経ってSlobodna Dalmacijaという日刊紙でフリーランスとして執筆を始め、今でも世話になっています。それからクロアチアで最も歴史のあった映画雑誌Hollywood――今はもうありませんが――では、2003年から2006年まで編集を務めていました。最初は当然ですがより小規模な記事を書いていましたね。興行収入のレポート、今後上映される映画のプレビュー、そこから徐々に俳優や映画作家のプロファイリング記事を書き始めました。こうしてスキルを磨いた後、映画批評に移行した訳です。今でも楽しんでますね。
TS:映画に興味を持ち始めた頃、どんな映画を観ていましたか? 当時のクロアチアではどういった映画を観ることができましたか?
MN:先にも言及しましたが、私の映画への興味は子供時代からで、その源は両親、特に父ですね。彼は頻繁に私を映画館に連れていってくれました。映画には一目惚れしましたね。80年代の重要で際立った映画の殆どを観ていると思います(例えば「E.T.」「ターミネーター」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「トップガン」「レインマン」)それからもっと過小評価されている作品もですね(例えばトミー・リー・ジョーンズとリンダ・ハミルトンが主演している「ブラックライダー」など)更に旧ユーゴスラビアにおいて映画公開は、アメリカから1年や2年遅れるのが普通でした。ですがアメリカ映画は必ず公開するほどこの国では1番の存在感だったんです。そこにフランス、イタリア、香港が続きます。その後が旧ユーゴ映画ですね。
TS:あなたが初めて観たクロアチア映画は何でしょうか? その感想もお聞きしたいです。
MN:観たのを明確に覚えている最初のクロアチア映画はAnton Vrdoljak アントン・ヴロドリャクの"The Glembays"ですが、子供の頃は数えきれないほど旧ユーゴ映画を観ていましたね。例えば「パパは出張中!」や"Žikina Dinastija"というコメディシリーズ、"Tesna koža"や"Hajde da se volimo"などで、まだまだ挙げられます。どの映画もよく覚えています、心のなかにずっと残っているんです。そうしてこういった作品群が"旧ユーゴ映画とは何か? 何がこれを大衆映画以上のものにしているのか?についての考えを、私に齎してくれたんです。
TS:あなたの意見としてクロアチア映画史において最も重要な作品は何だと思いますか? その理由もぜひお聞きしたいです。
MN:"最も重要な"というのは定義するのが難しいですが、個人的なお気に入りはNikola Tanhofer ニコラ・タンホフェルの"H-8..."ですね。今作はドラマ、スリラー、ディザスター映画、ロードムービーの完璧なブレンドなんです。序盤から最後は予想できるんですが、それでも本当に緊迫感ある1作で、同時にそのサブテクストにおいて人道的で映像も美しいんです。舞台となるバスはザグレブからベオグラードへ向かう途中、逆サイドから走ってきたトラックと衝突してしまうのですが、この事件とバスの個性的な乗客たちの姿を通じて、社会そのものが交わる様を描きだしているんです。
TS:もし1本だけ好きなクロアチア映画を選ぶなら、どれになるでしょう? その理由は何でしょうか。個人的な思い出がありますか?
MN:今回はより新しい作品を選びましょう。2003年制作のArsen Antun Ostojić アルセン・アントゥン・オストイチの"Ta divna splitska noć"ですね。今作はとても個人的な理由で私の思い出に残っているんです。今作を観たのはザグレブなんですが、この時私はHollywoodの編集として働くためスプリットから引っ越してきたばかりでした。私の故郷で撮られた本作は見覚えのある場所や、いわゆる"スプリット魂"というものを捉えており、私にとって郷愁のトリガーともなったんです。しかしそれを措いても、素晴らしい演技や美しいモノクロ撮影で巧みに紡がれたこの"Ta divna splitska noć"は間違いなく21世紀において最も優れたクロアチア映画の1本なんです。
TS:クロアチア国外において、最も有名なクロアチア人作家の1人は間違いなくZvonimir Berković ズヴォニミル・ベルコヴィチでしょう。彼のデビュー長編"Rondo"が愛の爽やかな心理と哲学を、軽妙ながら深遠なスタイルで描く一方、例えば"Putovanje na mjesto nesreće"などは愛が生み出す深い傷を解剖するような1作で深く感銘を受けました。しかし現在、彼や彼の作品はクロアチアの人々にどのように評価されていますか? ぜひその作品へのあなたの正直な意見や思い出などもお聞きしたいです。
MN:Zvonimir Berkovićは死後11年が経っても未だに尊敬されている人物です。最近、クロアチア映画のオールタイムベストを決める批評家投票が行われました。彼の"Rondo"は2位であり、脚本を執筆した"H-8..."が1位になりました。トップ20位以内には"Ljubavna pisma s predumišljajem"や"Putovanje na mjesto nesreće"が入ってもおかしくはなかったんですが、今回は入らずでした。彼が亡くなった時、私は"追悼文"を執筆したり、繋がりのあった映画作家たちと連絡を取り思い出を語ってもらいましたね。彼がクロアチア映画やその文化一般に長きに渡る影響を与えたのは皆が賛成するところです。彼が存命の頃にインタビューできなかったのが残念でなりません。間違いないです、きっと素晴らしいものになったでしょうから。彼は間違いなくクロアチア映画において最も重要な映画作家の1人であり、監督としても脚本家としても素晴らしい存在でした。短くも偉大な歴史を作りあげたんです。クロアチアの脚本家(もしくは世界の脚本家)で"作曲の原理、特にモーツァルトの理論"を基に脚本を書きあげた人物を知りません。しかしBerkovićは書きあげてみせた、もしくは作曲してみせたんです。
TS:そして私が好きなクロアチアの作家の1人はAnte Peterlić アンテ・ペテルリチです。彼のデビュー長編"Slucajni zivot"は自由なスタイルと美しい魂によってクロアチア映画史の傑作の1本に数えられていますね。しかし興味深いことに、彼はクロアチアで際立った映画批評家であった一方、監督作はこの1本しか残していませんえ。そこで聞きたいのはクロアチアの映画産業における彼の人生、そして"Slucajni zivot"が今のクロアチアでどのように受容されているかです。そして映画批評家としての彼の仕事はクロアチア、もしくは旧ユーゴ圏でどれほど有名なのでしょうか?
MN:そうですね、彼がもう何度かだけでもカメラの裏側へ行ってくれなかったことは残念でなりません。しかし彼が"Slučajni život"を監督したのは正に偶然のことで、先述したクロアチア映画の批評家投票で今作は19位になりました。Peterlićは映画批評における伝説ですが、それ以上にクロアチアにおける映画学の父であり、著者としても編集者として映画理論や映画史にまつわる多数の本を編纂し、更には大学教授でもあったんです。人々にとっても、私にとっても彼の存在は愛おしい思い出であるんですが、それは彼がTV番組"3,2,1... Go!"の司会者でもあり、世界的に有名な映画作家、例えばオーソン・ウェルズなどがクロアチアに来た際はインタビューを行っていたんです。若い映画批評家として、私の著書がPeterlićの最後の本の1つである"The Early Work"が出版された会社から発刊されたことを誇りに思っていますね。"The Early Work"は彼の人生や仕事を発見したいという映画好きには心からお勧めしたい本です。
TS:そして2010年代においてクロアチア映画界で最も重要な存在はDalibor Matanić ダリボル・マタニチでしょう。2000年代に"Fine mrtve djevojke"や "Kino Lika"といった作品でキャリアを築いた後、2015年にはカンヌでプレミア上映された「灼熱」("Zvizdan")で名声を博し、今作は後に日本を含めた世界各地で配給されることとなりました。Nicola TanhoferやLordan Zafranović ロルダン・ザフラノヴィチをも越えて、彼は日本で最も有名なクロアチア人監督であるでしょう。しかし本当に知りたいのはクロアチアの人々が彼や彼の作品をどう思っているかです? 「灼熱」はクロアチアでも実際に議論を巻き起こしたのでしょうか?
MN:Dado(Matanićのニックネーム)は現代的で今に通じるトピック、挑発性と公共性に通じており、俳優たちを見つけ出す能力も優れています。彼はその作品を観るために人々が映画館に集まるとそんな人物なんです。「灼熱」はシリアスなドラマながら観客からの人気も素晴らしかったです。より議論を呼んだ作品は"Kino Lika"でしたね。Matanićと彼の作品は観客と批評家の間で評価が真っ二つに割れますが、好きか嫌いかに関わらず、2000年以降彼が最も多産で活動的なクロアチアの映画監督であることは認めざるを得ません。彼はある計画から次の計画へ簡単に飛躍してみせ、例えばクロアチア映画には珍しいホラー映画("Ćaća"や "Egzorcizam")なども含めどんなジャンルにも臆さない、驚くほど勤勉な映画作家であるんです。2010年、私は彼を2000年代に最も印象を残したクロアチアの映画監督と評しましたが、2010年代も正にトップで在り続けたんです。Matanićは何度も話題にあげたクロアチア映画ベスト20において既にその作品が挙がる、2000年以降の若い作家の1人です。ちなみに他の2人はTomislav Radić トミスラフ・ラディチ("Što je Iva snimila 21. listopada 2003.")とOgnjen Sviličić オグニェン・スヴィリチチ("Oprosti za kung fu")です。
TS:2010年代も1年前に終りを告げました。そこで聞きたいのは2010年代最も重要なクロアチア映画は何かということです。例えばDalibor Matanićの「灼熱」、Hana Jušić ハナ・ユシチの「私に構わないで」("Ne gledaj mi u pijat")やIgor Bezinović イゴール・ベジノヴィチの"Kratki izlet"などがありますが、あなたのご意見はどういったものでしょう?
MN:"Ne gledaj mi u pijat"も"Kratki izlet"も好きで評価していますが、やはり1作選ぶなら「灼熱」が2010年代で最も重要なクロアチア映画でしょう。今作でMatanićは監督としての手腕を最大限に発揮し、完璧な画角の移り変わりによって映画の思考をローカルに展開しながら、普遍的な感触も宿らせることに成功しています、また逆も然りです。現地の人々にとって際立ったテーマ(90年代にユーゴスラビアが崩壊した後の紛争)と世界の観客にとって際立った美学的選択、そして3つの物語が描かれるという魅力的な語りを今作は持ち合わせています。もし俳優たちがクロアチア語を喋らなければ、カンヌのような規模の大きい映画祭で上映されるヨーロッパ映画の1本と勘違いされたでしょうし、実際今作はカンヌで上映されることになったんです。
TS:現在のクロアチア映画の状況はどういったものでしょう。外側からだと状況は良いものに思えます。多くの新しい才能が世界の有名な映画祭に現れていますからね。例えばロッテルダムのIgor Bezinović、タリンのJure Pavlović ユレ・パヴロヴィチ、ヴェネチアのHana Jušićらです。しかし内側からだとその状況はどう見えてくるでしょう?
MN:最近まで状況は良かったんですが、コロナウイルスのせいで状況は悪くなってしまいました。それでもこれはこの国以外でもそうでしょう、クロアチアより発展した国も例外ではないと思われます。そんな中で「灼熱」の続編である"Zora"がタリン・ブラックナイツ映画祭でプレミア上映されましたが、クロアチアでのプレミアが決まっていないのがこの状況を象徴しているでしょう。シリアスなドラマとしては「灼熱」は40000人を動員する大ヒットを遂げたので、ハリウッドの人々が大作公開を延期してより売れる時期に公開日を移そうとするのと同じようなことを、今作のプロデューサーもしている訳ですね。
TS:あなたにとって、2020年代にビッグになると思われるクロアチア映画界の新しい才能は誰でしょう? 例えば私としては暴力の詩情という意味でTin Žanić ティン・ジャニチを、信じられないほど笑えるほどアニメーションのスタイルという意味でIvana Pipal イヴァナ・ピパルを挙げたいです。
MN:私も彼らには尊敬を抱いています。私が希望を抱いている映画作家はHana Jušić、Sonja Tarokić ソーニャ・タロキチ、Barbara Vekarić バルバラ・ヴェカリチ、Hani Domazet ハニ・ドマゼト、Jure Pavlović、Josip Lukić ヨシップ・ルキチ、Igor Jelinović イゴール・イェリノヴィチ、Mladen Stanić ムラデン・スタニチ、Rino Barbir リノ・バルビル、Andrija Mardešić アンドリヤ・マルデシチ、Marko Jukić マルコ・ユキチといった人物です。彼らが長編デビュー作や次回作を完成させ、2020年代を彩ってくれることを願います。