旧ユーゴ圏においてセルビアやボスニアといった国々がまず世界で評価されていく中で、今までその力を存分に発揮できなかった国がとうとう脚光を浴びようとしている。まず北マケドニアは2020年において長編ドキュメンタリー「ハニーランド 永遠の谷」がアカデミー賞に、しかも長編ドキュメンタリー賞と国際映画賞に同時ノミネートという史上初の快挙を成し遂げるなど世界的な評価が始まっている。
それを上回るのがコソボの大快進撃だろう。紛争によってこの国の映画界はほぼゼロにまで追い詰められたが、独立から10数年間力を蓄え続け、2010年後半より映画祭に次々と作品が選出、かつ多数の賞を獲得するなど、ユーゴ圏・バルカン地域はもとより、世界的に見ても最も勢いあると言っても過言ではなくなっている。これに関しては鉄腸マガジンの“コソボ映画”タグからぜひレビューやインタビューに飛んでもらい、その様を確かめてほしい。
そんななかで最も影が薄かった国がモンテネグロではないか。おそらくモンテネグロと聞いて具体的な作品が浮かぶ人は、相当な映画好きだとしても多くないだろうし、それは映画批評家ですらそうだ。ユーゴ映画ファンならドゥシャン・マカヴェイエフの「モンテネグロ」を思い出すかもしれないが、残念ながら本作はモンテネグロ映画ではない。この鉄腸マガジンではちょくちょくモンテネグロ映画のレビューや映画批評家へのインタビューを掲載しているが、それでもまだまだ情報は少ない。そんな中で1人、興味深い新鋭が現れた訳である。今回はそんなモンテネグロ映画界の新鋭であるDušan Kasalica ドゥシャン・カサリツァ、彼の長編デビュー作品“Elegija lovora”を紹介していこう。
今作の主人公はフィリップ(Frano Lasić フラノ・ラシチ)という中年男性だ。彼は妻であるカタリーナ(Savina Geršak サヴィナ・ゲルシャク)とともに、スウェーデンの山間部に位置する高級ホテルへと赴くことになる。ここで繰り広げられるのは優雅なるひとときだ。壮麗なクラシック音楽を耳にしながら、絶品なるマッサージを施されて、夢心地に微睡んでいく。そして大きなプールで自由に泳ぐこともあれば、外に広がる豊かな自然のなかをのどかに散歩する。とにかく自由で、雅やかな生活を、フィリップは享受することになる。
そんなフィリップは予想できるだろうが特権を傘にした傲慢な知的階級といった存在だ。例えば同じホテルの宿泊客たちと会話を繰り広げる際に、自身の特権性や傲慢さ、そして知的に劣る人々への軽蔑を隠さないままに話し続ける。そして優雅なる日々のなかにも、ふとした瞬間にそういった知的階級のナルシシズムともいうべき代物が首をもたげるのだ。
監督と撮影担当のIgor Đorđević イゴール・ジョルジェヴィチはそんなフィリップの姿を突き放すような視線で以て観察し続ける。彼はただ人生の喜びを享受しているように見えるが、その終りは刻一刻と近づいているように思われる。ホテルの一室ではカタリーナと些細な口喧嘩ばかり繰り広げ、セックスも拒まれる。彼女の心が自分から完全に離れているのに気づいているが、どう関係を修復すればいいのか全く分からない。Đorđevićの撮影は明晰で、フィリップたちの観察模様は凄まじく解像度が高い。このなかでこそ、夫婦仲は静かに破綻していく。
物語が進むにつれて、この観察的態度は自然と長回しというスタイルへと昇華されていく。カメラはフィリップを追跡するように動くが、急ぐことはなく、瞑想的な遅さで動いていき、フィリップの行動や表情の数々が切れ目のない流れとして表現されていくのだ。そしてこの長回しに呼応するように際立ち始めるのはホテルという建築そのものだ。内装には穢れを滅殺されたような無菌的な美が常に宿っている。確かに見かけは美しいが、生きられた痕跡すらも消去されているようだ。おそらくその人間性の殲滅が“高級”というものなのだろう。そしてこういった空間が人間から可能性を奪いとる代わりに、安心をもたらし、これを既得権益として特権階級がしがみ続ける。フィリップもそんな怠惰な人間の1人だが、これにとうとう終りが訪れる訳だ。
フィリップの努力も虚しく、カタリーナは途中で家へと帰ってしまい、独り取り残されてしまう。何とかこの高級ホテルであの優雅なる休暇を続けようとしながらも、ただただ虚無感が募るばかりだ。マッサージの一環で泥を塗られても惨め、若い女性を口説こうとしても無視され惨め、独りでベッドに横たわるのみで惨め。それに耐えきれずに自身も帰宅せざるを得ないが、日常に戻ってきたとしても、破綻の影響は濃厚であり、惨めな虚無感から逃れることができない。
ここから物語は意外な方向へと舵を切る。進退極まったフィリップは故郷へと逃げるように帰省を果たすのだが、そこは鬱蒼たる緑が満ち満ちる森林地域だった。ここでしばらく静養しようとするのだが、彼はこの森林が伐採されていく過程にあることを知る。更にフィリップは謎めいた女性と出会い、自然破壊への反抗を始めることになる。
前半におけるブルジョア階級の皮肉な風刺劇はここで全く奇妙な幻想譚へと変貌していく。この魔術的リアリズムによって監督が成そうとするのは、前半で提示された知の傲慢とナルシズムの傲慢だ。舞台は無菌の美的空間から土と植物で犇めく森林に移り変わり、フィリップは幻惑に揉まれるなかで汚れながら、その内に自然を取り戻していく。“Elegija lovora”はこの驚くべき飛躍によって、知が持つ宿痾としての特権性を克服せんとする1作だ。そして同時に今作は、モンテネグロ映画界の飛躍をも祝福するのだ。