さて、ルクセンブルク映画界である。この小国で作られた映画を観ることはとても難しく、ゆえに映画史を探ることも難しい。そんな逆境のなかで、私はルクセンブルク映画史をルクセンブルク人批評家を探してネットの海を彷徨っていた。そんななかで、私はある記事を見つけた。それはルクセンブルク映画界を代表する1人Andy Bausch アンディ・バウシュが制作したコメディ映画"Le club des chômeurs"の、何とルクセンブルク人批評家による英語記事である。そして驚いたのは、この記事が1作の映画を通じたルクセンブルク論にもなっていたことだ。執筆されたのは2002年ごろだがその批評性や珍しさは全く色褪せていない。ということで私は著者であるGérard Kraus ジェラール・クラウス氏に連絡を取り、翻訳の許可を取りつけた。ということで今回は1万字にも渡るルクセンブルク映画論を読んでいただこう。更に現在、Kraus氏にルクセンブルク映画史をめぐるインタビューを実施中であり、それとともに読めばルクセンブルクという未知の国の映画を広く知ることができるだろう。ということでまずはこのレビュー記事をどうぞ。
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今のところルクセンブルク映画の制作数がとても少ないことを考えると、Andy Bauschの"Le club des chômeurs"(2002, "失業者クラブ")はルクセンブルクの文化的アイデンティティを体現していると解釈されてもおかしくはないし、ありえなくもない。この国の工業地帯で撮影を行い、銀行の国という固定概念を巧妙に避けることで、今作はルクセンブルクで大きくヒットすることとなった。
しかし明確にフィクション化されていたり、郷愁を抱きがちな負け犬やチンケな泥棒たちの描写が軽蔑的であったり、脚本が熟していないという点で、"Le club des chômeurs"はルクセンブルクの国家的アイデンティティを文化的に、現実的に体現していると言うのはミスリードであるという側面もある(この国の小さな批評家グループはこの点に関して厳しい目を向けている)では、どうすればこのルクセンブルクの文化を描いた映画への、表面上矛盾した2つの立ち位置をどう仲直りさせられるのだろうか、そして何故今作はそんなにも人気を博したのだろうか?
怠け者たちと泥棒たち
"Le club des chômeurs"は5人の無職男性たちがこの苦難を乗り越えるため、相互的なサポートを通じ、ある"クラブ"を作るという物語だ。メンバーは全員2つのルールに従わなくてはならない。
1. 誰も働いていないこと
2. 生活資金のフラン*1は詐欺や不法就労、失業手当から賄うこと
"Le club des chômeurs"はジェロニモという人物(実際の名前はジェロームだが、ネイティブ・アメリカンの文化が好きな故にこんなニックネームがついている)を中心にして語られる。他のメンバーは過去に生き続け、働いていた工場での事故について語るのが好きなセオドア、仕事に就くには病気が重すぎると思われたいアッベ、借金で大わらわのフルンヌ、そして最も若いメンバーであり、密かに仕事へ行ってルールを破っているソニーボーイだ。
物語のなかで、ジェロニモの耳が聞こえない幼馴染ペッツが上映技師としての仕事を失い、クラブに入ることになる。その間、ジェロニモは職業紹介所で彼を担当するアンジーという女性に恋に落ち、クラブが溜めこんで売り払おうとしていた携帯電話やコンピューターをフランス人の犯罪者集団に奪われたりする。そしてフルンヌが借金を少なくするために、銀行強盗に走ってしまう。さらにソニーボーイはクラブで孤立していき、最後には仕事しているのを見つかって除名されてしまう。そしてジェロニモとアッベ、セオドアは家宅侵入で刑務所に収監され、ジェロニモはアンジーと結婚する。
プロットを詳細に見ていく前に、Bauschの作品が持つ意味をより理解するため、ルクセンブルクとその文化、その映画史を見ていこう。
狭間にある国家
今作の物語はルクセンブルク、ドイツとフランス、ベルギーを隣人とする、ヨーロッパの心臓部にある1000平方マイルの国で繰り広げられる。人口は約44万人(40%近くは外国人である)で、彼らはヨーロッパ1のタックス・ヘイヴンで暮らしている。3つの大きな国に囲まれているという状況ゆえ、ルクセンブルクは文化的好奇心のような存在であり、ドイツ語とフランス語、ルクセンブルク語という3つの公用語は文化の多様性に寄与している。ルクセンブルクの子供たちは5歳からはドイツ語を、6歳からはフランス語を、ルクセンブルク語を通じて学ぶことになる。
2001年10月において、TV局であるRTL Tele Letzebuergは1日に1時間のみ、日曜日には2時間のみルクセンブルク語で放送する。そしてRTLは3時間の放送*2、他にTango TV*3やChamber TVの放送が続く。Chamber TVではルクセンブルクの議会が生放送されている。この未だ初期のメディア状況で、ルクセンブルクはフランスやドイツ、ベルギーのテレビ番組の爆撃を喰っているかのようだ。この外部からの影響は社会の様々な場所に見られるが、最も顕著なのは芸術界においてだ。
その"狭間性"と文化的製品のほとんどは周囲の国々から作られているという事実によって、ルクセンブルクの芸術シーンは好ましいという域を出ないことを運命づけられていた。そして1980年代中盤まで、この国は国産映画というコンセプトをただいじくるに留まっていた。歴史において生きのびた2つの存在のうちまず1人がRené Leclère ルネ・ルクレールであり、彼は1937年から1953年まで9つの映画を製作した。そしてもう1人はPhilippe Schneider フィリップ・シュナイダーであり、1945年から1970年代後半まで30作の映画を製作した。それでもこうした作品は旅行映像か工場映画以上のものではあまりなかた。しかしこの後、2つの発展の極点が現れたことで、ルクセンブルクのアマチュア映画界の評判が培われ、国産アマチュア映画の祭典で上映されるようなホリデー映画という方向性が変わることになる。
まず1つ目がAFO(Atlantic Film Organisation)である。これはエヒテルナハを拠点として、60年代終りから16mm映画を作り続け、成功を収めた中学校の教師のグループである。このグループは例えば"Cong fiir en Mord"(1981)や"Mumm Sweet Mumm"(1989)、"Dammentour"(1992)を製作した。
2つ目がNasty Artsというグループでデュドランジュを拠点としている。メンバーにはAndy Bausch, Jani Thiltges ジャニ・シルツェスとJean Thiltges ジャン・シルツェス、Christian Kmiotek クリスティアン・クミオテクなど、こんにちのルクセンブルクのメディア界で重要な立ち位置を占める人物が揃っている。彼らの初期短編には"Rubbish"(1978)、"Vicious Circle"(1979)、"Vu Kanner fiir Kanner"(1979)、"Abgrenzungen"(1980)や"Hoffnung"(1980)などがある。これらはAFOの作品群と合わせて、ルクセンブルク映画の揺りかごと見做されている。
Paul Lesch ポール・レッシュによると、ルクセンブルク映画が生まれたのは1981年、AFOとNasty Artsがルクセンブルク語で長編映画作った年だという。それがAFOの"Waat huet en gesoot"とNasty Artsの"When the Music is Over"である。予算的制約と国のファンドの欠如によって、ルクセンブルクの映画製作は、後で示唆するように未だに問題含みであるが、とにかく1982年からはルクセンブルク映画が毎年上映されるようになったのである。
1988年にAndy Bauschの第2長編"Troublemaker"が公開された。その制作は1度ストップしながらも、サールランド放送制作がファンドと共同制作を買って出たことで再開された。映画評論家のViviane Thill ヴィヴィアーヌ・シルはこう記す。
"映画は特に若者たちの間で成功を収めた。そしてこの現象はThierry Van Werveke ティアリー・ヴァン・ヴェルヴェケ(Bauschは彼を短編製作時に見つけていた)を国民的スターの座に押しあげ、15000人もの人々が商業映画に押しかけた。そしてAndy Bauschのドイツの評判も不動のものにした。"
"Troublemaker"
1989年、この地域での活動を中央に集合させるため文化庁の延長としてNational Centre of the Audiovisualが作られ、そして1990年にはFond National de Soutien à la Production Audiovisuelleが設立された。ファンドの助けにより、ルクセンブルクは世界中からプロデューサーを集められるようになり、1899年から1990年の間に作られた映画が110なのに対して、1990年から1999年のたった9年で120もの映画が作られるようになった。この機会はルクセンブルク映画が海外の会社とともに制作できるようになり、この地のクルーたちが経験を得て(それにお金も稼げる)、ルクセンブルクの俳優たちが共同制作作品においてジョン・マルコヴィッチやマシュー・リラード、ウィレム・デフォーといった国際的スターと共演できるようになったことから生まれた訳である。
この見返りは明確なものだ。経済的な利益だけでなく映画に関する芸術的価値も高くなった。難点はルクセンブルク語で作られる映画がとても少なくなったことだ。
国際的な共同制作における少数派の製品というルクセンブルグ映画の状況が作られたことで、私たちはAndy BauschやGeneviève Mersch ジュヌヴィエーヴ・ミエシュ、Pol Cruchten ポール・クルーテン(彼は2001年に"Boys on the Run"という作品をアメリカ資本で撮影した初めてのルクセンブルク人作家もである)といった作家の重要性に気づく。彼らはルクセンブルク映画への興味を失うことはなかった。
証明される興味
"Le club des chômeurs"はミネットと呼ばれるルクセンブルク南部で撮影されている。ここは19世紀後半から20世紀中盤まで国の鉄鋼特別保留地として搾取されている場所だった。撮影は2001年の3月20日から4月14日までの22日間で撮影されたが、カメラはDigiBetaだった。
Andy Bauschはこの方法論や限られた予算で撮影をするための時間制限について、これは自分の意志でやったと説明している。実際、Bauschは今作をデンマークの映画製作ルールであるドグマ95を駆使して撮影するため、ラース・フォン・トリアーに接触したという。しかしこの考えは抑制が過ぎると放棄してしまった。映画はIris Productions(ルクセンブルク)とFama Film(スイス)の共同制作として、トータル959000ユーロで作られた。そのうち732000ユーロ(予算の76%)は海外のファンドから賄われた。
今作は2002年の1月に上映され、配給会社は40000人が映画館で今作を観たと主張している(実際には35000から37000人というのが無難なところだ)一方で、フランスのヒット作「アメリ」(2001)は43週間で34000人を動員し、2001年にはトータルで1414000人が来場したという。配給であるPaul Thitges ポール・シルツェスはベスト5とは行かずとも、2002年で最も人気だった映画のベスト10に入ると計算している。さらに10月、今作がDVDとVHSでリリースされたが、2002年の11月までに4900枚のDVDと2000個のVHSを売りあげた。これが証明するのはルクセンブルク映画のマーケットは現に存在しており、人々はルクセンブルク映画を観たがっているということであった。
アイデンティティの問題
映画の評価は分かれた。ほとんどの批評家はBauschの新作をポジティブな批評と記事で迎えた。しかしViviane Thillを含めた小さな批評家グループはその言語感覚やミネットの描写、脚本や登場人物の未熟さ、他にも多くの点を論いながら、今作への反対意見を明確にした。Viviane Thillは特にBauschの監督としてのスタイルが以前に監督した、同じくミネットが舞台の"A Wopbopaloobop A Lopbamboom"(1989)から進歩していないと指摘した。
今作をめぐっては小さな論争が巻きおこったのだが、それは監督とその取り巻きが映画への批評をよく受け入れなかったからだ。しかしこれは国産映画は活動的な才能からだけでなく、批評家たちからも生まれるということを示していた。この場合、批評家たちはより良い作品を生み出したいと思っている監督が作る、何か新しいものを観たがっていた訳である。
では"Le club des chômeurs"はどのようにルクセンブルクの文化的アイデンティティの表象として見られるのだろうか。
重要なのは、ここにおいてルクセンブルクの文化的アイデンティティという概念がそのドイツやフランス、ベルギーからの影響、つまり狭間性によって複雑になっているだけではなく、ミネットをBauschは異なるアイデンティティを持つと描きだしていることで更に分裂しているという事実によっても複雑になっているということである。この地域は鉄が生命における血のようであった時、ルクセンブルクの心臓であったのである。
この時期、ARBEDという鉄鋼採掘組織はこの地域の住人を多く雇っており、人々も多く集まっていたが、映画内でジェロニモがアンジーに説明するように、彼らはこれが生涯の仕事だと思っていた。こんにち、鉄鋼採掘はとても少ない人数で運営されており、鉄鋼炉は閉鎖され、残っているのは"南の大聖堂"、つまりは鉄鋼業から生まれた廃墟、もしくはセオドアが言うような"写真家のための被写体"だけなのである。
"Le club des chômeurs"はこの問題に触れており、映画を通じてシュメルツェン(ルクセンブルク語で工場はこう呼ばれる)が背景にある。冒頭と終盤における最も際立ったクレーンショットは、ジェロニモが性的なパワーを回復するため(まるでARBEDの"去勢"がジェロニモのベッドでの問題の原因となっているかのようだ)ペッツとともに行うネイティヴ・アメリカンの儀式を描いている。アンジーがバルコニーで独り座りながらジェロニモからの連絡を待つ時、ゆっくりとしたトラッキング・ショットが"de stoolenen A"、ARBEDの象徴、かつてはルクセンブルクの鉄鋼業の力と同義であったものが捉えられる。そしてアンジーがそれを見ながら溜め息をつくのだ。彼女の反応はジェロニモが連絡しないのを苦に思っていることを意味するとともに、ARBEDが彼や他の人々にした仕打ちを思い返すという意味がある。そして象徴が今何を意味するか、つまり鉄鋼業の零落と消失を指し示している。
"Le club des chômeurs"におけるThierry Van Wervekeのジェロニモという役は、Bauschの以前の作品と同じく好ましくも頭は良くない負け犬である。Bauschは彼の"心は小さな人間にこそ寄り添う"と言い、それは労働者階級と同義だが、その理由として銀行員という固定概念以上に"ルクセンブルク人は様々な顔を持つ"からだと主張する。彼の言葉によると、Bauschはルクセンブルクの明確ではない側面に光を当てたいという。そのためにはこの工業地帯における鉄鋼業の労働者たちが住む場所について調べなくてはならないと。
映画は運命が見放した人々への注目によって、この事実を反映している。ソニーボーイを除いた全員が仕事をすることを拒むが、それは仕事に幻滅し、人生が彼らを扱うやり方に良くも悪くも慣れてしまったからだ。ソニーボーイは唯一仕事に幻滅せず、貧乏生活に飽き飽きしているのだ。
働きたくない失業者の問題に取り組むことで、Bauschはルクセンブルクの確立に目を向けている。世界で最も低い失業率を持つ国の1つにおいて、失業とは映画においてある程度無効なトピックでもある。しかしBauschは"ルクセンブルクにたった5人だけしか失業者がいなかったとしても、彼らは私やあなたと同じ人間であり、彼らについての映画を作る価値はある"と語っている。
今作の題名はいくつかのトラブルを引き起こしている。プロデューサーであるNicolas Steil ニコラス・ステイルは題名の露骨さによって、投資家が予算をサポートする可能性が失われたと語っている。おそらく元々計画された題名"Steel Crazy after All These Years"が使用されたなら、結果は異なっていただろう。この題名は映画における鉄鋼業の文脈や栄光の日々は過ぎ去ったという事実により近いものとなっている。
ネガティブなレビューにおいて指摘されているもう1つのポイントは映画において描かれる郷愁の感覚だ。それはシュメルツェンや廃墟によって表現されるが、他にもそれを示すものは存在する。ペッツが働いていた映画館Cinema de l'usineや1930年代に作られたようなサッカースタジアムの門に描かれた落書きなどだ。多くの小さな郷愁深い瞬間が映画には見られ、古きよき時代への切望という普遍的な感覚がそこに表れている。
Ander Jung アンデル・ユングの演じる人物セオドアはこれをキャラクター化したものである。序盤のフラッシュバックにおいて、メンバーが全員紹介されるのだが、私たちはそこでセオドアが事故で右の人差し指を失ったことを知るだろう。映画を通じて、彼は工場で起こった事故の逸話について語りつづけるが、よりグロテスクになるほどそれは迫真性が増す。ある撮影チームがジェロニモにインタビューしようとして、その陰りある仕事ぶりでクラブを驚かせる時、セオドアはこうコメントする。"もちろん俺はいくつか物語を語ることができるさ。テープはどれくらいある?"と。これは彼が皆と以前の生活について共有したいという思いを明確にしている。セオドアは、人々は否定するとしても、ルクセンブルクのバーで時々出会う類のステレオタイプを基としているのだ。
ネイティヴ・アメリカンというテーマは、ジェロニモが安心毛布的なものとして執着するところからも、同じく郷愁深いものとして見做せる。社会的にも経済的にも薔薇色だった子供時代から、彼とペッツは"カウボーイとインディアンたち"という劇を上演し続けている。彼らがこのお遊戯に戻ってくるのは二重の後退という訳である。
Bauschが行ったほとんどのインタビューにおいて、彼は「ブラス!」(マーク・ハーマン, 1996)と「フル・モンティ」(ピーター・カッタネオ, 1997)からの影響が"Le club des chômeurs"には存在することを公言しており、特にリハーサル場面やストリッパーが女性だけのパーティーに乱入してくる場面にはそれが顕著だ。最も重要なのは、この失業者を描いた2作の英国映画は両作とも、より影響力ある文化的パワー(例えばBBCというメディアや芸術界を支配する、ロンドン拠点の南イングランド文化)によって周縁化された小さな地域(ヨークシャーのある郡)における文化的アイデンティティを表現している例であることだ。それゆえにヨークシャーの失業者たちについての物語をルクセンブルクに移植し、場所についての明確な意味を変えることで、Bauschはルクセンブルクにおける周縁化された文化的アイデンティティを描き出したと言えるだろう。
映画で描かれる、もう1つのとても重要な要素は多文化主義である。伝道者はペッツと話す時、これを数字とともに語る。"ここには60もの国の民が住んでいる"と。ルクセンブルクは今までも、現在でもとても多文化主義的な国である。工業化の初期段階において、労働者たちは労働力を提供するためイタリアからやってきた。この移住の第1波はHagen Kordes ハーゲン・コーデス言うところの周縁的統合によって定住していった。外国人たちを社会の境界線に置き、徐々に組みこんでいくというものである。この周縁的統合という要素はViviane Thillによっても議論されており、それはヴェロとペッツのZamboni ザンボーニというポルトガル風苗字に由来する。ポルトガル人の移住の波は60年代に始まり、未だ彼らは十全に組みこまれてはいないのである。
この側面はアンジーの友人や恋人たちによって体現されている。関係性の終りについての会話の間、アンジーと恋人のリノは彼が他のポルトガル人女性と結婚し、ポルトガルに移住するという話をする。その後リノとの別れについて話す時、アンジーは"クソポルトガル人"と言うのだが、友人のテレサは"クソルクセンブルク人"と返事をする。そこでアンジーはテレサがルクセンブルクに国籍を変えたことを指摘するのだが、そこでテレサは"しょうがないでしょ。それでやっと私はあなたと同じになれた"と語る。それはルクセンブルクのポルトガル人は価値が劣るとでもいう風だ。この強烈な描写は国籍の問題と、ルクセンブルクの文化における外国人の立ち位置は周縁的統合のモデルに深く依存しているということを示している。
最後に、Bauschは多くのインタビューにおいて国産映画という概念が自身にとって重要であると語っている。
全ての国には自身の言語で作られ、固有の問題を描いた映画が必要なんです。アイスランドもとても小さな国ですが、固有の映画があり、ルクセンブルクよりもずっと貧しい国にも彼ら特有の映画文化があるんです。
それゆえにBauschは、文化を反映し、自国の言語を使った国産映画の守護者として自身を確立したのである。そして共同脚本家(Jean-Louis Shclesser ジャン=ルイ・シュクルッセルとともに執筆)として、彼の郷愁深い感覚とルクセンブルク、特にミネットという地域へのビジョンが映画から読みとれるのである。
結論として、今作はスタイルと内容両方において議論を呼ぶ映画だとしても、"Le club des chômeurs"はルクセンブルク文化の表象と考えることができる。映画が表現する文化はミネットにおける夢追い人、郷愁、希望なきケースの1つなのだろう。だが映画がルクセンブルクを舞台と死、キャストやクルーもほとんどがルクセンブルク人で占められ、ルクセンブルク語を使って、ルクセンブルクにおける生き方を表象していることを考えると、フィクション的で非現実的であるとはいえ、映画が自然な文化の投影であることは否定できないだろう。
オリジナル:Other faces Andy Bausch'sLe club des chômeurs (The Unemployment Club, 2002) on Kinoeye written by Gérard Kraus