鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Ayarush Paudel&“Helena”/ネパールより、遠く離れて

アラブ首長国連邦という国は中東に位置する連邦国家であるが、この国の人口比において自国民が占める割合がたった1割ほどなのだそうだ。つまり人口の約9割が移民などの外国籍住民で構成されているのである。驚くべき割合であるが、今回はそんな移民国家の日常を、南アジアの一国ネパールからの出稼ぎ労働者の目を通して描きだす作品を紹介したい。それがネパール人監督Ayarush Paudelによる短編作品“Helena”である。

主人公は題名ともなっている人物ヘレナ(Ayshuma Shrestha)である。彼女は家族を故郷に残し、アラブ首長国連邦のレストランで出稼ぎ労働者として働いている。この日、彼女は貯めたお金で息子のブブにノートパソコンを買おうとしていた。だが店内でその金を一部紛失してしまったことに気づく。これではプレゼントを買うことができない。何とか残りのお金を調達しようとするヘレナだったが……

今作はそんなヘレナの姿を追っていくのだが、基調となるのは撮影監督であるPu Jiaによる手振れを伴ったリアリズム演出である。カメラはヘレナの一挙一動を静かに撮しとっていきながら、その場に満ちる息苦しい空気感をも観客に伝えんとしてくる。傷心のままレストランの勤めに出ながら、ブブからは何度も何度も電話がかかってくる。どの色を買ったの? 友達が来たら絶対自慢するよ! そんな言葉に押し潰されそうになるヘレナの表情を、カメラは静かに見据え続けるのだ。

同時に監督らはアラブ首長国連邦という国の日常をも同時に映しだしていく。中でも印象的なのは言語の混交状況である。この国の公用語アラビア語であり、例えばヘレナが勤めるレストランの看板にもアラビア文字が記されている。だが横には同じ大きさでアルファベットを使った看板もあり、これが示すように英語も日常として完全に根づいているのだ。ヘレナは接客時は基本英語を使用し、他の店でも店員は英語で喋っている。むしろ今作においてアラビア語の会話場面はほぼ出てこないのだ。この背景には先述した外国籍住民の多さが関係しているのだろう。

さらにレストランにはヘレナと同じくネパール出身らしき同僚がいるのだが、彼女とはネパール語で会話をする。さらに同国に住む叔父と話す際に、ヘレナはヒンディー語を使用するのである。これは、彼女の生活はこれら3つの言葉でこそ構成され、アラビア語の影は薄いということを暗に示しているのかもしれない。そしておそらく他の地域からの移民にとっても似た状況が広がっているのではないかと思わせる。

物語の核となっているのは出稼ぎ労働者としての苦悩である。同じ状況にあるネパール人の同僚はヘレナを支えようとしながら、自身も経済状況が芳しくないゆえ金銭的な援助をすることができないでいる。ただ寄り添うだけでは解決できない問題がここには存在しているのだ。以前この国におけるフィリピン人労働者に対する虐待が報道されていたが、今作自体には直接的な暴力は描かれないとしても、これに類するだろう経済的苦境がヘレナたちを苛んでいる。

ここにおいて際立つのが、同じく出稼ぎ労働者である叔父との対話場面である。彼はヘレナに次のようなことを語る。故郷に置いてきた家族はプレゼントを求めてくるが、私たち出稼ぎ労働者にとってそのプレゼントこそが彼らに対する唯一の存在証明なのだ。そして家族がそれを求めてこなくなった時には、全てが手遅れになっている……物理的な距離は精神的な距離を生み、この溝を埋めるためには“プレゼント”というものが必要にならざるを得ない。そして今のヘレナにとって、それがあの“ノートパソコン”なのだ。これを買えなければ……

今作を牽引する最も重要な存在は、ヘレナを演じるAyshuma Shresthaに他ならないだろう。こういった過酷な状況を彼女は言葉少なに堪え忍び、その中で感情が磨耗してしまったかのような無の表情を幾度となく浮かべることになる。だがその表情からは彼女の抱く深い苦悩が、言葉よりも勇弁な形で溢れ出している。こうして彼女はヘレナの苦境に体現しているのだ。そして彼女の存在を以て、“Helena”という作品はアラブ首長国連邦ひいては世界に散らばるネパール人労働者たちの苦境をもスクリーンに暴きだしている。

Kyros Papavassiliou&“Embryo Larva Butterfly”/過去も未来も、今すら虚しく

razzmatazzrazzledazzle.hatenablog.com
監督の前作についてはこちら参照

私はここ数年、キプロス映画界の動向に注目してきた。2010年代の映画界を席巻した国の1つがギリシャだったことは“ギリシャの奇妙なる波”と、例えばヨルゴス・ランティモスギリシャ人監督たちへの熱狂を見るのなら疑いは一切ない。だが2020年代に入り、奇妙さが飽和状態になっていくにつれ少し陰りが見えてきたように思う。だが一方で同じくギリシャ文化圏ながら今まで注目されてこなかったキプロス映画作家たちが着々と力をつけてきているのを、映画批評家として感じてきた。この映画ブログで紹介してきた記事群を読んでいただければ、私が抱くキプロス映画界への期待を感じていただけるんじゃあないかと思う。

そして今回、その期待を上回る、本当に軽々と上回ってくるような作品がキプロス人作家によって作られたのを、私はとうとう目撃することになった。この驚愕は3年前にアゼルバイジャン映画界の鬼才Hilal Baydarov ヒラル・バイダロフによる「死ぬ間際」(紹介記事はこちら)と同等のもので、2020年代における映画体験のハイライトの1つになると私はもう既に、既に確信してしまっている。ということで今回はキプロス映画界から現れた傑作、Kyros Papavassiliou監督の第2長編Embryo Larva Butterfly”を紹介していこう。

……と書いたのだが、最後にもう1つだけ。ここまで期待を煽っておきながら難だが、この映画は私がそうだったように“キプロス映画”以外の事前情報を一切知らないままで観てもらった方が良いのではないか?という気も正直している。これは公式のあらすじや他のレビュー記事が大事な部分をネタバレしているとかではなく、このあまりに奇妙すぎる映画に対してほぼ完全に無防備な形で飛びこんでもらった方が絶対に良いと思うからだ。なので“Kyros Papavassiliou監督の第2長編Embryo Larva Butterfly””だけ覚えておいてもらい、観られる機会が来たら絶対にその機会を逃さないでほしい。あらすじすら読まないで、である。

とはいえ誰かがこうして日本語で紹介しなければ、日本の皆さんに知られて上映される機会が生まれるといったことは起こらないので、この後にはいつものような紹介記事をキッチリ書かせていただく。そこでも根幹のネタバレなどはしない。だがこの映画を十全に紹介するためには当然だがあらすじを書かざるを得ず、それでいてその簡易なあらすじですら映画を観て体感してもらう方が絶対にいいと私は思っている。なのでネタバレ厭派の方はタイトルだけ覚えてもらって、ここでブラウザバックしてほしい。別にネタバレは気にならないという方だけに、この紹介記事を読んでほしい。ということでここからやっと、この稀代の映画について紹介していくことにしよう。もうガッツリと紹介させていただきます。

今作の主人公はペネロペとイシドロス(Maria Apostolakea & Hristos Sougaris)という夫婦である。2023年、彼女たちはいつものように一緒のベッドで目覚め、それぞれに日常の些事を始めることになる。ペネロペの方は、今日から家で働き始める介護士であるアナを迎え入れる。ペネロペには障害を持つ弟がおり、自分が居ない時に彼を介護してもらうためアナを雇ったのだ。そしてイシドロスは移民である彼女に英語で挨拶をし、自分の仕事を始めようとする。これが彼らの日常である。だが翌日、世界は2030年になっている。ペネロペとイシドロスの体は7年分老い、白髪なども増えている。それでいて彼らはそれに驚くでもなく、当然のこととして受けとめ、この2030年において日常を生きていく。そして翌日、世界は2037年になっている……

Embryo Larva Butterfly”という映画に広がる世界は、完全に制御を失っている。時間の進みが直線的ではなくなってしまっているのだ。今日は2023年、明日は2030年、明後日は2003年。こうして時間がランダムに並ぶようになってしまい、過去/現在/未来が完全にシャッフルされてしまっているのである。監督はこの大変貌を遂げた世界で生きる1組の夫婦の生を丹念に追っていくわけだ。

ここまでが冒頭20分ほどのあらすじである。おそらくこれだけでも上で私が色々と書いた理由が分かってくれると思う。前提からしてあまりに奇妙なのだ。“奇妙”と書いたが、今作はこういう意味で“ギリシャの奇妙なる波”の奇妙さを継承しているSF作品としてまた興味深い。しかも同じギリシャ語が公用語で、ギリシャ文化を共有するキプロス出身の映画作家によって作られているゆえ、2020年代においてより正統な形で波が継承されていることを示していると言えるかもしれない。

世界も不条理でありながら、ここに形成された社会構造もまた不条理なものだ。時間を制御するための管理局では唯一人生を直線的に生きることを許されており、その特権を振りかざしてペネロペら市井の人々を抑圧していく。さらに階級に根づいた差別やリプロダクティブ・ヘルスにおける搾取、こういったものが私たちが生きる世界とはまた別の形で表出し、さらなる地獄を観客に見せつける。その状況で何のために生きているのか、何のために一緒に生きているのか。ペネロペとイシドロスはそう思いながらも、別の時間軸にいる翌日においても2人は一緒にいるゆえ、そこにはただ虚しさだけがある。

上述通り、今作はSF的な設定こそが大きな牽引力であることは間違いない。それでいて脚本も自身で執筆した監督はその世界観の説明は最小限に抑えながら2人の心こそを描くことに注力し、SFとしてよりもメロドラマとして作品を構築していく。それをサポートするのがThodoros Mihopoulosによる技巧的な撮影だ。リアリズムよりもむしろ不自然な長回しや絵画的に整った構図など、演出の存在ひいては虚構性を前面に押し出した撮影によって、撮しだされる光景自体は何の変哲もない日常のそれながら、非現実的な質感が確かに宿っているのだ。そして時折2人の顔のクロースアップが印象的に挿入される。そこでは感情は乾き、ひびわれた表情が浮かぶしかない。

今作を観ながら私が想起した言葉がある。それは“人間讃歌”だった。だがこれは例えばジョジョの奇妙な冒険などで提示される、どこまでも人間を肯定する眩い強さというものを意味しない。人間があまりに醜く救い難いのに、それでも己もまた人間であるがゆえにその醜さ、救い難さを見放せないと、むしろそんな弱みとしてのそれだ。過去・現在・未来がごちゃ混ぜになった世界で、誰もが時間や愛という概念にしがみつき、生きることの恥を晒す。それは人間はこういう風にしか生きられないのかと、観る者に深い落胆を与える類いのものだ。

私は現代のキプロス映画に際立っているのは稀なヒューマニズムだ。そしてこれはやはり人間や世界への希望ではなく、むしろ絶望にこそ裏打ちされたヒューマニズムなのである。Embryo Larva Butterfly”ギリシャの奇想とそんなキプロスヒューマニズムが溶けあい生まれた、壮絶な“人間讃歌”だ。ここまで読んでもらって、正直かなり奥歯に色々なものが挟まったような書きぶりだと思った人が大半だろうが、筆者としてもそれは承知のうえでこの記事を書かせてもらった。この映画を観る機会がやってきたら、それを是非とも逃さないでほしい。

Mouloud Aït Liotna&“La maison brûle, autant se réchauffer”/ふるさと、さまよい、カビール人たち

アルジェリアにはカビール人という民族が住んでいる。彼らはアルジェリア北部のカビリアに固有のベルベル人民族であり、 この国においてベルベル語を話す民族でも最大の人口を誇っている。だが経済的・歴史的理由によって、少なくない人々がフランスに移住している。著名なカビール人としてがサッカー選手のカリム・ベンゼマや映画俳優のイザベラ・アジャーニなどの名前が挙げられる。さて今回紹介するアルジェリアの新星Mouloud Aït Liotna監督による短編映画“La maison brûle, autant se réchauffer”は、そんなカビール人の若者たちを描いた作品となっている。

主人公はヤニス(Mehdi Ramdani)という若者であり、彼は故郷であるアルジェリアからフランスへ移住しようとしていた。その前に彼は町の中心部へと足を運ぶのだったが、そこで古い友人が亡くなったのを知る。彼の葬式へと赴きその死を悼むのだったが、そこでもう1人の旧友であるハミッド(Mohamed Lefkir)との再会を果たし、旧交を暖めることになる。

だがここから話は奇妙な方向に転がり始める。彼らは近くのバーに赴いて様々な話を繰り広げるのだったが、そこでヤニスは謎の浮浪者にお金を盗まれてしまう。それはパリ移住のための元手であり、この金がなければパリで生活などできない。彼はハミッドとともに急いで浮浪者を追いかける羽目になる。

こうして今作はヤニスとハミッドの旅路を描いたロードムービーへと変貌することになる。ボロい車を駆ってウダウダぐちぐちと喋り続けながら、彼らは浮浪者を追っかけ回していく。だがなかなか彼が見つからないわ、居場所を知っていそうな人物に話を聞いてもバカげた返事ばかりされ埒が開かないわ、ヤニスたちの旅路は前途多難だ。それでも何とか浮浪者のいるらしいボロ屋に辿りついたのだったが……

この映画には何とも緩やかで、そのおかげで少しばかり現実離れするしたような雰囲気が充満している。撮影監督であるJowan Le Bescoの手で浮かびあがるヤニスの故郷は何というか、まず白い。空だったり建物の壁だったり、どれもペカーっとした白の色彩に包まれている。それゆえか、この地はのどかな楽園然としているように見える。さらに時おり挿入されるロングショットの数々には、広大な自然がブワッと広がっており解放感すら感じられる。そこに主人公たちのちっぽけな姿が見える時、何だか人間って存在は自然や地球に比べればちっさいなとすら思えてしまうのだ。

ここにおいてEsther Freyによる編集の巧みさもまた際立っている。基本的に今作は主人公たちの渋い表情や、寄るべない寂しさに包まれたその姿を近くで見据えるようなショットが多いのだが、そこにフッと先述した息を呑むような美しさの自然を映すロングショットが挿入される時、映画の世界観が一気に拡がっていくような感覚を味わう。この絶妙なリズム感が心地よくクセになる。全体的にとても緩い映画なのだが、その緩さのなかにもまた緩急があるというか、濃淡があるというか、そういうことを教えてくれる。今作に立ち現れる時の流れというものが、本当に豊穣なのだ。

そしてこの時の緩やかさにこそヤニスの故郷への想いが滲んでいるように、観客は感じることになるはずだ。よりよい未来のためにパリへ移住することを決意しながらも、家族の優しさであるとか、気の置けない友人との親密さであるとか、故郷にこそ満ちているホッとするような雰囲気であるとか、旅立ちを直後に控える今だからこそよりいっそう肌身に沁みていくのだ。加えてここにはもしかすると、カビール人の失われゆくアイデンティティや文化、それらに対する郷愁もあるのかもしれないと、今作で話されるカビールベルベル語を聞きながらそう思える人もいるかもしれない。

見てくれや物語自体はとても素朴なものでありながら、この“La maison brûle, autant se réchauffer”という作品は今自分が立っている場所のかけがえのなさ、これを再発見する旅路を描きだした複雑な映画である。そして映画はヤニスの背中を映し出して幕を閉じることになるが、そこには“ある旅路の終り、そしてもう1つの旅路の始まりにおいてヤニスは一体何を選ぶことになるのだろうか?”と、そんな問いが浮かぶ。それは簡単に答えの出せる問いでなんかじゃない。それでも私たちは彼の新たな旅に希望が存在してくれることを願わずにはいられないだろう。

Amjad Al Rasheed&“Inshallah a Boy”/ヨルダン、法が彼女を縛るならば

さて、ヨルダンである。ヨルダン映画と聞いて何か作品が頭に思い浮かぶなら、あなたは相当のシネフィルだろう。ヨルダンの映画産業は未だ発展途上で、年間の長編製作本数も数本ほどらしい。だが今まで後塵を拝してきたヨルダン映画界が近年にわかに発展を遂げ始めている。例えば2014年に製作されたナジ・アブヌワール監督作「ディーブ/ Theeb」ヴェネチア国際映画祭で上映後、初めてのヨルダン代表としてオスカー国際長編映画賞に選出された。日本でもフィルメックスなどで上映されているゆえ、知っている方もいるかもしれない。さらに2022年製作の、ダリン・J・サラム監督作「ファルハ」イスラエル建国によってパレスチナ人が難民と化したナクバの日がテーマゆえ、議論を巻き起こした。そして今年2023年にはヨルダン映画がカンヌ国際映画祭に初めて選出されることになる。今回はそんなカンヌ初選出のヨルダン映画である、この国の未来を担う新人作家Amjad Al Rasheedによる長編デビュー作“Inshallah a Boy”を紹介していこう。

今作の主人公は30代の主婦であるナワル(Mouna Hawa)という女性だ。彼女は娘のノラや夫と一緒に家族で慎ましやかな生活を送っていたが、ある日夫が急死するという事態に見舞われてしまう。悲嘆に暮れるナワルだったが、さらなる災難が彼女を襲う。義理の兄であるラフィク(Haitham Omari)が相続の名の下にナワルの住む部屋、そしてノラの親権を奪い取ろうと画策してきたのだ。

今作はそんな不条理に直面したナワルの孤独な戦いを描きだす作品だ。ヨルダンの法律は明らかに男性側に有利なものであり、そのせいで夫の死によってナワルの人生から全てが奪われてしまう可能性すら出てきてしまう。これに関して監督はインタビューで次のように語っている。

“ほとんどのアラブ諸国に似たような法があり、未だに施行されているんです。もしある女性が夫を失い、彼女に息子がいなかったとしたら、遺産の一部は義理の家族に相続されると。実際、今作は同じ状況に置かれた私の家族の1人が大きな着想源でもあるんです。彼女は家を買ったんですが、夫がその契約書にサインするのは自分だと求めてきました。妻の所有する家に住むのはとてつもない恥だからだそうです。そして彼が亡くなった後、彼女は義理の家族にこう告げられました。「その家に滞在することを許可しましょう」と。もし彼らがこれすら拒否していたら? 一体彼女はどうなっていたんだろう? これが“Inshallah a Boy”の背景というわけです” *1

そしてナワルはこの法の網を掻い潜るための苦闘に打って出なければならなくなる。相続を有利にするための方策として、彼女が取ったのは自分が妊娠しているという嘘をつくことだった。だが咄嗟の嘘ゆえ、これに信憑性を持たせるよう動く必要がある。そんな折り、彼女が家政婦として勤める家庭の一員であるローレン(Yumna Marwan)が妊娠したこと、しかし中絶したがっていることを知る。ここにおいて利害が一致したナワルたちはある計画を進めることになる。

監督がRula NasserDelphine Agutらと共同で執筆した脚本において最も痛烈に描かれるのはヨルダンにおける女性差別の実態である。先述した通り法体制が男性中心的であり、大部分が男性側に有利な体制として構築されているのが描写の数々から明らかになっていく。社会がそういったものなら、個人の日常にも女性差別は根づいており、登場する男性たちは息をするようにナワルを見下し、法を背景とした特権を以て彼女を追い詰めていくのだ。

この一方で、同様の濃密さで描かれるのが女性たちの生き様だ。ナワルが文字通りヨルダンの法に反旗を翻す反逆者ならば、計画のため手を組むローレンもそんな存在だ。ローレンはヨルダンにおける抑圧的な女性観に中指を突き立てるように“自分は愛する人とセックスしたかったから結婚した”と嘯く。そういった奔放な姿勢にナワルは最初嫌悪感を抱きながらも、いつしか自由への思いを共有しながら計画を遂行していくことになる。

こういった流れのなかで、ヨルダン人女性をめぐる性愛が興味深い形で劇中に表れていく。そこにおいて最も際立つのがスカーフの存在だ。女性たちは外出する際には必ずスカーフを着用し、自宅においても男性の来客がいる際はそれを外すことはない。そんななかでナワルは計画のためにマッチングアプリに登録するが、そこでマッチした男性に写真を送ると“スカーフなしの写真送ってよ”と求められ、辟易するという場面がある。ヨルダン(もしくはイスラム圏)において女性のスカーフの有無は、男性にとって性的興奮を左右するものであるのだ。

そしてこれの延長線上において、性愛的なものを含めある女性がある男性に心を開いているか否かをを指し示す象徴としてもスカーフは現れる。ナワルは勤め先の家族の一員であるハサン(Eslam Al-Awadi)という男性と懇意になり、その関係性を深めていくが、逼迫した状況のなかで彼に助力を請うか苦悩することになる。このテンションが最高潮に達する時、スカーフが印象的な役割を果たすのだ。スカーフがいかにムスリム女性に重要なのかがその場面には端的に表れているように私には思えた。加えてその舞台が車の座席というのも、女性による車の運転がよく思われていない国がイスラーム圏では少なくない意味でも重要なのかもしれない。

彼女は抑圧への抵抗として妊娠したという嘘をつかざるを得なくなり、これによって孤立無援の状況へと追い詰められていく。それでも彼女は諦めることなく闘い続けるのだ。こういった形でナワルの苦闘を描きだされていくわけだが、その姿にはこの男性優位社会において同じく闘い続けるヨルダンの女性の苦難が託されているのだ。そしてその力強いまでのメッセージ性の核となるのが、ナワルを演じるMouna Hawaの表情の数々だ。事態が進展するにつれて、疲弊が濃厚な陰影としてその顔に浮かび、そこには悲壮感すら感じられる。だが悲しみに打ちひしがれることなく、彼女は自由のために突き進み続ける。その姿からは陰影を塗り潰すほどに逞しく輝く希望が宿っている。

“Inshallah a Boy”はヨルダンの社会機構を背景とした女性映画として興味深い1作だ。闘いの果てにナワルが辿りつく場所を、皆さんにもぜひ目撃してほしい。

Pascale Appora-Gnekindy&“Eat Bitter”/中央アフリカ共和国に生きるということ

さて中央アフリカ共和国である。文字通りアフリカ大陸の中央付近に位置しているこの国については、長きにわたり各地で激しい武力紛争が繰り返されているというニュースが頻繁に報道されている。その情勢によって世界最貧国の1つと呼ばれているほどだ。だがそんな国で実際にどんな人々が、どんな風に生きているのかを知る機会はとても少ない。今回紹介する映画はそんな中央アフリカ共和国の今を知る窓となってくれるだろう、Pascale Appora-GnekindyNingyi Sun監督作のドキュメンタリー“Eat Bitter 吃苦”だ。

今作には2人の主人公がいる。まずはトーマスという男性だ。彼の仕事は砂の採集である。首都であるバンギに流れるウバンギ川、彼はこの川の底から砂を集めていき建築材として売っているのである。今は建設ラッシュゆえにその需要は多いのだが、もらえる金は驚くほど少ない。彼は家族を養うために日夜ウバンギ川へ赴くのだが、生活が改善されるには程遠い。

もう1人の主人公はルアンという中国人男性である。彼は故郷に家族を置いて、今はこの中央アフリカで建設業者として働いている。彼はトーマスのような労働者から砂を買い取っている人物というわけだ。とはいえ彼の暮らしぶりも豊かなものではなく、故郷の妻とのビデオ通話を心待ちにしながら生活費を稼ぐ日々を過ごしている。

“Eat Bitter”はそんな労働者たちの姿を通じて、中央アフリカ共和国における現状を見据える作品というわけだ。砂集めはとても過酷な作業で、怪我人や死者が出ることも少なくない。さらには国に認められていない違法な仕事ゆえ、弾圧されることもままある。だがそれ以外に仕事がないゆえ、トーマスたちは砂集めに従事せざるを得ないという状況が存在している。

そしてこの背景には経済援助を通じて中国がアフリカ大陸への進出を図っているという情勢がある。日本もこの動向を注視しているが、そんな計画に参加してアフリカ大陸に移住した出稼ぎ労働者の1人がルアンなのだ。彼がインタビューで答えるに、故郷では運転手くらいしか仕事がないが、この国では建設業界でマネージャーという役職にすら就ける、ここでの方がずっと稼げるのだそうだ。作中にはルアンと同じ境遇らしき中国人労働者も多く登場し、その現状が伺える。これに関しては今作の監督であるNingyi Sunがこういった言葉を残している。

“100万を越える中国人たちが仕事のためアフリカへやってきていますが、彼らの物語は全くバラバラなものです。私が作っている映画は、ある1人の中国人男性が生計を立てるために何故わざわざ世界の裏側へやってきたのか、そして何を犠牲にしているのかを描きだすものです。そして首都バンギへとやってくる中国からの高スキル労働者たちの影響は、数十年も続く内戦や長きに渡る貧困から脱そうとしているアフリカの1国において顕著なものでもあったんです”*1

だが冒頭でも紹介した通り、中央アフリカ共和国の情勢はあまり良くない。今でも武力衝突やクーデターが頻発し、日常的に戒厳令が出されるほどだ。撮影中も選挙戦の真っ只中で戒厳令が出るほどに情勢は不安定なものとなっている。そんな中でもトーマスは生計を立てるためにウバンギ川へと赴き、危険な作業を行わざるを得ない。カメラはそんな光景をも見据えている。

そうして浮かびあがるのは、中央アフリカにおいて資本主義が不穏な広がりを見せていく様だ。トーマスは元彼女が妊娠したことを知り、この責任を取ることを余儀なくされる。そのためにはより稼ぐ必要がある。どうすればいいか、一介の労働者からルアンのようなマネージャーに出世する必要があると。その努力のなかで彼やルアンが建設に携わるのは首都銀行であるのだ。ここにおいて私たちはこの国においてはいまだ未熟な資本主義が、唸りをあげて発展していく様を目撃することになる。

だが今作には別の側面も見えてくる。作品後半において電話越しにだけ現れていたルアンの妻が、中央アフリカへ引っ越してくるのだ。ルアンは最初心配や不安を隠さないのだが、それらはどこ吹く風とばかり彼女は持ち前の明るさで現地の人々の信頼を勝ち取り、その日常に馴染んでいく。ビデオ通話に現れる母を人々に見せつけ「これ私のママよ、ママ!」と紹介する様には、思わず笑みが浮かぶほどだ。

責任を取るという覚悟を決めたトーマスもまた生き方が前のめりなものとなっていく。仕事の合間には教会へと集まり、他の信徒たちとともに大声量で祈りを神へと捧げていく。そして仕事中でも、ゴンドラを漕ぎながら朗々と歌を響かせていくのだ。ここに過酷な状況への嘆きや鬱憤など微塵も感じられない。人々はこの地で前向きに生きていっているのである。

中央アフリカ共和国は世界最貧国の1つ”などと聞くと、どんな悲惨な状況が広がっているのか?と思ってしまうかもしれない。もちろんそんなイメージと重なるような光景もあるだろうが、だが同時にそこにあるのは悲劇だけでもない。どんな場所でもそこに確固として根を張り、生き抜いている人々がいる。そんな強かなる生命力を感じさせてくれる映画こそが“Eat Bitter”なのだ。

Brenda Akele Jorde&“The Homes We Carry”/ドイツとモザンビークの狭間で

ドイツとアフリカ大陸の間には負の現代史が横たわっている。欧米列強の1国として領土の拡大を目指し、ドイツは1884年から1915年に南西アフリカを植民地支配していた。ここに住んでいたヘレロ、ナマの両民族が1904年に反乱を起こすが“民族の絶滅”を旨として独軍は徹底的に弾圧した。この虐殺は100年経った現代でも長く懸案となってきたが、2021年にドイツが大量殺戮を認め、とうとう謝罪と賠償が始まった。だが他にもドイツが対峙を拒む負の歴史はいくつも存在する。今回はそれを描きだしたBrenda Akele Jorde監督によるドキュメンタリー“The Homes We Carry”を紹介していこう。

第2次世界大戦終結後、敗戦したドイツは西側と東側に分割されることとなるが、中でも社会主義国家となった東ドイツは同じく社会主義となったアフリカの国々との関係を深めていくことになる。そうして関係性を密とした一国がモザンビークだった。ここから数多くの技能実習生がドイツへと移住し、労働力として活用されていくこととなる。

今作の主要人物であるエウリディオもそんな技能実習生の1人だった。彼は東ドイツへと移住した後に、原発作業員として過酷な作業に従事する。その一方で現地の女性と愛しあう仲となる。だがベルリンの壁崩壊後に状況は一変してしまう。移民労働者は社会不安のなかで悪魔化され、彼らはとうとう故郷へと強制送還されてしまう。エウリディオもまたモザンビークに送還され、その後に娘のサラが生まれるのだが、パスポートの関係で彼はドイツに帰ることができない。家族は離ればなれで生きざるを得なくなる。

父が不在のままサラはベルリンで生まれ育つのだったが、彼女が直面することになるのが人種差別である。エウリディオの黒い肌を受け継いだ彼女は黒人差別の標的となり、周囲の人々とは違う異物扱いを受けて孤独を深めていくことになる。そのなかで父と会えるのは、数年に一度サラがモザンビークへ旅行に行く時くらいのものだ。この国は彼女にとって謂わばルーツであり、ここへの帰還は心安らぐものだった。

長じて彼女は国際援助ボランティアとして再びモザンビークへ渡るのだが、ここでもある障壁が立ちはだかる。ドイツで育った彼女はドイツの価値観を内面化しているゆえ、モザンビークの文化に根底のところで馴染めず、人々から異物扱いされてしまう。サラはどちらの国にも自分の居場所がないことに気づかざるを得なくなる。そんななかで彼女はエドゥアルドという青年と出会い恋に落ちるが、彼女はドイツ帰国後に妊娠を知る。問題はエドゥアルドが書類の関係上ドイツへと渡れないことだった。パートナーとも離ればなれになり、サラは母と身を寄せあいながら娘を育てることを決意する。

今作で描かれるのはMadgermanesという人々をめぐる社会問題である。エウリディオと同様に東ドイツ技能実習生として送られ、現地で家族を作りながらも強制送還によって彼らと離ればなれになってしまったとそんな状況に置かれる人が少なくない。彼らは2国間に広がる構造的な差別の犠牲者であり、この補償を求めてデモ活動を活発に行いながら、両国の政府は訴えを無視し続けている。

この作品においてMadgermanesの苦境を象徴するのがエウリディオなのだ。彼もまたドイツとモザンビークの間で宙吊りになってしまい、簡単には家族に会うことも叶わない。しかも今はモザンビークですら仕事が見つからないゆえに、南アフリカ共和国で出稼ぎ労働者として生活せざるを得ない。そんな状態ではよりいっそうサラに合わせる顔がない。

それでも後半、サラが自身の娘を連れて再びモザンビークへと帰還し、家族との再会を楽しむことになる。その光景の数々は淡々と浮かんでは消えていくが、確かにそこには彼らの喜びが映し出されている。しかし社会の差別的構造はそんなもの一顧だにすることがない。現状に何の改善も見られないまま、別れの時間は刻一刻と近づいていく。そして世界は悲しみに滲んでいく。“The Homes We Carry”はこうして未だ顧みられないドイツの負の現代史とその犠牲者の姿を描いた1作なのである。

陈冠&“深空”/2021年、ロックダウンを駆ける愛

さて、マカオである。中国の特別行政地区であり、かつてはポルトガルの植民地だったこともあり西洋と東洋の文化が入り交じる場所、もしくは“アジアのラスベガス”との異名でも有名かもしれない。だが映画という面ではかなり影の薄い地域でもあるだろう、私自身もマカオ映画というのを今まで観たことがなかった。というわけで今回はそんなマカオから現れた新鋭作家の作品を紹介していこう。それこそが2021年のヴェネチア国際映画祭でプレミア上映された、陈冠 Chen Guan 監督のデビュー長編“深空”(“Shen Kong” / “Out of This World”)である。

2021年、中国のどこかの都市。コロナの蔓延を防止するためのロックダウン下で、リーヨウ(魏如光 Wei Ruguang)という青年は退屈な引きこもり生活を余儀なくされていた。友人に電話し暇を潰そうとも、鬱屈は晴れそうにない。やっぱ外出なきゃ腐っちまう!とばかり彼は外出制限も無視し、都市へと独り繰りだす。そこでひょんなことからシャオシャオ(邓珂玉 Deng Keyu)という女性だ。彼女は恋人に会いにこの街へ立ち寄ったところ、ロックダウンに巻きこまれ滞在を余儀なくされているのだという。暇を持てあます2人は一緒に街を彷徨いはじめる。

今作はそんなリーヨウとシャオシャオの姿を描きだしていく1作とひとまずは言えるだろう。昼なのに不気味なまでに人影が見えない都市を、まるで世界にたった2人だけという風に彼らは自由に駆け回る。どこまでも空っぽな道路をプラップラ歩いたり、いつもは人でごった返しそうな遊園地も貸し切り状態ではしゃぎまくる。そういった青春めいた風景が浮かんでは消えていく。

撮影監督であるYang Zhengは、そんな2人の彷徨いを手振れを伴ったドキュメンタリー的なリアリズムを以て描きだしていく。この偶然を心の底から楽しんでいる2人の若い生命力、コロナ禍ゆえに息苦しいはずだのにその生命力に触れ徐々に溌剌さを伴う空気感。彼の撮影はそういったものを鮮烈に捉えていき、スクリーンの向こう側にいる私たちの皮膚にまでその明るさを伝えていく。

そしてその生命力に押されてか、撮影様式もリアリズムから逸脱する時がある。例えばドローンによって映しだされる2人が路地を行く姿の俯瞰ショット、例えばバイクに乗る2人の視点そのままPOVショット、例えば違う方向を向く2人の表情を並べるスプリットスクリーン。リアリズムの狭間狭間にそういったテクニカルな画の数々が現れる様の裏には、若さ溢れるリーヨウとシャオシャオに共鳴するような自由な遊び心がある。それがリアリズム一辺倒の域から今作を楽しげに逸脱させていくのだ。

だがそんな自由さだけを2人は享受できるわけではない。今作の節々には2021年当時の中国都市部の難しい状況が見え隠れする。ロックダウンによって人影が一切なくなった街並みは荒涼として侘しく、かつての騒がしさを思い出す縁すらない。唯一人々が犇めくのは病院だけだが、マスクをした医師や看護師たちの表情は沈痛で現状への苛立ちが滲む。そのせいか患者たちに居丈高に対応する様も見られ、口論のような状況が絶えることがない。そして病院の外では密かに供給不足のマスクの密売が行われていたりするのだ。

こういった息苦しさの煽りを喰らうのはやはりリーヨウたちのような若者たちだ。遊び盛りの時期をコロナによって無慈悲に奪われ、その不満をどう処理していいのかすら分からない。部屋に籠ってそれをやり過ごそうとする者がいれば、リーヨウたちのように居てもたってもいられず外へ繰り出す者もいる。鬱憤晴らしのためにバイクで道路を疾走する光景には解放感もありながら、どこか危うさも感じざるを得ない。そして彼らの欲望も炸裂を遂げ、ホテルの一室でセックスへと雪崩込むこととなる。大量の紙を燃やしシーツにまで火が燃え移りながら、それすら気にせず騎乗位に明け暮れるシャオシャオたちの肉体は輝きながらも、どこか脆く見える。

そんな今作を観ながら私は不思議な感触を味わっていた。既視感を抱きながらもその源が杳として知れないとそんな感覚だ。だがある時点に正体に気づくことになる。あのささやかな出会いからの刹那的な高揚感、楽しみ、快楽、しかし何よりあの切なさはいわゆる一夜もののそれに似ているということだ。都市の夜を行く2人の孤独な迷い子たちの物語、そこに現れる情感と同じものを今作は宿していると分かったのだ。

そして違和感の正体にも気づくことになる。今作と一夜ものの最大の違いは、今作に浮かぶ都市はほとんどが昼間の状態であることだ。陽光は雲に遮られて雰囲気自体どんよりとしながらも、都市は昼の白に包まれ、リーヨウとシャオシャオはその巷を行くばかりなのだ。それでも深夜、路地から人が消えるように、ここにも人影がほとんどない。ゆえに奇妙な形で2つが共鳴しあっているのだ。

昼間でありながら都市の中心部にこういった風景が広がっているのは、今作の撮影時期がロックダウン真っ只中だったからだろう。振り返るなら2021年初頭のコロナ禍最初期、世界中が未知のウイルスの脅威に晒され各地で混乱が起きていた。私自身も、近くの店から完全にマスクが消えていたこと、住む町の不気味な静けさ、撮影延期によるテレビ番組の放送休止など日常の混乱をまざまざと思い出せる。そしてその当時、ロックダウン厳守の中国の都市部に広がっていた風景が私たちが“深空”に見るものなのだろう。こういった危機的状況を映画的な快楽へ鮮やかに変貌させてみせる監督の手腕には恐れ入ってしまう。物語は数日に渡りながらも、今作を一夜ものならぬ一“昼”ものとでも名付けくなるほどだ。

しかし今作の核となっている存在は何よりもリーヨウとシャオシャオを演じる主演俳優の魏如光と邓珂玉だろう。コロナ禍という災厄への苛立ち、その間隙を縫い炸裂する刹那的な喜び、来たる別離の予感への悲しみ、そしていつか芽生えだす愛のような何か。そういった輝きを一身に体現する彼らの姿がこの中国におけるロックダウンの記録を、若さに生きた男女の青春の証へと変貌させるのだ。“深空”は2021年だからこそ作ることのできた無二の映画として今後語られ続けることになるだろう。