さて、日本の映画批評において不満なことはそれこそ塵の数ほど存在しているが、大きな不満の1つは批評界がいかにフランスに偏っているかである。蓮實御大を筆頭として、映画批評はフランスにしかないのかというほどに日本はフランス中心主義的であり、フランス語から翻訳された批評本やフランスで勉強した批評家の本には簡単に出会えるが、その他の国の批評については全く窺い知ることができない。よくてアメリカは英語だから知ることはできるが、それもまた英語中心主義的な陥穽におちいってしまう訳である(そのせいもあるだろうが、いわゆる日本未公開映画も、何とか日本で上映されることになった幸運な作品の数々はほぼフランス語か英語作品である)
この現状に"本当つまんねえ奴らだな、お前ら"と思うのだ。そして私は常に欲している。フランスや英語圏だけではない、例えばインドネシアやブルガリア、アルゼンチンやエジプト、そういった周縁の国々に根づいた批評を紹介できる日本人はいないのか?と。そう言うと、こう言ってくる人もいるだろう。"じゃあお前がやれ"と。ということで今回の記事はその1つの達成である。
今回インタビューしたのはインドネシアの映画批評家Umi Lestari ウミ・レスタリである。この国でも有名な映画批評家の1人であり、自身のブログを中心として、様々な媒体に批評を執筆している。特に映画史に埋もれたインドネシア映画の紹介に奔走しているそうだ。インドネシア映画史について問う人物としてはこれ以上にない存在だ。ということで今回は彼女に映画批評に携わるまでの道、インドネシア映画史における重要作品、Usmar Ismail ウスマル・イスマイルといった巨匠たちへの現在の評価などについてインタビューを行った。それでは宏大なるインドネシア映画史への旅へ!
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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画批評家になりたいと思いましたか? どのようにしてそれを成し遂げましたか?
ウミ・レスタリ(UL):20代の初め頃は文芸批評家としての道を歩んでいました。Media Sastraという勉強会兼オンラインの文芸メディアに所属していました。しかし2010年代中盤、私たちはまた新しい旅をすることに決めたんです。「ワンピース」を真似たんですよね、ルフィが強くなるために仲間たちと数年間別れざるを得なかったように。私もまた自分自身の旅を始め、あるアートシーンから別の場所へ行きました。この時、Garasiという前衛演劇団体に参加したんです。それからインドネシア視覚芸術アーカイブでも働き、ここで芸術批評の書き方を学びましたね。この後、Jurnal Footageという映画史と映画批評について議論するオンライン雑誌を読み始めました。そうしてForum Lentengという施設で映画をもっと学ぶため、故郷であるジョグジャカルタを離れてジャカルタに移住しました。2015年から16年にかけてはArkipel、別名ジャカルタ国際ドキュメンタリー・実験映画祭にも参加しました。この過程を通じて、映画への好奇心はどんどん膨らんでいった訳です。私にとって映画について執筆することは自分が何が好きで、何が好きではないかを語るだけのことではありません。映画について執筆するということは私の文化と世界的な状況に対する反射的な活動なんです。さらに執筆を行っている時、前々から培ってきて私のなかに宿っていた知識を呼び起こせることが分かりました。私にとっては文学や演劇、視覚芸術や音響芸術、そして技術の歴史の交差点、それが映画なんです。これが芸術としての映画をより深く探求していきたいと2018年に映画批評家となった理由なんです。2年間映画に焦点を当ててきて、インドネシアの映画のナラティヴの歴史にはとても多くの穴があると分かりました。今はこの空白を私自身の声で埋めようとしている過渡にあり、これが忘れられたインドネシア映画や映画作家たちを再発掘するという執筆計画を用意したんです。そして同じく分かったことはインドネシア映画にまつわる以前の文章は殆どが男性によって書かれていたということです。女性として映画批評を執筆することはインドネシア映画に関する議論を解体していく1つの方法な訳です。
TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういった作品を観ていましたか? そして当時のインドネシアではどういった映画を観ることができましたか?
UL:私は首都ジャカルタから550km離れた小さな町で育ちました。スレマンというジョグジャカルタに近い田舎の地域には映写機や映画館が全くありませんでした。なので映画を観るのはもっぱらTVで、例えば"Boboho"というコメディシリーズや吸血鬼映画、Suzzanna スザンナ(インドネシア映画界のホラーの女王です)が出演した作品、それにWarkop DKI ワルコプDKIやBenyamin ベンジャミンなどを楽しんでいましたね。10代の頃はインドネシア映画のリバイバル上映を観ていました。ジョグジャカルタで勉強をする機会に恵まれ、そこで映画館に行くという文化が発展していくのを感じ、故郷でもDVDレンタルのダイナミクスというものを経験しました。こういう訳で映画館でインドネシア映画の数々を観ることができたんですが、同時にレンタルにも通いましたね。2000年代中盤に関してはUniversal、その少し後はRumah Filmというジョグジャカルタでシネフィルたちが経営していたレンタル店について言及するべきで、特に後者で多くの映画を知りました。さらにドクメンタル映画祭(Festival Film Dokumenter)という映画祭が2002年に開設され、そこではドキュメンタリー映画を作ることの芸術性を学びました。そして2006年に開設されたジョグジャ・ネットパック・アジア映画祭(Jogja-Netpac Asian Film Festival)ではアジアの様々な映画を観ることができました。そして2010年代中盤、先に言及したジャカルタのForum Lentegが経営するオンライン雑誌Jurnal Footageは実験映画に関する私の興味を膨らませてくれました。こうして私は芸術と映画、映画の趨勢、遊び心の大切さ、映画製作における実験を学び、Arkipelに上映作のプロフラマーとして参加した時には未だ過小評価されている映画作家たちと出会いました。
TS:あなたが初めて観たインドネシア映画は何でしょう? その感想もぜひ聞きたいです。
UL:先述した通り、私はSuzzannaが出演するインドネシアのホラー映画を観ながら育ちました。"Sundel Bolong"(1981)や"Nyi Blorong"(1983)、"Malam Jumat Kliwon"(1986)といったSisworo Gautama Putra シスウォロ・ガウタマ・プテラ監督のホラーをTVで観るのは、子供ながらに怖かったですね。ジャワ島における神秘を思わず信じてしまいましたね。"Nyi Roro Kidul"シリーズにおけるSuzzannaのスーパーパワーを見た時には、ジャワ島の民話における人気の神である、この南海の女王Nyi Roro Kidul ニャイ・ロロ・キドゥルのファンになってしまいました。今振り返って思うのは、子供時代の経験は装置論的映画がいかに機能するかの完璧な例だったということです。映画は観客にスクリーンに描かれたものを信じさせるんです。
TS:あなたにとってインドネシア映画の最も際立った特徴とは何でしょう? 例えばフランス映画は愛の哲学、ルーマニア映画は徹底的なリアリズムと黒いユーモアなどです。ではインドネシア映画においては一体何でしょう?
UL:アマチュア性と文化変容ですね。The Teng Chun テ・テン・クヌ(1902-1977)という無声映画時代からインドネシア独立までに活躍したパイオニア的な映画作家・プロデューサーは、インドネシア・シネマテーク(Sinematek Indonesia)の設立者であるMisbach Yusa Biran ミスバク・ユサ・ビランにインタビューされた時こう答えました。"当時プロフェッショナルと呼べる人物は誰もいなかった"と。そしてこのインタビューの際にMisbachは、メッセージとしてのナショナリズムのためでなく、商業的目的のためだけに映画を作っていたと彼を非難しました。しかしTheの答えから私が認識したのは、もし私たちがインドネシア映画の美学に注目するなら、南国の大地出身の人々が現代の技術からいかに自身のナラティヴを発展させたかというアマチュア性の側面に注目するべきだということでした。The Teng Chunはハリウッドや上海で映画産業が発達するのを目撃した後、初めての映画を作りました。1930年代には自分でトーキー映画用のカメラを作り"Boenga Roos dari Tjikembang"(1931)を作ったんです。そしてこれがインドネシア映画発達の基礎となった訳です。
これに加えて1950年代初期、思想家で執筆家のArmijn Pane アルミヌ・パネ(1908-1970)という人物が、もしインドネシア映画に目を向けるなら、私たちはその文化適合的な側面を考える必要があると提唱しました。Paneはインドネシア映画は文化適合のプロセスそのものであり、東洋のストーリーテリングと西洋の技術を組み合わせたものと見做していました。インドネシアにおける映画製作は文化の交錯のプロセスという訳です。このアマチュア性と文化適合という2つのコンセプトを組み合わせた時、インドネシア映画の多様な側面が見えてくるでしょう。そしてこれは今でも続いています。例えば北スマトラのメダンは映画上映において長い歴史がある地域なのですが、ここの映画作家たちは殆どがアマチュアであり、DIYで自身の作品を作り、配給しているんです。さらに同様の考えはシンカワンやパプアで制作される映画にも見られます。アマチュアたちは映画への愛を基に自分たちだけで映画を作り、彼らの過ごす日常のナラティヴと安価な技術を合体させているんです。
TS:あなたの意見として、インドネシア映画史において最も重要な映画は何でしょう? その理由もお聞きしたいです。
UL:まずMannus Franken マヌス・フランケンとAlbert Balink アルバート・バリンクが監督した"Pareh"(1936)ですね。撮影はJoshuaとOthniel Wongが担当しています。今作は独立前のインドネシアにおける国を越えた映画製作の例でもあります。物語としては地方の迷信によってその愛を禁じられた恋人たちを描いています。山から海まで様々な場所で撮影が行われており、インドネシアの美(mooi indie)を体現した完璧な例となっています。
もし特集効果を使った初期の映画を探しているなら、 The Teng Chunの"Tie Pat Kai Kawin"(1935)を観るべきでしょう。彼は先述通りインドネシア独立前における映画スタジオのパイオニアです。技術的制限のため、彼は1930年代にトーキー用のカメラを開発しました。"Terang Boelan"(Albert Balink, 1937)が興行的に成功した後、Theの制作作品は中国の民話を描くものからナショナリズムの台頭を描きだすものに変わっていきました。"Tie Pat Kai Kawin"は低予算での特集効果を駆使しており、主人公Tie Pat Kaiの駆け抜ける魂を表現するためにセルロイドを引っかいたんです。
"Terimalah Laguku"(1952)はDjadoeg Djajakusuma ジャドゥク・ジャヤクスマの監督作です。もし「ざくろの色」(セルゲイ・パラジャーノフ、1969)のミザンセーヌの1つ、登場人物たちが原稿に覆われた壁の前に立つ場面に親しんでいるとしたら、この作品には驚かされるでしょう。私にとっては、インドネシア国立映画会社(Perfini)の初期作で芸術監督を担当していたBasuki Resobowo バスキ・レソボウォが今作のミザンセーヌ芸術を高めたと思っています。今作においてRosobowoは壁を竹で埋めつくしましたが、これは当時のインドネシアで流行していたファイン・アートにおけるリアリズムの潮流に影響されていました。さらに"Terimalah Laguku"は"Si Tjonat"(Nelson Wong ネルソン・ウォン, 1929)という盗賊を描いた、インドネシア独立前に作られたサイレント映画へのオマージュ的作品ともなっていました。この作品でマーシャル・アーツが披露される場面を催しの一環として子供たちが観ているというシークエンスが描かれるんです。
"Apa Jang Kau Tjari, Palupi?"(1969)はAsrul Sani アスルル・サニによって監督された1作で、1960年代における映画業界の闇を描きだしています。Palupiという女性は舞台演出家の夫の元から去り俳優になろうとしますが、出資者の愛人として囚われてしまうんです。彼女が映画監督から拒まれた時、1軒の家(Palupiの新しい映画のセットです)が崩壊していき、それが彼女の心の傷を表現しているとそんな場面には驚かされました。
「クルドサック」("Kuldesak", 1999)はオムニバス映画であり、Nan Achnas ナン・アクナスやMira Lesmana ミラ・レスマナ、Riri Riza リリ・リザやRizal Mantovani リザル・マントヴァニといった映画作家たちがここからデビューを果たしました。「クルドサック」はスハルト体制における新体制(Orde Baru)とインドネシアの改革、映画制作と美学的戦略の間に架かる残酷な橋を表現してもいます。MVやポップ・カルチャーからの影響が見られるとともに、映画内ではそれが若者たちの都市生活と組み合わされている訳です。
女性たちも映画を作っていますが、それは1950年代に2人のRatna(Ratna Asmara ラトナ・アスマラとRatna Suska ラトナ・ススカ)によって始められ、新体制時代には他の女性作家たちSofia W.D ソフィアW.DやChitra Dewi キトラ・デウィ、Ida Farida イダ・ファリダが続きました。しかしNan Achnasの"Pasir Berbisik"(2001)は革命以後における映画製作のフェミニスト的側面、その明確な例です。新体制のジェンダー固定的な政権に挑戦しながら、その語りは女性的なイメージによって強い女性キャラクターたちを祝福しているんです。
TS:もし1本だけお気に入りのインドネシア映画を選ぶなら、それは何でしょう? その理由もお聞きしたいです。そこには個人的な思い出がありますか?
UL:"Apa Jang Kau Tjari, Palupi"(1969)ですね。、特定の理由はありません。ただ愛してるんです。
TS:海外において最も有名なインドネシア人監督の1人は間違いなくUsmar Ismailでしょう。彼の長編"Lewat djam malam"はマーティン・スコセッシのWorld Cinema Projectによってレストアされ、そのおかげで私を含め世界のシネフィルが今作を観て、魅了されています。そこでぜひ彼の生涯やその作品群についてお聞きしたいです。現在彼はインドネシアでどのように評価されているでしょう?
UL:この約50年間、インドネシアの(男性)批評家によって書かれてきたインドネシア映画にまつわる文章においては、常に映画のエコシステムを発展させてきた父的存在がいると想像されてきました。まず私たちにはNja Abbas Akup ニャ・アッバス・アクプ(1932-1991)というコメディの父がおり、Djamaluddin Malik ジャマルディヌ・マリク(1917-1970)は映画産業の父と呼ばれています。新体制時代(1965-1998)にはこの議論が正当化され、今でも続いているんです。もし今後インドネシア映画の新たな語りについて批評され書かれない限り、Usmar Ismailはインドネシア映画の父としての存在を欲しいままにするでしょう。彼が"Darah dan Doa"(1950)を撮影した最初の日である3月30日は、インドネシアにおいて全国映画記念日(Hari Film Nasional)として常に祝われていますし、これからもそうなるでしょう。
"Lewat Djam Malam"の話題に移りますと、今作がIsmailが理想的・国家主義的映画を作る事を目的として設立した映画スタジオPerfiniと、Djamaluddin Malikが所有していたスタジオPersariの共同制作ということを人々は忘れてしまっています。彼らは作家的側面についてだけ、つまりIsmailは今作の映画的構造をどのように創造したのかについてだけ語るんです。まあ実際、おそらくですが彼はPerfiniの同僚たちが居なければ面白い映画を作ることはできなかったんです。"Harta Karun"(1949)や"Darah dan Doa"(1950)といった彼の初期作品に目を向けると、際立った違いが存在します。Usmalが自身の作風を持っていた、例えばパフォーミング・アートという観点から彼がカメラについて考えていたなどです。彼のキャリアの背景には舞台監督としての過去がありました。しかし"Darah dan Doa"に関しては、Usmarは左翼芸術家Basuki Resobowo(1916-1999)を芸術監督として起用し、共同制作を行いました。RosobowoのおかげでPerfiniが制作する映画のクオリティはより成熟したものになったんです。先述通り、彼は「ざくろの色」を彷彿とさせるミザンセーヌを創造する力があった訳です。それに加えて、Rosobowoは画家や舞台監督であったことを生かし、映画のメッセージを映像言語に翻訳することもできました。彼がミザンセーヌを創造する方法論は"Kafedo"(Usmar Ismail, 1953)や"Lewet Djam Malam"といった作品でアシスタントを務めたChalid Arifin カリド・アリフィヌに引き継がれました。私の研究を読めば、"Lewet Djam Malam"という映画は"Enam Djam di Djogja"(Usmar Ismail, 1951)や"Terimalah Laguku"(Djaboeg Djajakusuma, 1952)といった作品の技術の発展版、そして物語という意味では革命兵士たちの孤独を描きだした"Embun"(Djaboeg Djajakusuma, 1952)の発展と分かるでしょう。
さらに"Lewat Djam Malam"へのPersariの貢献も言及するべきでしょう。制作会社として商業的成功を収める作品が作れるようになるまで、Persariは様々な探求を行っていました。1952年、Djamaluddin MalikはPersariのプロデューサーとしてクルーや技術者、芸術家たちをフィリピンで最も規模の大きかったスタジオ、そして東南アジアで最も成功していた制作会社であるLVN Manilaへと連れていきました。例えば"Rodrigo de Villa"(1952)という作品を制作していましたね。Malikはスペクタクルを提供すること、観客の求めるものを提供することにこだわっており、製作者とPersariにおける熟練の芸術家としての彼がいなければ"Lewat Djam Malam"は今日私たちが観ているように面白いものではなかったでしょう。
TS:そして私の好きなインドネシア人監督の1人はDjaboeg Djajakusumaです。"Embun"や"Harimau Tjampa"といった作品に代表される、偉大で洗練された、時には大胆な手腕が好きです。しかし今のインドネシアにおいて彼はどれほど人気で有名なのでしょう? 彼とその作品はどのようにインドネシアの人々に受容されているのでしょう?
UL:Djaboeg Djajakusumaは伝統的なストーリーテリングとパフォーミング・アートを探求した映画監督として知られています。例えばワヤンという人形劇における伝統的音楽を基とした作品を作るなどしています。"Embun"において観客は人々が雨乞いの儀式を行う場面などから、彼がいかにジャワ島の神秘主義やアニミズムを描きだしているかを見ることができるでしょう。"Harimau Tjampa"において、彼はシラットの哲学を探求し、ミナン人たちの音楽様式をストーリーテリングの1つとして利用しています。Usmar IsmailがUCLAで脚本執筆を学ぶためインドネシアを離れた時、Djajakusumaは"Terimalah Laguku"を監督しました。彼は女性たちを男性たちよりも強く描いたのですが、不幸なことにそういった場面は検閲によってカットされてしまったんです。1980年代にはジャカルタ芸術大学(Institut Kesenian Jakarta)で教鞭を取っていました。おそらくGarin Nugroho ガリン・ヌグロホは彼の生徒の1人でした。
TS:"Harimau Tjampa"を鑑賞した時に驚いたのは、インドネシアにおける伝統的護身術であるシラットが現代のアクション映画、例えば「ザ・レイド」などでIko Uwais イコ・ウワイスやYayan Ruhian ヤヤン・ルヒアンといった武術家が体現するものとは全く違っていたことです。この劇的な変貌はインドネシア映画において、50年代の"Harimau Tjampa"から2010年代のアクション映画までシラットの描かれ方はどのように変わっていったかへの興味をそそります。インドネシア映画においてシラットは頻繁に描かれてきたのでしょうか?
UL:1940年代に制作された作品を幾つか観るなら、闘いの場面において俳優たちがシラットを使っているのが分かるでしょう。例えば"Matjan Berbisik"(Tan Tjoe Hock, 1940)や"Si Tjonat"(Nelson Wang, 1929)などがそうであり、後者は"Terimalah Laguku"という作品としてDjajakusumaがリメイクしています。"Harimau Tjampa"を観ると分かるのは、シラットは闘いの場面をより興奮させるものとして描くためには使われていないということです。Djajakusumaはその哲学的な側面を探求していた訳です。「ザ・レイド」などにおける表象と全く違うのは確かにそうで、こういった作品におけるシラットはより振付が精緻になされているんです。1970年代から80年代に作られた作品に関しては、ジャワラ(jawara)という地方におけるシラットのチャンピオン、もしくは地方における神話を探求する物語に重点が置かれていることが殆どと分かるでしょう。例えば"Si Pitung"(Nawi Ismail ナウィ・ウスマイル, 1971)や"Singa Betina dari Marunda"(Sofia W.D., 1971)、"Warok Singo Kobra"(Nawi Ismail, 1982)が代表例です。
TS:Usmar IsmailやDjaboeg Djajakusumaといった先述の50年代における映画作家たちはインドネシアの映画産業を大きく前進させた人物でしょう。しかし日本において、彼らがいかにインドネシア映画に影響を与えたかにまつわる情報が殆どありません。そこで聞きたいのは彼らの映画は70年代、90年代、2010年代のインドネシア映画とどのように繋がっているか、そして現代の作家たちや作品に彼らからの影響や引用が見られるものはあるか?ということです。
UL:そうですね……Usmar IsmailとDjadoeg Djajakusumaはラッキーでした。彼らは右翼の映画作家で、1965年の政治的騒乱の中でも作品は守られたんです。それに加えてPerfiniの構成員の第2世代に属していたMisbach Yusa Biranが1970年代にインドネシア・シネマテークを設立し、彼らの作品を所蔵していた訳です。1965年以後、左翼の芸術家や映画作家たちは難民となることを余儀なくされたり、もっと酷い場合は殺害されたり、ブル島に幽閉されたんです。新体制時代、左翼の映画作家たちのスタジオは燃やし尽くされ、作品も消し去られました。おそらくその後に関しては本などをチェックするべきですが、彼らのことはこれ以上語られなくなります。例えば1997年、山形国際ドキュメンタリー映画祭ではDr. Huyung ドクトル・フユンの作品が上映されました。ArkipellやKulturasinemaといった映画祭が毎年上映する作品を眺めれば、アーカイブ映像の中に隠されていた作品群、例えば"Pulang"(Basuki Effendy, 1952)という作品やThe Teng ChunやTan Tjoe Hockが制作した映画を観ることができます。
そして彼らの影響について語るなら、日本の影響についても語りましょう……そうですね……知っての通り大日本帝国は1942年から1945年までインドネシアを占領していました。日本軍はromusha(第二次世界大戦期に日本軍が強制的に徴発した非日本人労働者を表す言葉)、もしくは強制労働者たちをかなり広範に搾取し、食べ物のセキュリティを厳重にしたり、戦争の間に軍の施設を建築させたりしました。これに加えてjugun ianfu(従軍慰安婦はそのままインドネシア語に外来語として適用されている)も存在しました。日本軍は村から女性たちを徴用し、軍人たちを喜ばせるために搾取したんです。こういった日本軍の支配下における最悪の状況を描きだした作品はほとんどありません。まず元従軍慰安婦が戦後社会で平和に生きようとする姿を描いた、インドネシア最初の女性監督による映画があります。不幸なことに今作は重要だと思われていません。何故ならインドネシア映画に関する文章の数々は戦時中における女性たちの経験を抹殺してきたからです。そして2つ目の作品である"Romusha"(Max Tera マックス・テラ, 1972)は戦時における日本人の残虐性を描きだしています。こちらも不幸なことに、1970年代におけるインドネシアと日本の関係性の悪化を恐れた政府によって上映禁止の処置がとられてしまいました。
しかしながら明らかになったのは、日本占領下の時代において日本人がオランダの植民地からの自由と解放を叫んでいたインドネシアのインテリ層に恋に落ちたことです。彼らは同じ声を持っていた、つまり西欧による帝国主義を打倒しようとしていたということです。大東亜共栄圏設立のため、日本軍はromushaを搾取するだけでなく、芸術文化を通じてプロパガンダを行いました。そこで設立されたのがKeimin Bunka Shidosoです。IsmailとDjajakusumaはこのメンバーであり、日本文学を翻訳するとともに、それを原作として脚本を執筆しました。Ismailの第3長編"Dosa Tak Berampun"(1951)は菊池寛(1888-1948)の「父帰る」を原作としています。UsmarはKeiminに属していた際「父帰る」を翻訳したんです。
Keimin Bunka Shidosoに加えて、日本軍はNippon Eiga Sha(後にJawa Eiga Koshaとなります)を設立しました。彼らは幾つかのフィクションやプロパガンダ映画を製作し、太平洋における日本の勝利を喧伝していった訳です。Nippon Eiga Shaに所属していたのがDr. Huyung(日夏英太郎、もしくは許泳が使った別名です)でした。彼は朝鮮生まれでありながら日本の協力者となり、しかしその後1945年からはインドネシアの革命をサポートするようになりました。独立後、Nippon Eiga Shaで働いていたインドネシアの技術者たちはBerita Film Indonesia(BFI)を設立し、独立戦争(1945-1949)の間に起きた残虐な事件の数々を記録していきました。Dr. Huyungはジョグジャカルタに赴き、インドネシア最初の映画学校であるCine Drama Instituteを設立しました。さらにキノ・ドラマ・アトリエ Kino Drama Atelierという施設を築き、ここではDjajakusumaが秘書として働いていたんです。そしてUsmar IsmailはDr. Huyungの子弟の1人でした。こうして1950年代に映画業界が発展していった時、Dr. Huyungはナショナリズムにまつわるメッセージを広めるため「天と地の間」("Frieda", 1951)を製作しました。不幸にも彼は1954年に亡くなってしまいましたが(ぜひDr. Huyungに関する私の研究をご覧ください)
Nippon Eiga Shaは1930年代や40年代に活動を始めた映画作家を雇っていきました。まずRd. Ariffin、それからDr. Huyungのアシスタント兼編集技師となったNawi Usmail ナウィ・ウスマイル、彼は1970年代から80年代にかけて政治的内容を伴ったコメディ映画で有名となりました。例えば彼は"Benyamin Tukang Neibul"(1975)という作品を作りましたが、今作はインドネシアの軍隊を超現実的なストーリーテリングで描きだしています。
TS:2010年代も数か月前に終わりました。そこで聞きたいのはあなたの意見として2010年代最も重要なインドネシア映画は一体何でしょう? 例えばYosep Anggi Noen ヨセプ・アンギ・ヌンの"Hiruk-Pinuk Si Al-Kisah"、Edwin エドウィンの「動物園からのポストカード」、Maouly Surya モーリー・スルヤの「マルリナの明日」などです。私が挙げたいのはTimo Tjahjanto ティモ・ジャヤント監督の「シャドー・オブ・ナイト」です。今作はインドネシア産アクションの頂点であり、2010年代で最も激烈なアクション映画の1本として数えられるでしょう。
UL:私が挙げたいのはモーリー・スルヤの「愛を語るときに、語らないこと」(2013)です。大きなスクリーンで初めて今作を観た時の経験を今でもハッキリと覚えています。モーリー・スルヤは映画的構築に遊び心を持っているだけでなく、音とイメージの探求も深めており、静謐が全く騒々しい場面へと変貌することだってあるんです。
TS:インドネシア映画界の現状はどういったものでしょう。外側から観るとそれは良いもののように思えます。多くの新しい才能が有名映画祭に現れていますからね。例えばロカルノのYosep Anggi Noen、カンヌのモーリー・スルヤ、ベルリンのKamila Andini カミラ・アンディニなどです。しかし内側からだとその現状はどういったように見えるでしょうか?
UL:インドネシア映画界の現状はとても多様なものです。1998年のスハルト政権崩壊後、国の中心はもはやジャカルタではなくなりました。映画祭はジョグジャカルタやプルバリンガといった地で育まれることになり、地方映画が現れ始めたんです。映画のコミュニティも成長していき、観客は娯楽映画から非政治的映画、実験映画まで何でも観られるようになりました。映画作家たちもやはりとても多様です。Joko Anwar ジョコ・アンワルのように1980年代のインドネシア産ホラーを探求する者がいたり、フェミニズムを表現するメディアとして映画を意識的に駆使する作家たちも現れています。さらにいわゆるThird Cinema(植民地主義や資本主義、ハリウッドの映画製作を否定する映画潮流。ラテンアメリカ発祥)の魂を体現しようとする人々もいます。頭を柔らかくして考えると、他の国で映画作家が成し遂げたことを考えずとも、このインドネシアのあちこちで"ローカルな天才"が現れる未来を感じ取ることができるでしょう。彼らにとってはおそらく"国際的に名声を博す"ことはもはや重要ではなくなります。1930年代から50年代までのアートシーンにおいて、インドネシアは国際的でした。そして今、インドネシアの芸術や映画は新しい視点、新しい考え、そして新しい実験性をグローバルなシーンへ提供することができているんです。
TS:そして映画批評の現状はどういったものでしょう? 外側からだとその批評に触れる機会がほとんどありません。そこで内側から見えてくる現状についてお聞きしたいです。
UL:インドネシアにおける芸術批評について話す時、私が思い出すのは画家であるSudjojono スジョヨノが描いた"High Level"(1975)という絵画です。この絵画において、私たちは芸術家が誇りを以て立ち、収集家がその作品を慎重に観察し、画商が微笑みとともに礼をするのが見えるでしょう。しかし左側を見てみると、ある男がしゃがんで困惑しているのが分かります。この男は批評家であり、ギャラリーに展示された芸術を読み解こうとしているんです。ここに私自身の経験を見てしまいます。批評家であることはテキストと対峙することと同時に、孤独と対峙する経験でもあるんです。この仕事はレッドカーペットで瞬くフラッシュには程遠い。なのでインドネシアに映画批評家が少ないことに驚きは感じません。
しかし同じく強調したいのは、ここ10年で映画批評家のためのイニシアチヴやワークショップが多く行われたことです。例えばCinema Poeticaとドクメンタル映画祭は2017年から共同で映画批評に関するワークショップを開催しています。Arkipelにおいては志願者たちが映画批評の執筆にまつわる知識を学んでいます。2018年にはPeriod Workshopという文芸と映画批評にまつわる連続ワークショップが行われました。
今私が目撃しているのはおそらく過渡だと思うんです。若いライターや映画批評家は近いうちに自身の視点を世に問う勇気を持つことになるはずです。例えばブログやビデオログなど自身のプラットフォームを使ったり、映画批評の団体を作ったり、マス・メディアにおいて映画批評を執筆できる場を獲得したりもするかもしれません。未来のインドネシア人映画批評家が語りという側面だけでなく、映画に引用される芸術作品、音響芸術、編集、インドネシア映画の美学などについて書くようになることを願います。
TS:あなたにとって2020年代に有名となると思われる注目すべき才能は誰でしょう? 例えば私が挙げたいのは人間心理への深い洞察という意味でMakbul Mubarak マクブル・ムバラクを、濃密な前衛的傾向という意味でRiar Rizaldi リアル・リザルディを挙げたいです。
UL:はは……MakubulとRiarは友人です。彼らの未来は明るいと賭けられますね。しかし私としてはSarah Adilah サラ・アディラとSinekoci Palu シネコチ・パルがその映画製作を一貫し続け、映画への知識を広めてくれることを願いたいです。そしてAsrida Elisabeth アスリダ・エリザベスは"Tanah Mama"(2015)というドキュメンタリーの監督ですが、もっと映画が製作してくれることも願います。