鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

青き海は、動かぬ大地の夢を見るか?「ザ・マスター」(ネタバレ!)

 海面に映る、青き色彩のうねり、何と美しいのだろう!
 寄せては返す清漣に、真白い泡沫が飲まれては消えて、しかしまた何処からか生まれては浮かび上がる。たわいもない自然の遊戯がリフレインされる。
 海面を眺めているとその内に、真ん中に青味がかった乳白色の道筋が浮かんでくるのが分かる。それは何かが海を通って生じた前進の軌跡なのだろう。
 その“何か”とは? おそらく大きな船だろうか。
 だがそれなら船の上から、その乳白色の痕跡、今にも流れては消えていく痕跡を見つめる瞳は一体誰のものだと言うのだろう?

 切り取られたとある海面の青さ、劇中において何度か挿入されるイメージだ。
 そのイメージは大いなる海より来る男フレディ・クワイ(ホアキン・フェニックス)を象徴するに相応しい物と言えるだろう。一瞬として留まる事を赦されず、流れ行くことを宿命づけられた『海の人間』それが彼なのだから。
「ザ・マスター」劇中において“水”ひいては“液体”が、時には実体を以て時には言葉として、随所に現れる。“水”は酩酊を伴い“酒”として、“郷愁”を伴い夜尿として、“抗いきれぬ性欲”を伴い精液として、何より“別離の悲しみ”を伴い一滴の涙として。
 中でも「海の人間」であるフレディは、それら“水”という桎梏から逃れ得ぬままに生き続けている。
 WWⅡ時代、船員として船の上で過ごしたフレディ。彼は人体に危険性のある工業用アルコールさえ気にせず、体内に取り込み続ける。それはまるで飲酒を目的として日々を生きるどころか、酒を呑まねば生きてはいけない、酒こそがフレディの生ジョン手段だと言わんばかりだ。
 それは復員してから各地を転々とする時代にも同じだ。どんな手段を使おうとも酒を呑まんとするその執念。それは些か滑稽に見えようとも、彼にとって生きるに必要不可欠なるファクターとして提示される。
 そんな絶望的な状況下において、フレディが出逢う男こそ、ランカスター・ドッド(フィリップ・シーモア・ホフマン)だ。海の上、陶酔と自壊の酒を介して二人は出逢うのだ。

 フレディを「海の人間」と形容するならば、ランカスターは「陸の人間」だ。
 新興宗教コーズの教祖“ザ・マスター”である彼は、世界の心理を無知蒙昧の人々に伝えることを至上命題として行動する。そして彼を崇拝する多くの信者たちにとって、ランカスターはその“生”を受け止める大地として存在することとなる。ランカスターはフレディとは逆に、ある一点に留まる事を宿命づけられた「陸の人間」という訳だ。
 だがランカスターは「陸の人間」でありながらも、海に憧憬を抱く人間として描かれる。外界において彼は数々の人間から容赦ない弾圧を受ける。彼が心安らげる場所は海の上だけだ。そこで彼は信者との交流、そして啓蒙書の執筆を十全に果たすことが出来るのだ。だが彼がそこに留まることは叶わない。真に啓蒙を果たすためには、“ザ・マスター”ランカスター・ドッドとして再び戻らねばならない。そんな海への不毛な憧憬を抱く彼の前に現れたのが、「海の人間」であるフレディだったのだ。

 ランカスターはフレディという存在を縁として「地の人間」である自分を拒み、フレディを自分に投影しようとする。それが端的に顕れていたのが飲酒行為だろう。ランカスターはフレディに酒を造る事を頼み、フレディと共にその酒を貪り酩酊へと至る。それはロジェ・カイヨワの『遊び』の原理における、眩暈“イリンクス”という遊戯としての忘我を指向した行為と言えるだろう。
 だがその目論みは失敗に終わる。幾ら酒を体内に入れて酩酊状態になろうとも、ランカスターの均衡を蝕むばかりで、それらは排泄物として体外に排出されていく。ただそれで終わりだ。それはともすれば酷く滑稽な二つのシーンに象徴されているのだろう。
 だがフレディもまた、「地の人間」であるランカスターに感化されていくことは承知の通りだ。
 二つの視線の対峙、あの途方もない対話“プロセシング”
 己と言う存在に自覚的でなかったフレディは、自分が流れる事を宿命づけられた「海の人間」であることを、そしてそれ故に取りこぼした愛を自覚する。残酷な場面だ、ホアキン・フェニックスの皮膚が激情の波紋にうねりを上げるあの痛烈さ!


 
 そしてその後より、フレディはランカスターに心酔することで、流れることなく不動たりえる「地の人間」への憧憬を抱く事と相成る。紆余曲折がありながらも、フレディはコーズの真の一員となるために、ランカスターの指導を受けて踏もうとしか思えない訓練を続ける。傍から見れば、フレディは明らかに精神の均衡を失い、強いられることによって壊されていく、そのようにしか見えないかもしれない。
 だがその訓練の最中で、フレディは絶叫する――「これは俺の意志なんだ!」と。
 彼は受動的に破壊されようとしているのではなく、能動的に自壊を遂げようとしているのだ。完全に自己を破壊し否定できなければ、変わることなど出来はしないのだから。
 そう、二人は自分を完全に否定し尽くすために、互いを無条件に肯定し続ける共依存的関係を結んでいるのだ。誰も介入し得ない二人だけの絶対的な世界を形成しようとする。

 だがその先に待ち受けていたのは、致命的な挫折だった。
 自分を否定し尽くすことなど叶わない、フレディは「海の人間」であり続けなければならないし、そしてランカスターも「地の人間」でしか有りえない。その二つの存在は決定的に分たれていて、その存在の領域から逃げる術はないのだと。

 上記のようにランカスターの目論みは失敗し、フレディは訓練を放棄するどころかランカスターの許からも姿を消す。流れを滞らせることが出来たのはつかの間でしかなかった。フレディは故郷の街に還り、取りこぼした愛の行方を探す。その行方は自業自得と言えどももの哀しいものがあった。そしてその末に、フレディはランカスターの許に戻ることとなる。
 そこで彼らの最後の会話、痛切なる愛の語らいが粛々と綴られる。
 共依存という歪な関係性は、別離を以てしてでしか成就することはないのだと彼らは語り合う。
 そしてランカスターは「海の人間」に成れなかった自分を弔うために、そして「地の人間」に成り得なかった「海の人間」のため鎮魂の歌を嘯く。


君を私のものにしたい

中国へと至るスロウボートで

君の全てをただ私のものに

君を私のものとして この二つの腕でずっと、ずっと

いつか愛されていた君の恋人たちよ

遠く涙を流していて、そのまま

海の上 光輝く大いなる月の力は

君の石の心を溶かしてくれる

愛しい君 君を私のものにしたい

ただ私だけの力で 君を……

 フレディはたった、たった一粒だけ涙を流す。ただそれが別離だった。

 自己の否定と、そして待ち受ける哀しき必然的な挫折と別離と。
 彼らは何度生まれ変わろうともおそらく、変われることはないのだろう。
 だからこそ彼らは何度生まれ変わろうとおそらく、出逢い続けるのだろう。
 海と大地。決定的に分たれた存在。
 一つになれないことを知りながら。



人の夫婦生活を邪魔するアル中は許さねぇぞ