さて、アラブ首長国連邦(UAE)である。この国の映画を観たことある方は……実は意外と多いかもしれない。というのもUAEはカタールやルクセンブルクといった富裕国と同じく、他国の映画を共同製作しまくっている国ゆえだ。特に私のように未公開映画をよく観ている方なら、製作国に“United Arab Emirates”とのこの国の英語名を見掛けた人も少なくないだろう。が、先述した通りこの国は他国の映画に共同出資するばかりで、自国の映画産業の発展にはあまり興味がなく、つまりアラブ首長国連邦出身の映画作家によるアラブ首長国連邦映画というのが極端に少ない。何と言ってもこの国初の長編映画という、Ali Al Abdool監督作“Aber Sabeel”の製作は1988年、さらにこの国の映画が自国の劇場で公開された初めての年は2005年(Hani Al Shebani監督の“A Dream”)なのだ。
だがこの2023年、この国からから現れた新鋭のデビュー作がトロント国際映画祭に選出されるということが起こった。共同製作として携わった映画においては別に珍しくないが、今作は正真正銘、アラブ首長国連邦が製作し(正確に言うとアメリカが共同製作だが)、アラブ首長国連邦を舞台とし、アラブ首長国連邦について描いた、アラブ首長国連邦出身の新鋭によるアラブ首長国連邦映画である。ということで今回はそんな新鋭Wendy Bednarzによる長編デビュー作“Yellow Bus”を紹介していこう。
今作の主人公はアナンダ(Tannishtha Chatterjee)という中年女性である。彼女はインドからの移民であり、夫のガガン(Amit Sial)、2人の娘であるラフィーナ(Aarushi Laud)やアンジュ(Kshethra Mithun)らとささやかなながらも幸せな暮らしを送っていた。だがある日、悲劇が起こる。病気がちだったアンジュがスクールバスの座席に放置され、そのまま衰弱死してしまったのだ。学校は砂漠の中にあり、バス内に放置されたならその激熱で死を迎えるのは必然でもあった。それなのに何故、学校の関係者たちは彼女を助けられなかったのか? いや、助けなかったのか?
物語はそんな悲劇に見舞われたアナンダを中心に進んでいく。家族はイスラム教の戒律に基づいての賠償と、それを通じての学校側との和解を提案されるのだが、この悲劇には何か裏側があるのではないかと感じるアナンダはその提案を拒絶し、独自に事件を解明しようとする。だが幾つもの障害が彼女の行く手を阻むように現れる。事件に関わりがあるだろうバスの運転手や付き添いの用務員たちは事件について黙秘を続ける。その裏側には学校側による暗躍があるとの思いを、アナンダは徐々に強めていく。
こうして彼女が事件に深入りしていく一方で、他の家族とはどんどん距離ができていく。夫のガガンは提示された和解条件を受け入れたうえで、この事件については忘れ新たなスタートを切ろうと試みている。そして妹を失ったラフィーナは事件の関係者として同級生たちから虐めを受けるようになり、彼女自身も妹の側にいてやれなかったことを気に病み、自責の念に押し潰されていく。
夫と娘がそれぞれに苦しんでいる様を見ても、アナンダの事件解決への執念は留まるところを知らず、常軌を逸していく。事件への姿勢が真逆である夫に対しては露骨なまでの敵愾心を見せ、さらにはアンジュの死を惜しむあまりにラフィーナがその死の原因だと非難していく。監督と編集のMichèle Tyanはこういった家庭崩壊を雪崩のような速度と勢いによって畳みかけていき、観客の心にこの地獄絵図を矢継ぎ早に叩きつけていくのだ。
そんな息詰まる展開の中で、もう1人の重要人物が物語に登場する。それがミラ(Kinda Alloush)というアラブ人女性だ。彼女は学校を運営する校長の立場にあり
そしてアナンダの家族に賠償金と和解を提示した本人でもある。彼女は当初、校長として事務的に事件を処理しようとしていたが、アナンダの執念が幾つもの疑問点を暴きだしていくとともに、少しずつ自身の行動に疑義を抱くようになっていき……
彼女の登場から“Yellow Bus”において、より大きなテーマが徐々に浮かびあがってくる。それはアラブ首長国連邦におけるアラブ人とインド人の格差、そしてアラブ人社会におけるインド人移民たちの苦難である。アナンダらは移民であり、生活は豊かであるとは言えない。それゆえアンジュの葬式もまともに執り行えず、親類からそのための金を借りるかどうか相談する場面もある。一方でミラは家政婦つきの邸宅に住まい、富裕層としての生活を謳歌している。こうして双方の生活描写を見るだけで、その格差を一瞬で理解できるだろう。
アラブ首長国連邦はいわゆる“オイルマネー”によって相当の富を誇っており、この経済状況に希望を抱き周辺諸国から移民が多くやってきている。何でも、この国の人口比において自国民が占める割合がたった1割弱ほどで、逆に言えば人口の約9割が移民などの外国籍住民で構成されているのである。そしてその外国籍住民の少なくない割合が南アジア地域出身で、インド人移民であるアナンダ家もそこに属するというわけだ。だが低賃金労働や虐待、人種差別などその生活は理想とはかけ離れている。
しかし本国での生活よりはマシとここでの生活を続ける者が多く、彼らの複雑な心境を象徴するのが、アナンダが同じく南アジア出身らしきバス運転手らに詰問する場面である。最初はアナンダが事件について運転手たちをなじるのだが、彼らはその追求が自分たちから仕事を奪うのだと激怒し、お願いだからそっとしておいてくれと懇願する。それに対してアナンダはその場を立ち去らざるを得ない。移民たちが置かれる複雑な状況、それゆえに移民同士に生まれる対立の構図がここにはあるのだ。
そしてこの対立には言語的な政治性も宿っている。アナンダたちの言語はヒンディー語であるが、ミラの言語ひいてはこの国の公用語はアラビア語である。それでいて先述した移民の割合ゆえに学校などの公共施設では英語が使われ、アナンダたちやミラが会話をする際にもこの言語が使われている。加えて今作ではタガログ語やウルドゥー語を母語とする人物も登場し、その言語的多様性は特筆に値するが、この多様性が事態をより混迷させる原因でもある。
例えば学校が真相を隠していると抗議するために、アナンダは校舎の壁に赤いペンキで“お前の手は血にまみれている”と落書きをするのだが、これがヒンディー語の文字であるデーヴァナーガリーで書かれるのだ。ゆえにミラはそれを理解できず「何て書いてあるの!?」と助けを求めざるを得ない。このヒンディー語とアラビア語の大きな相違が、双方の対立をより劇的な形で深めていくというわけである。
それでいて興味深いのは、ここにおける英語の立ち位置である。ある日ミラは虐めを受けているラフィーナを助けることになる。これをきっかけに2人は交流を始めるのだが、ラフィーナは自分が妹の死の原因だと詰る母親に背を向けるように、ミラにこそ接近していき関係性はより深まっていく。この会話の際に使われるのが学校での使用言語である英語なのだ。毀誉褒貶ありながらも、英語は世界における共通言語としての立ち位置を磐石としているがゆえ、異なる言語を持つ異なる人種の人々を繋げる橋渡しとしても機能できるということだろう。
“Yellow Bus”はその物語自体、娘の死の真相を探る母と彼女の行動がその家族や共同体に激震を生むというありがちな筋立てではある。だがまず今作はより普遍的なスリラー映画として、その畳み掛ける編集と登場人物1人1人の心の深奥を抉り提示する脚本によって、王道としての磐石たる高揚と面白さを堂々と披露することができている。
そしてこの普遍的なスリルを強化するものこそがアラブ首長国連邦という国の現状を抉る独自性に他ならない。アナンダとミラの対立は個と公の対立として捉えられることはもちろんだが、いつしかインド移民とアラブ社会におけるそれとも昇華されていくのである。先述した通りこの独自性の追求は相当に痛烈なものであり、これが今作に唯一無二の魅力的社会性を宿しているのだ。この普遍性と独自性の繊細にして大胆な均衡は、この“Yellow Bus”という映画がアラブ首長国連邦とアラブ首長国連邦出身作家にこそ作れる愛と憎しみの1作であることを高らかに証明しているのだ。