さて、このサイトでは2010年代に頭角を表し、華麗に映画界へと巣出っていった才能たちを何百人も紹介してきた(もし私の記事に親しんでいないなら、この済藤鉄腸オリジナル、2010年代注目の映画監督ベスト100!!!!!をぜひ読んで欲しい)だが今2010年代は終わりを迎え、2020年代が始まろうとしている。そんな時、私は思った。2020年代にはどんな未来の巨匠が現れるのだろう。その問いは新しいもの好きの私の脳みそを刺激する。2010年代のその先を一刻も早く知りたいとそう思ったのだ。
そんな私は、2010年代に作られた短編作品を多く見始めた。いまだ長編を作る前の、いわば大人になる前の雛のような映画作家の中に未来の巨匠は必ず存在すると思ったのだ。そして作品を観るうち、そんな彼らと今のうちから友人関係になれたらどれだけ素敵なことだろうと思いついた。私は観た短編の監督にFacebookを通じて感想メッセージを毎回送った。無視されるかと思いきや、多くの監督たちがメッセージに返信し、友達申請を受理してくれた。その中には、自国の名作について教えてくれたり、逆に日本の最新映画を教えて欲しいと言ってきた人物もいた。こうして何人かとはかなり親密な関係になった。そこである名案が舞い降りてきた。彼らにインタビューして、日本の皆に彼らの存在、そして彼らが作った映画の存在を伝えるのはどうだろう。そう思った瞬間、躊躇っていたら話は終わってしまうと、私は動き出した。つまり、この記事はその結果である。
今回インタビューしたのはエストニアの映画作家German Golub ゲルマン・ゴルブだ。彼の短編作品"Minu kallid laibad"は、ひょんなことから死体の運搬人として働くことになった青年と彼の先輩仕事人の旅路を描いたコメディ作品だ。ここにおいて監督は無表情の複雑なユーモアを以て、人間の死と生を軽やかに描きだしていく。俳優たちの熱演も相まって今作は頗る面白い悲喜劇として仕上がっているのである。という訳で今回彼には今作の始まり、俳優たちとの共同作業、エストニア映画史のあれこれについてインタビューしてみた。それではどうぞ。
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済藤鉄腸(TS):まずどうして映画監督になろうと思いましたか? どうやってそれを成し遂げましたか?
ゲルマン・ゴルブ(GG):子供時代は多くの日々を私の故郷であるパルヌのMai kinoという映画館で過ごしていました。武骨な見た目をした古いソビエトの建物からはコンクリートと埃の匂いがしました。ビロードに包まれた緑色の椅子からは座り続けていると腰をやられるとそんな雰囲気もありましたね。私はいつだってあのスクリーンの向こう側に行きたい、どうすれば行けるのかと思っていたんです。これは詩的に聞こえるでしょうが、シンプルに言えば子供から大人に成長する際に"映画の魔術"が失われ始めたんです。その主な理由はスクリーンに映る人々がただの俳優で、ほとんどの映画がフェイクだと知ったからです。しかしこの知識によって映画がどのように作られるのか知りたくなりました。ロシア文化、テクノロジーについての本やディスカバリーチャンネルは膨らんでいく映画製作への興味と並び立つような、世界に対する奇妙で実用主義的な視点を育んでくれました。物語から音響、編集まで全てが知りたかった。別に監督になりたいと際立って思っていた訳ではありません。ただ何でもやりたかったんです。ある日、インターネットで同世代の人々と出会い、彼らが作ったハリウッド作品のような映画を観ました(今観ればそんなに良い作品と思えないでしょうが)その時思ったのは、彼らにできて何で私にできないのか?ということです。その後私はカメラを携え、友人たちとともに映画を作りました。映画製作を学んで数年後、私はタリンに行きタリン大学付属のバルト映画メディア学校(BFM)に入学しました。あらゆる分野を跨いだ共同作業を指揮するという意味で、監督業というのは論理的なものだと思いました。
TS:映画に興味を持ち始めた頃、どういった映画を観ていましたか? 当時のエストニアではどういった映画を観ることができましたか?
GG:観れるものなら全部観ていましたね。ソ連時代に作られたロシア映画(例えば「モスクワは涙を信じない」や「イヴァーン・ヴィシーリエヴィチ、転職する」「幸運の紳士たち」など)や何本かのエストニア映画("Klass"や"Georg"など)、それからアメリカ映画、つまりはハリウッド映画(ヒーローもの、西部劇、映画館やTV、VHSで観れた全てです)などを観ていました。映画館で観たと最初から最後まで思い出せる初めての映画は「スパイダーマン2」で、映画や想像力の無限の力を経験しました。しかし本当の意味で映画の力を理解したのは「それでも夜は明ける」を観た時でしょうね。それから先に言った通り、ディスカバリーチャンネルやヒストリーチャンネルを延々と観ていたり、カートゥーンネットワークで「サムライ・ジャック」や「エド エッド エディ」「デクスターズラボ」「おくびょうなカーレッジくん」も観ていましたね。
TS:あなたの短編"Minu kallid laibad"の始まりは一体何でしょう? あなたの経験、エストニアのニュース、もしくは他の何かでしょうか?
GG:今作の始まりは複雑なものです。今作の制作は映画学校での4つ目にして最後のプロジェクトとして公式に立てられました。しかしこの"通過儀礼"をテーマとした作品が形を成すには長くかかりましたね。私と共同制作者である撮影監督のJuss Saska ユス・サスカは"本気を出して"作ることのできる可能な限りシンプルな映画というのはどういうものか、その可能性について議論していました、当時の技術や時間の余裕、物語の力を考慮しながらです。今作に同じく影響を与えたのは、私自身が死体を運搬する仕事を経験したことです。自伝的という訳ではありませんが、スクリーンにおいて信頼に足る表現を確立するため実際の経験からある要素を使いましたね。そして出来事が起こるロケーションにも影響を受けました。ソ連の支配によってできた文化的な複層性は田舎の風景というものを、物語やディテールという意味においてとても彩り豊かなものにしてくれたんです。
TS:まず感銘を受けたのはあなたが印象深く描きだす無表情のユーモアです。これはハリウッド映画を観て爆笑するという類のものではないですが、このセンスは観客を笑わせるとともに、生と死について真面目かつ滑稽に考えさせてくれます。今作を作るにあたり、どうしてこの類のユーモアを選んだのでしょう?
GG:この作品はいわゆる悲喜劇で、人生というのはこういうものだと思っています。何かを経験した時、それは困難で悲劇的なものに思われますが、一端それを"生き抜き"成長すると、この困難の時をよりポジティブに考えることができるでしょう。今作において私は会話自体でなく状況を動かそうと試みました。何故ならそれでこそこの映画が機能するからです。人々は自分が普通の状況にいると思いながら語り行動しますが、それでは全てがシンプルなものになってしまいます。それからオットーという登場人物は死を真の意味で理解している故に世界へよりオープンであれます。光がなければ影は存在しない、悲しみを経験したことがなければ幸せが何か知ることはできないと。オットーは死を知っている、そして自分が死にゆく存在だと知っている、だから毎日を最後の日として生きていくことができる訳です。エルキという登場人物はより若く、周りで何が起こるかを学ぼうとしています。そうすることで彼は人生の本当の価値を少しずつ知っていくんです。
TS:今作の最も魅力的な要素の1つは笑える上に複雑な2人の主人公の関係性です。いわゆるバディコメディの軽快なセンスを持ちながら、この関係性における人間的感情は映画が展開するにつれより深くなっていきます。そこで聞きたいのは、脚本執筆と撮影両方において、この関係性を描くに最も重要なことは何だったのかということです。
GG:興味深いことにErki Laur エルキ・ラウルは年上で経験ある俳優であり、Ruuben Joosua Palu ルーベン・ヨースア・パルは演技の学校で学ぶ新人です。故にスクリーンにおけるこの関係性は、この職業について熟知している者が次の世代に教えを授けるというものになっています。映画を通じて色とりどりで可笑しい物語が、より深く真面目なものになっていくというゆっくりとした過程があります。エルキは物事を学んでいくごとに、その本当の価値を理解していき、観客も同じように変わっていきます。この短さでは師でも生徒が必要とする全てを授けることはできませんが、それでも物事に対する態度だけは教えることができるでしょう。経験と技術は年を経ることで身に着けることができますが、その質というものは師から齎された態度にこそ由来するんです。
TS:聞きたいのはRuuben Joosua PaluとErki Laurという2人の俳優についてです。彼らの化学反応はとても面白いもので、今作のユーモアをより魅力的なものにしています。この2人をどうやって見つけましたか? 今作において彼らと組もうと思った最大の理由は何でしょう?
GG:Erki Laurはプロの、いわゆるメソッド俳優で、彼のディテールへの貢献は相当なものであり、演じる登場人物たちはとても深く細やかにスクリーンに現れます。それによって私たちはその人物が生まれてからの人生、例えば何を食べているか、どう生きているか、何者であるのか、祖父母はどういった人物なのかといった歴史を組み立てていけるんです。今作の前に組んだ"Wild Justice"という作品で彼は180°違った人物を演じており、今作の脚本を書いた後に彼に読んでもらおうとそれを送ったんです。その後彼にこそこの役を演じて欲しいと思いました。彼と役の間に見事な火花が散るのを感じたからです。
Ruubenに関してですが、役の組み立て方は先と同じでした。しかしキャスティングの行程は違いました。彼の所属するヴィリャンディ文化アカデミーと私の母校BFMは共同で映画製作を行っていたので、私たちは前から顔見知りでした。今作を作るにあたり、この役には主人公と同じような立場にある人物が使いたいと思っていました。母親と自身のきょうだいを養うため、早いうちから大人にならなければならなかった少年といった風です。Ruubenは家族をケアすることの意味を真に理解しており、ゆえに彼の感情の発露は登場人物の書き込みやスクリーンに直接反映されています。
TS:今作は死体の運搬人についての映画であり、避けがたく多くの死が描かれます。あなたはその死をとても繊細に、勇気ある形で描いていますね。だからこそ私たち観客は死とその影響について深く慎重に考えることができます。そこで聞きたいのはこの死という概念と対峙するにあたって、最も重要なことは何であったかということです。
GG:今作は死者についての映画ではなく、未だ生きている生者についての映画であります。"通過儀礼"というコンセプトが脚本と映画自体に大きな影響を与えています。今作は誕生日から始まり、主人公がこの仕事を始めた時から、結婚式やその他の儀礼が描かれることになります。こんにち、こういった人生の節目に現れる儀式の数々は忘れ去られているか、深く商品化されてしまっています。今、私たちは死を目撃することは普通ないでしょう。病気の人々は多かれ少なかれ病院へ行き、亡くなり、その親類がお金を払い、葬式が始まります。故に昔と比べると死は隠されているか、和らげられてしまっています。死を見ることがなければ、私たちはそれを部分的に忘れてしまい、自分たちは不死だと思うようになります。ですから私たちは死をありのままの無として、神秘化することなしに見せようと試みたんです。それから、時代を越えてこの職業が人々に何を齎せるかを描きたかったんです。何故ならそれでこそ死体の運搬という職業を理解することができると思われたからです。
TS:エストニア映画界の現状はどういったものでしょう? 外側から見るとそれは良いように思われます。新しい才能が有名な映画祭に次々と現れているからです。例えばトライベッカのRainer Sarnet ライネル・サルネット、釜山のMoonika Simets モーニカ・シメッツ、カルロヴィ・ヴァリのPriit Pääsuke プリート・パースケなどです。しかし内側から見ると、現状はどのように見えますか?
GG:エストニア映画の現状は前よりは良いですが、それでもあるべきレベルにはないですね。この国の現金割引システムのおかげで、ドイツやフィンランド、アメリカといった国から面白い仕事をもらうことができています。ここ最近で最も大きなプロジェクトはクリストファー・ノーランの「テネット」で、基本的にエストニア映画界の殆どの人材が撮影に参加しました。これらのプロジェクトは素晴らしく、世界レベルの強力な技術スタッフの育成にも繋がります。問題はエストニア映画がエストニアで作られないことです。10本もないんです。この面から言って、多くの芸術家たちは生きるために、外国の映画界で働くという選択肢を取らざるを得ないんです。思うにそれは政府のサポートがあるべき大きさではないから、それはエストニア政府の演劇へのサポートと比べてもです。エストニア建国100周年のプログラムは映画界に潤沢な予算を与えてくれて、多くの質の高い作品、例えばMoonika Siimetsの"Seltsimees laps"のTanel Toom タネル・トオムの"Tõde ja õigus"といった作品が作られました。ですから最低でも政府は毎年サポートの質を上げてくれてはいますね。私の意見としてエストニアはより多くの映画を作ろうと努力していると思います。それでも映画作家たちや制作会社の置かれた状況は不均衡で、過去には十分に融資を受けることすらできませんでした。いわゆる"ビジネス目的"の映画に関するサポート施設からもです。しかし全体として見れば、毎日状況は良くなっており、創造的なインプット、それからおそらくより大きなアウトプットに関する多くの可能性が開かれるようになっています。私たちと私たちの映画は変わってきているんです。
おそらく今が"エストニアの新たなる波"の時代なんです。
TS:もしシネフィルがエストニア映画史について知りたいと思った時、どの映画を観るべきでしょう? その理由もぜひ知りたいです。
GG:Moonika Siimetsの"Seltsimees laps"のTanel Toomの"Tõde ja õigus"は観るべき新作映画ですね。Tanelの作品は極めて簡潔にエストニアという国を見せてくれるでしょう。本当に良く作られているので、青臭い不倫から苦い老いまで大いに異なる視点から人生を生きさせてくれたという感覚を味わわせてくれるでしょう。今作はA.H. Tammsaare A・H・タッムサアレの作品を原作としており、故に巧みに再構築された19世紀という世界で繰り広げられる興味深い出来事やドラマを堪能することができます。一方でMoonikaの作品はとても感情的な作品で、第2次世界大戦後にエストニア人の生き方にどれほどソ連の影響があったかを知ることができます。今作は1人の少女の視点から描かれており、それがあなたの心に思いを残していくでしょう。
より古い映画だと、お勧めしたいのは Veiko Õunpuu ヴェイコ・オウンプーの"Sügispall"とSulev Keedus スレフ・ケエドゥスの"Somnambul"ですね。現代の古典映画と言える作品です。それから90年代の狂気を描いた作品として"Tallinn in Darkness"も勧めますね。さらにソ連時代の巨匠たち、Peeter Simm ペエテル・シムの"Ideaalmaastik"やGrigori Kromanov グリゴリ・クロマノフの"Hukkunud Alpinisti hotel"と"Viime reliikvia"、Kaljo Kiisk カリョ・キイスクの"Keskpäevane praam"や"Vallatud Kurvid"、"Hullumeelsus"などなど挙げればキリがないですね。
TS:もし1本だけ好きなエストニア映画を選ぶなら、どの映画を選びますか? その理由もお聞きしたいです。何か個人的な思い出がありますか?
GG:映画の間に線を引くのはいつだって難しいことです。その日のムードにも拠りますからね。私も日々変わるのである映画が良く思える時があれば、違う映画が好きな映画に変わる時もあります。個人的な思い出という意味では、私はロシア文化とより密接に育ったので、子供時代にはエストニア映画に時間を割くことがあまりなかったんです。10代になってから、学校でエストニア映画を観ることになったんですが、それが有名な歌手であるGeorg Ots ゲオルグ・オッツを描いた作品、Peter Simmの"Georg"でした。その時、こんな映画をエストニア人が作るなんて無理だと思ったのを覚えています。エストニア映画が面白い訳がないという考えが人々の間にはあって、それは今でも根強く残っています。それでも状況は変わっていて、エストニアの観客も変わっていっている訳です。
TS:何か新しい短編、もしくは長編を作る予定はありますか? もしそうならぜひ読者に教えてください。
GG:はい、今現在私とMehis Pihla メヒス・ピーラはエストニア映画協会とFilmivabrikのサポートを受けて、Erika Salumäe エリカ・サルマエという人物の伝記映画の脚本を書いています。彼女は自転車競技のオリンピック選手で80年代初めから90年代後半まで活躍していました。2度の金メダルに輝きながら、シミ1つない鉄よりもハードな人生を送りました。それから政治風刺劇の計画も準備しています。今作は善良な政治家が雑に計画された陰謀によってエストニアに迷いこむといった作品です。人生というものは常に何かしら運んでくれるものです、ここで言えるのは可能な限り一生懸命に働き、何が起こるか確かめてみようということですね。