鉄腸野郎Z-SQUAD!!!!!

映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

アゼルバイジャン、軍隊と男性性~Interview with Ruslan Ağazadə

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さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。

そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。

さて今回インタビューしたのはアゼルバイジャン映画界の新鋭Ruslan Ağazadə ルスラン・アガザダである。彼の短編作品"Balaca"("低い")はタイトル通り低身長の青年を描いた作品だ。彼はその身長のせいで軍隊から入隊を断られ、恋人にも結婚を拒否されてしまう。そんな彼が世界に認められるよう必死に苦闘する様を描きだしたのが今作だが、これが浮き彫りにするのがアゼルバイジャンにおける軍隊システムの存在感とそれに影響される男性性である。2020年には領土問題に端を発するナゴルノ=カラバフ紛争が再燃し、アゼルバイジャンは多数の犠牲を払うこととなったが、この驚異が常に存在する故に、アゼルバイジャンにおいては男性の兵役が義務付けられている。今作はこの現状を背景としている訳だ。ということで監督には今作の演出やアゼルバイジャンの現状、アゼルバイジャン映画史における古典作品などについてインタビューした。それではどうぞ。

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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になりたいと思いましたか? どうやってそれを成し遂げましたか?

ルスラン・アガザダ(RA):まず言及したいのは私が撮影監督でもあることです。しかしこの"Balaca"という作品においては監督として挑戦したかった。数年前に若い映画作家たちが集まりThe Club of Young Filmmakersというグループを結成しました。彼らは短編の脚本を募集しており"Balaca"の脚本を送ろうと思いました。結論として彼らは今作の制作を決めてくれて、こうして私は映画監督になった訳です。

TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういった映画を観ていましたか? 当時のアゼルバイジャンではどういった映画を観ることができましたか?

RA:映画への興味は父から受け継いだものです。彼もまた映画作家で映画という世界へ最初に導いてくれた人物でした。子供の頃は彼とエミール・クストリツァ黒澤明アッバス・キアロスタミフェデリコ・フェリーニといった監督の作品を観ていました。これらの殆どは当時TVでも映画館でも観られませんでした。子供だったので当然全てを理解してはいませんでしたが、映画作家になりたいという夢の基礎となってくれた訳です。

TS:今作"Balaca"の始まりは一体何でしょう? あなた自身の経験、アゼルバイジャンのニュース、もしくはその他の何かでしょうか?

RA:今作のアイデアは私自身の観察と巡りあった出来事の数々です。私は田舎町で育ったのですが、そこで人生を過ごすうち様々な物事を目撃し、この思い出が最後にはアイデアを形作ってくれた訳です。

TS:詳しい質問に入る前に、ぜひ"Balaca"にも関連するアゼルバイジャンにおける軍隊とそのシステムについてお伺いしたいです。私たち、少なくとも日本人はこれについてナゴルノ=カラバフ紛争のニュースを通じてでしか知ることができず、日本においては他にこの情報に触れる機会がありません。そこで日本の読者にアゼルバイジャンの軍隊システム、そしてこれがアゼルバイジャン人、特に"Balaca"の主人公のような若者たちにどういった影響を与えているかを聞きたいです。

RA:南コーカサス地方では常に紛争や戦争が起こっており、これがある種の価値観や人生への視点に影響を与えていることに疑いはありません。不幸なことに今に至るまで私たちは地域における"戦争と平和"というジレンマに対処せねばならず、ナゴルノ・カラバフ紛争はその良い例であるという訳です。この国は70年間ソ連支配下にあり、軍隊勤務は義務となっています。そして第2次世界大戦によって幾つもの世代がソ連の軍事的プロパガンダの中で成長していきました。不幸にもソ連の崩壊後、この地域は騒擾の数々と直面し、この1つこそがナゴルノ・カラバフ紛争なんです。ゆえに男性には義務的な兵役があり、昨今の状況も相まって人々の間で軍隊は大いに尊敬されています。

TS:まず感銘を受けたのはOrxan Ağazadə オルハン・アガザダによる撮影です。特に印象深かったのは先鋭で衝撃を伴った方法論を以て陰影を多く駆使しながら、主人公の言葉を越えた感情、例えば悲しみや自暴自棄といったものを描きだしているところです。それは部屋の壁の前で主人公がポーズを取ったり、基地の隣にある店で眠っている場面などに見られます。この撮影スタイルを彼とともにどのように構築していきましたか?

RA:Orxan Ağazadəは今作の撮影監督であり、私の兄弟でもあります。彼もまた映画作家なのですが、ここでは撮影監督を担当してくれている訳です。プレプロ段階で映画の映像的側面について、たくさんの議論を重ねました。そして私自身の撮影監督としての経験もまた、映画を観る方法論に関して正確なアイデアを与えてくれました。撮影スタイルは同時発生的でなくてはならず、ドキュメンタリーに近い必要がありました。しかしもちろんOrxanからの提案にもオープンであろうとしました。いつも同じ波長という訳ではないですが、ある種の事象に関しては同じ観点を持っており、それこそが創造的過程の核を興味深いものにしていると私には思えます。

TS:今作の核となる存在は間違いなく主人公を演じたGudrat Asad グダラット・アサドでしょう。彼の身体や雰囲気はアゼルバイジャンにおける男性性や現実に傷ついてしまった、痛ましく繊細なバランスを持ちあわせる一方で、その演技や表現は一切の虚飾なく観客の瞳にその感情や苦痛を刻みつけてくるかのようです。彼のような素晴らしい俳優をどのように見つけ出したのでしょう、そして彼と仕事をしようと思った最も大きな理由は一体なんでしょう?

RA:Gudratのことは大学時代から知っていて、一緒に勉強に励んでいました。しかし正直言って、ここで彼を主役に据えると考えてはいなかったんです。かなり躊躇ったのは彼が俳優ではなく、演技をこなせるか定かではなかったからです。そこでこの役のために何度もオーディションを行いましたし、映像テストも行いました。あなたの質問で言及されている主人公の性格が私の最終決断を形作ったものであり、こうした流れで彼と仕事をしようと決めたんです。

TS:前の質問と関連するのですが、ラストにおける主人公の表情はとても痛ましいもので、言葉を失うほどでした。絶望、困惑、痛み、そして深淵のような哀しみ。これらの感情の混合物がその顔に現れ、今作を忘れがたいものにしています。そこで聞きたいのはこの場面をどう撮影したかということです。Gudrat氏からどのようにこの痛ましい感情の混合を引き出したのでしょう、どうしてこのショットを最後に置こうと決断したのでしょう?

RA:まず脚本を執筆している際、ラストに関しては幾つかの選択肢を用意していました。しかしある理由から映像的な反復に関してのことが常に心にありました。この反復によって始まりでこそ今作を終わらせようと思えたんです。意図としてはあまり劇的で感傷的に過ぎないものにしようとも思っていました。これに関してリハーサルの間にGudratと話し合ったんです。演技や感情表現において様々な選択肢を試しました。そして決断しなければならない段階で、彼が鉄棒で懸垂しながら、結婚式を目撃するという場面を撮ったんです。この光景を長回しで慎重に捉えていくことで、身体的な困難が彼の感情の波に加わってくれた訳です。

TS:今作において軍のシステムはアゼルバイジャンの男性性というものに深く関わっています。一見すると軍隊は男性性の間違った概念、いわゆる有害な男性性というものを生み出し、この結果軍隊が主人公の身長が短いゆえに軍隊への加入を許可しなかったり、これを理由に彼の恋人が結婚を拒んだりと、主人公は深く傷つくことになります。今作はアゼルバイジャンにおける男性性への深い洞察とも言えるでしょう。ここで聞きたいのはアゼルバイジャンにおける男性や彼らが持つ男性性の現状はどういったものかということです。2020年におけるナゴルノ=カラバフ紛争の再燃と停戦の後、アゼルバイジャンの男性とその男性性はどこへ向かい、どのように変化していくでしょう?

RA:先述した通り、南コーカサス地方では多くの闘争が勃発しています。ジェンダーにまつわる精神性や視点も多く影響を受けています。男性性に関してですが、これはこの事実にだけ関連している訳ではありません。宗教と東側としての精神性もまたこの国では大きな役割を果たしています。その結果として時おり個人にまで影響する有害なメンタリティを持った社会が生まれるんです。

TS:もしシネフィルがアゼルバイジャン映画史を知りたいと思った時、どういった作品を観るべきでしょう? その理由もお聞きしたいです。

RA:アゼルバイジャン映画の古典についてもっと知りたいなら"Arșın mal alan""Bizim Cəbiş müəllim"("私たちの先生ジャビシュ")、"Şərikli Çörək"("分け与えられるパン")といった作品をお勧めします。新しい作品を発見したいなら"All fo the Best""Nabat"といった作品をお勧めしますね。

TS:もし1本だけお気に入りのアゼルバイジャン映画を選ぶなら、どれを選びますか? その理由もぜひ知りたいです。何か個人的な思い出がありますか?

RA:"Şərikli Çörək"は私にとってオールタイムベストのアゼルバイジャン映画です。今作の舞台は第2次世界大戦後にソ連に占領されたバクーで、子供たちの幼さや人生は戦争による貧困によって甚大な影響を受けています。この子供たちがとても好きで Şamil Mahmudbəyovの監督としての采配にも感銘を受けました。

TS:アゼルバイジャン映画の現状はどういったものでしょう? 外側からだとそれは良いもののように思えます。有名な映画祭に新しい才能が続々現れていますからね。例えばカンヌのTeymur Haciyev テイムル・ハジイェフロカルノElvin Adigozel エルヴィン・アディゴゼルRu Hasanov ルー・ハサノフ、そしてヴェネチアHilal Baydarv ヒラル・バイダロフです。

RA:あなたが言及した通り、ここ数年アゼルバイジャン映画は大きな成功を遂げています。あなたも名前を挙げた、多くの新しい才能たちがどんどん現れているんです。それでもこれからの数年は。世界が置かれている状況や最近の紛争も鑑みるとこの国の映画作家にとっては確実に難しい状況になるでしょう。しかし私としては幾つもの小さな成功が私たちの映画文化が発達していくごとに成し遂げられ、これが将来における更なる達成に繋がることに疑いはありません。

TS:新しい短編か長編作品を作る予定はありますか? あるならぜひ日本の読者にお伝えください。

RA:はい、今は新しい短編に取り組んでいます。しかし今回は少しアニメーションという様式を試したいと思っています。物語は抽象的なもので、プロダクションは既に始まっています。しかし不幸なことにパンデミックのせいでこれを延期せざるを得なくなりました。願わくば今年ウイルスから解放されて、制作を再開できればと思っています。

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