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ネットにおいて常に議論されているものの1つと言えばセックスだろう。中でもセックスにおける“合意”についての議論は激しいもので、その複雑な議論に疲れ果てたのか“じゃあ全部レイプじゃないか!”と思考停止に陥っている人々も少なくない。だが今回紹介するケニア系スイス人監督であるDamien Hauserによる第2長編“Theo: Eine Konversation mit der Ehrlichkeit”はこの議論に一石を投じながら、さらにその先へと進んでいく力強い1作となっている。
今作の主人公はジミー(Jakob Fessler)という18歳の青年だ。彼はなるべく早くセックスをして童貞を卒業したいと熱望していたのだが、とうとうその時がやってくる。友人たちと赴いたクラブで彼はタマラ(Julia Tremp)という少女と仲良くなり、自宅でセックスをすることになる。だがそのセックスはジミーは初めての経験に有頂天になりながら、タマラは拒否の言葉はなくとも無言で視線を逸らし、早く終わってほしいという雰囲気でやり過ごすとそんなスレ違うものとなってしまう。こうして童貞を卒業したジミーははしゃいでこの経験を言いふらしていたのだが、タマラはセックスなんかしたくなかったと発言、これが原因でジミーは“レイプ魔”として学校中から非難されることになる。
こうして本作は長く険しいセックスへの思考を始めることになる。このレイプ事件に対して周囲の人物はやれジミーは最低の人間だ、やれタマラは無実の青年を陥れているなど身勝手な憶測を重ね、事態は悪化の一途を辿っていく。その渦中で当事者であるタマラはあれはレイプだったと結論づけながら、ジミーはレイプしていないと否定の一点張りだ。しかし裁判の場でタマラはセックスの拒否を言葉で示さなかったと正直に証言、これが決め手となってジミーは一応罪を逃れるのだったが、収まらぬ大衆の暴走によって精神的に追い詰められ、友人たちや家族と絶縁することにもなってしまう。
だがここから物語は思わぬ方向へと進んでいく。ジミーが自暴自棄のままに大麻を吸っていると、部屋にテオという瓜二つの男が現れる。彼はジミーの本心を司る存在らしく、レイプ事件は勿論、世の事象全てに対して歯に衣着せぬ発言を彼に対してとにかくブチ撒け、2人は自然と口論を繰り広げることになる。一方で彼はレオナ(Fayrouz Gabriel)という女性とも出会う。彼女はジミーが居候する部屋、その持ち主の娘であり、実は昔デートしたこともあった。大麻を通じて仲を深めるなかで、フェミニストであるレオナの言葉からフェミニズムについて学んでいき、凝り固まった自分の考えを解きほぐしていくことになる。
序盤は主にレイプ事件をめぐる大衆の煽動や社会の動静を大局的に描きだすものだったが、この2つの出会いをめぐる中盤はジミーという1人の青年の心を追う、より個人的な物語になっている。レオナという他者、そしてテオという自己との会話を重ねていき、彼は少しずつ誠実で正直な対話とは何かを学んでいく。こうしてジミーは自分に問わざるを得なくなるのだ。あれはレイプだったのか? もしレイプだったとするなら、だが何故タマラは何も言わなかったのか?
ここにおいて監督が見据えるものの1つが挿入主義の問題である。社会においては“セックスは性器を使う行為であり、特に異性愛者のセックスではペニスにヴァギナを挿入することが普通”とされている。日本語においては挿入行為が“本番”と呼ばれている部分に、その価値観が現れているかもしれない。こういった挿入の特権化/神格化は様々な形で人々を傷つけている。例えばジミーは“挿入=セックス”という思いからタマラに迫り、結果としてこういった事件が起こってしまう。そして事件後のジミーがそうなるように、ペニスを勃起させなければという思いに晒され精神的に追い詰められるという男性も少なくないだろう。勃起不全を興醒めと揶揄する女性も劇中には現れる。こうして性的不満が高まりレイプなどの事件が引き起こされるのではないか? 監督はこのように挿入主義を鋭く批判するのだ。
ここからは今作の演出についても見ていこう。こうも重苦しい、繊細に扱うべきテーマの数々を今作は持ち合わせているのだが、その演出は驚くほどに軽快で、娯楽的なロマンティック・コメディの様相すらも呈している。そしてその雰囲気も現実的には程遠く、むしろ現実離れした描写は数多い。例えばジミーの引き起こした事件がレオナにバレるという場面、シリアスなものになるとの予想は容易い。だが実際は一緒に大麻をスパスパ吸ったら、何故かレオナにテオが見えるようになってしまい、その勢いでテオが彼女に事件をバラすというシリアスもクソもない展開となっている。というか重要人物であるテオの存在自体がかなり大麻の妖精然とした妙なものであるわけで。
実は彼の前作“Blind Love”は鉄腸ブログで既に紹介済みである。Hauserのルーツであるケニアを舞台にした、目の見えない少年と耳の聞こえない少女の恋愛を描くロマコメ作品なのだが、これがなかなかブッ飛んだ映画だった。こっちも途中からかなりシリアスな展開になりながら、演出自体は驚きの軽快さが一貫しており、今作ではそれがさらに激化している。私はこの軽快さを観て、フランスのディアゴナル一派の1人ポール・ヴェキアリPaul Vecchialiを想起した。彼は殺人衝動や児童性愛など、人間心理のドス暗い部分を主な作品のテーマにしながら、その倫理劇をビビるくらい軽快な演出で描きだしていた。この作風を“Theo”を観ながら想起したわけだ。
しかし世代が大きく違えば、その内実も大きく違ってくる。ヴェッキアリは根底において人間を信じていないような虚無的な態度が濃厚で、愛といった概念への皮肉もなかなか辛辣なものがある。全てをどこかで小馬鹿にしている印象すらある。一方でHauserは演出自体はヴェッキアリさながら遊び心マシマシだが、人間、そして特に愛に対する誠実さは果てしない。その途方もない複雑さをあるがままに抱こうとする姿勢に感動すらも覚えてしまうほどだ。
このような驚くほど軽快な演出を後ろ盾として、序盤においては社会への洞察、そして中盤においては個の心への洞察が綴られるが、本作の終盤ではこれらが常に入り乱れ、衝突を繰り広げることになる。今まで描き出されてきた全ての要素がここに集結し、ジミーという1人の青年を突き動かし、そして私たち観客は予期せぬ場所へと導かれることとなる。今作の題名は“正直さを伴った対話”と、そして“正直さとの対話”を意味している。この両方を同時に突きつけてくる終盤は正に圧巻の一言だ。“Theo”はセックスを中心として、社会を取り巻く無数の問題を描きださんとする野心に満ちた作品だ。あまりにも繊細で、あまりにも軽快、そしてあまりにも誠実だ。
最後に監督について少し書いていこう。Hauser、実は2001年生であり現在でも弱冠23歳、しかも今作の制作時には21歳だったそう。いやさすがにその若さにはさすがに眩さを覚えたし、Z世代はこういう映画を作るのか!という興奮もあった。さらに彼は多作な監督であり、今のところ毎年一本は長編を制作している。今作は2022年にプレミア上映が成されており、2023年には次回作“Baada ya masika”が既に完成&プレミア済みで、今年のロッテルダム国際映画祭でも上映されている。今作はヨーロッパで俳優になる夢を持つアイシャの物語を描いており、デビュー作“Blind Love”に続くケニア舞台の作品となっている。
こういうことを調べている中でビビってしまったが、実はその新作、監督制作脚本撮影編集音響キャスティングの全てをHauserが担当しているようだ。“Theo”も脚本と編集を兼任してはいたが、新作はそれどころの話ではない。全くとんでもねえ才能が突如爆誕してしまって、映画紹介者の私も嬉しい悲鳴だ。ということでHauserの今後に期待!