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映画痴れ者/ライター済藤鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Eldar Quliyev&"Burulğan"/カスピ海、荒れ狂う若き心

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ムラド(Məmməd Məmmədov マンマド・マンマドフ)、ルスラン(Eldar Tağıyev エルダル・タグイェフ)、ナタ(Eqle Qabrenayte, リトアニア人だがアゼリー語綴り・読みでエグレ・ガブレナイテ)、タマラ(Həmidə Ömərova ハミダ・エマロヴァ)はバクーに生きる順風満帆な若者たちだ。ある日彼らはカスピ海の砂浜へと赴き、束の間の休息を楽しむことになる。最初は陽気な雰囲気に包まれていたのだが、そこにアディル(Vidadi Həsənov ヴィダディ・ハサノフ)という男が現れた時から状況は一転する。彼の登場に動転した1人が海で溺れてしまい、ここから彼らは衝突を始める。

"Burulğan"("渦"、1986)において、この衝突の風景というものがなかなか凄い。日本映画の予告編よりも喧しい騒音をあげながら、若者たちが自身の剥き出しの感情をぶつけていく。時には身体的暴力にまで至ることすらあり、殴りあいすらも辞さない。更にこの間に感情の衝突が惑乱の末にセックスにまで発展していき、観客はその劇的なうねりの数々に置いてけぼりになるしかない。

ここで描かれるのは若さの不毛、愛の不毛ともいうべき状況だ。それは正にアゼルバイジャンの海岸線にアントニオーニが現れたというべき様相だが、その感情の支離滅裂さたるや彼の追随すら許すことがない。だが最初はこの滅裂さが虚構的自由の爆裂なのか、監督の手腕が貧相ゆえの混乱なのかは分からない。

それでも物語は私たちの意志など些かも気にすることなく、若者たちの感情を煽りたてる。演出や編集なども強烈だが、特に際立つのはMüslüm Maqomayev ミュスリュム・マゴマイェフによるエレクトロの響きだ。その音はまるで水のなかの無数の分子さながら弾けていき、主人公たちの感情に激熱を齎していく。例えば東側諸国においてはエレクトロ・ミュージックが独特の進化を遂げ、ルーマニアではこの流れを汲んだAdrian Enescu アドリアン・エネスクという人物が映画作曲家として名声を博したが、Maqomayevの音楽もまた彼と共鳴するような激烈さを持ちあわせている印象だ。

だが徐々に前景に現れてくるのはRafiq Qəmbərov ラフィグ・ガンバロフによる撮影だ。表面的には凪に満ちた海面、官能的な起伏を宿した砂浜、完全に朽ち果て骨組みだけが残る灯台。彼が切り取っていくカスピ海沿岸の風景は異様な叙情性を湛えており、観客の網膜には濃密な潮風すらも強かに吹きつけてくるほどだ。そんなカスピ海の美に誇張された感情たちが乱舞する様は、唖然とするような衝撃を伴っている。

正直言って、若者たちのこの感情の発露は若さの阿呆なまでに稚拙な衝動性に見えることだろう。だが今作はこれを90分間壮絶な意志を以て貫き通すことによって、実存主義的な自暴自棄さへと高めていく。ここにおいて若者たちの感情はあまりに切実で、温い共感を越えていくような魂の激突がその発露には見えてくるのだ。これが"Burulğan"を忘れ難い芸術作品と変貌させているのだ。

私が初めて観たアゼルバイジャン映画は2019年のロッテルダム映画祭に選出されたElmar Imanov エルマル・イマノフ監督作"End of Season"だった。ここにおいてカスピ海が重要な役割を果たし、その不穏な美によって観客を魅了していった。私もまた魅了された1人であり、ここから1年が経ちアゼルバイジャン映画を鯨飲するようになって、時おりカスピ海の風景と巡りあうようになった。そんな作品はいつだって忘れられない風景を見せてくれた。カスピ海が現れるアゼリー映画は注目すべきものが多い、そして"Burulğan"は正にそんな1作である。

監督のEldar Quliyev エルダル・ギリイェフは言わずと知れたアゼルバイジャン映画界の巨匠である。1941年生まれのQuliyevはモスクワで映画製作を学んだ後、60年代後半からアゼリー映画界で活動を始める。1969年に制作した"Bir cənub şəhərində"("南の町で")が評判を博し、今でも今作はアゼリー映画を新たなステージへ押しあげたと評価されている。

彼が巨匠としての名を確立した作品が1979年制作の"Bəbək"と1982年制作の"Nizami"だ。アゼルバイジャン国の父と呼ばれる人物Babək Xürrəmdin ババク・ヒュッラムディンと、この国を代表する偉大な詩人Nizami Gəncəvi ニザミ・ギャンジャヴィ、それぞれ国民的英雄である人物の伝記映画を製作、成功に導いたQuliyevの名はアゼルバイジャン映画史に刻まれた訳である。

この後も旺盛に作品を制作し続けるがそのクオリティは正に玉石混交、だがそれが翻って彼が安全圏から出なかった大作作家ではないという証明になっており興味深い。"Burulğan"などは彼の異様な作家性が存分に発揮された問題作として面白いし、2005年制作の"Girov"("並列の")は、ナゴルノ・カラバフ紛争を題材とする作品の多くががアルメニア人への単純すぎる憎悪を基とした国威発揚映画であるのに対し、むしろアゼリー人の頑なさこそを否定し、憎悪を乗り越えんとする意志のある作品として際立っている。もちろん失敗作も存在する。1999年制作の"Nə gözəldir bu dünya..."("何て美しいこの世界")は精神病院を舞台としたコメディ映画だがクストリツァ作品に比肩する可能性をむざむざと捨てた駄作という印象を拭いされない。とは言えまだ彼の膨大なフィルモグラフィを総覧できたとは言えないので、今後も彼の作品を観続けたいところだ。

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