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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Hamida Issa&“Places of the Soul”/カタール、石油の子供たち

さて、カタールである。アラビア半島の北東部に位置するこの小さな国は、映画界における存在感もまた比較的小さい。私のように日本未公開映画を観まくっている方ならばアラブ首長国連邦ルクセンブルクに並んで、他国の映画を共同制作する国として知っている人もいるかもしれない。だが他の2国もそうだが、自国の映画産業は完全に二の次であり、カタール人監督によるカタールを舞台としたカタール資本の、いわゆる“カタール映画”というのお目にかかれる機会は驚くほど少ない。しかしこの度、私はそんな一作をとうとう観ることができた。ということで今回はカタールの新鋭作家Hamida Issa ハミダ・イッサによる長編ドキュメンタリー“Places of the Soul”を紹介していこう。

まず映し出されるのはホームビデオの荒い映像である。そこには広大な砂浜で両親に囲まれながら、笑顔を浮かべる子供が映っている。彼女は子供時代の監督自身であり、この映像は監督の子供時代を映したものなのだ。母がホームビデオを撮影するのが趣味であり、そのおかげで多くの映像が今に残っている。家族でパーティをする姿、ゲームセンターで家族がはしゃぐ姿、そんな他愛ないからこそ愛おしい風景がそこには刻まれているのだ。しかしカメラの持ち主だった母はもう既にこの世にはいない。そして監督のなかでその喪失の傷は未だに癒えることがない。

映像に映っていた子供は亡き母親の影響もあり、長じて映画製作者としての道を歩み始めるのだったが、新しい仕事は南極の観測旅行に随行することだった。彼女は南極に降り立つ初めてのカタール人という責任を背負いながら、カメラクルーたちとともに南極へと向かう船に乗船することになる。ここで監督はカメラマンであるChristopher Moonと旅路に広がる風景を映しとっていく。船の出発地点であるアルゼンチンはブエノスアイレス、どこまでも広がる大海原、そこに漂う超巨大な氷山、そして小さな氷の板のうえをヒョコヒョコと歩くペンギンたち……

今作において独特なのは、カタールを映したホームビデオの映像と監督たちが映す南極の観測映像が織り合わされることで構成されている点だろう。かたや世界の端に存在する氷の世界、かたや中東に位置する砂の世界。一見するなら全く異なる場所同士とも思えるが、この映像詩を観るうちに2つは豊かな海に面しているという共通点に気づくことにもなるだろう。こうして監督の視線と記憶を通じて、2つの世界は優しく溶け合っていく。

しかし観客は不気味な影をもそこに見出すことになるだろう。監督はカタールを映す映像にある老人の証言を重ねていく。石油が発掘される前、カタールでは真珠漁が盛んであったのだが、これを通じて人々は自然といかに共生していくかを学び、ゆえに皆が自然への敬意を確かに持っていた。しかし石油産業の勃興はもちろん、真珠漁も養殖業に取って代わられ、人々はその敬意を失っていき、環境を破壊することにも躊躇わなくなってしまったと。

さらに南極を映した映像も少しずつ不穏なものとなっていく。気候変動が進んでいき温度は上昇していくことで氷山が加速度的に溶けていってしまっている。これによって南極に生きる動物たちの命が危機に瀕している。他にも様々な異常事態が連続しているが、根本としてこの気候変動を促進する大きな産業とは何か。それこそが石油産業というわけである。ここにおいてカタールは他の中東諸国に並んで、随一の石油および天然ガス埋蔵量を誇っており、このおかげで一人あたりのGDPは世界第4位となるほど高所得者数が多い。これもあってか一人あたりの二酸化炭素排出量は世界一であるという研究結果も存在している。監督が南極観測に参加した理由とは、おそらくこれなのだろう。

私たちは石油の子供なのだ、映画内でこんな言葉を監督自身が呟く。その実情を私たちはホームビデオのなかに何度も見てきた。豪勢なパーティ、厩舎での馬との触れ合い、ディズニーランドへの家族旅行。今までこの映像は甘やかな郷愁を観客にもたらしてくれていた。だが南極の実情とカタールの現代史が繋げられたその時から、映像からは苦い後悔と罪悪感が現れ始める。それはおそらく監督が抱く思いそのものなのだろう。

それでも今作はその罪の提示で終ることはない。こういったある種原罪にも似た苦悩に苛まれるなかで、監督は母との記憶を頼りにして、希望を探し求める。気候変動と引き換えに恩恵を得てきた自分が今できることは一体何なのか?この問いを彼女は突き詰めんとしていく。今作はその過程、カタールの特権的な富裕層に生まれた1人の女性がこれを自覚し、その特権を持つ者としての責任を引き受けるまでを描いた作品なのだ。