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映画痴れ者/ライター済東鉄腸のブログ。日本では全く観ることができない未公開映画について書いてます。お仕事の依頼は 0910gregarious@gmail.com へ

Juan Pablo Richter&“98 segundos sin sombra”/ボリビア、このクソみたいな世界で

最近、児童文学、もしくはヤングアダルト小説をよく読んでいる。クローン病という難病と診断されてから、小説家として様々なものを再考せざるを得なくなった。そこで辿りついたのが児童文学だった。そして私は、まずここから文学への関心や素養が培われた筈なのに、大人になってからこれを見くびるとは言わずとも殆ど無視していたことに愕然するとともに、その豊かさに深い感銘を受けることになる。この流れがあり、映画においてもそんな児童文学の精神を持つ児童映画のような作品を探していたのだが、年の瀬にとうとう素晴らしい1作を見つけた。ということで今回はボリビアの新人作家Juan Pablo Richter フアン・パブロ・リクテルによる第2長編“98 segundos sin sombra”を紹介していこう。

舞台は80年代、主人公はヘノ(Iran Zeitun イラン・セイトゥン)という少女だ。彼女はボリビアの田舎町に暮らしているのだが、ここでの生活はドクソ陰鬱なものだ。父は酒浸りで家族を顧みないクズ人間、母は妊娠しながらももはや人生に希望を持てず無気力、祖母のクララ・ルス(ジェラルディン・チャップリン)は余命幾ばくもないままベッドに横たわっている。ある日、とうとう母が出産を果たすのだが、弟のナチョは障害を持って生まれてくることとなってしまう。

家庭状況がクソであるならば、外の世界もまたクソッたれである。通っている女子神学校では同級生たちにトコトンいびられ、肩身が狭いことこの上ない。イネスという少女だけが唯一の友人と呼べる存在であるが、彼女は病気がちであり心配が絶えない。全てに嫌気が差しているヘノは、軽蔑を込めて自分が生きるこの町を“クソ溜まり”と呼んでいた。

今作を構成するのはヘノが直面するそんな鬱屈の日々だ。映画のリズム自体は鬱屈というよりも、それとは裏腹の不敵なユーモア感覚、舞台となる80年代風の煌めくようなエレクトロ・ミュージックなど、意外なまでに軽やかなものだ。しかしそんな軽めな雰囲気にこそ、町全体に広がる厭な淀みやヘノの抱く切実な不満や孤独が際立ってくるのだとも言えるだろう。

そんなある時、ヘノは夢を見る。ヘノはイネス、そしてもう1人の正体知れぬ存在とともに地球の遥か遠くにある木星、さらにそれを越えた銀河系へと旅立っていくのだ。彼女はそんな日が本当に来ることを願いながら、町での日々を遣り過ごしているように思える。そして同級生に暴力を振るい、罰を受けている最中、彼女はエルナン(Quim del Rio キム・デル・リオ)という謎めいた男性と出会う。彼は母が出入りしている奇妙な宗教団体のマスターらしいが、彼の行動や言葉がヘノの願いを奇妙な方向に誘っていく。

今作において絶品なのはLuis Otero ルイス・オテロによる撮影だ。まず冒頭、ヘノの家で繰り広げられる運命の一夜を、彼は流れるようなカメラワークで映しとっていく。邸宅に満ちているのは空気がピリピリするような不穏、何かが起こりそうな予感だ。Oteroはそれらに包まれるヘノ、その忙しなく移ろう表情や歩みを、切れ目のない長回しによって見据える。これによって空間が物理的以上に、ヘノの心に共鳴する精神的な膨らみを獲得するのだ。

こうして彼は空間を豊かに浮かびあがらせながら、一方でフレーム外に広がる世界にも気を配る。先述した通り、ヘノは宇宙という、町とは真逆の広大な世界への憧れを深めている。それ故にカメラは幾度も空を見つめる。さらにOteroは照明や画郭の技術により、空間と空、もしくは宇宙そのものが繋がっているように風景を描いていく。ゆえに、私たちは直接空が映しだされていない瞬間にすら、宇宙に広がる壮大な闇の気配を感じ取ることになる。ヘノに何が起ころうとも、その黒の色彩は彼女を見つめ、待ち続けている、善きにしろ悪きにしろ。

もう1つ、彼の撮影には重要な要素がある。ヘノは時間というものに極個人的なこだわりを持っている。何かをやる際には、それが遂行されるまでの秒数を数えて、どのくらいの時間が経っているかを常に意識している。Oteroが長回しという技術を多用する理由の1つが、おそらくこの感覚を映画自体に反映させるためといったものなのだろう。

そして時間と空間を濃厚に意識する彼のスタイルが美しく象徴されるシークエンスもまた存在する。ある時、ヘノとイネスが森のなかではしゃぎ、一緒にダンスを踊り始めるのだが、エレクトロに合わせて無邪気に体を動かすうち、フレームから彼女たちが消えたかと思うと、ずっと幼い2人の少女が現れる。彼女たちは幼少期のヘノとイネスなのだ。そして今度は遊んでいる彼女たちがフレームから消えたと思うと、現在のヘノとイネスが現れる。この1つの長回しのなかで時間を行き交う様は、2人の友情とそのかけがえなさを象徴する。そして空間に満ちる親密さ、時間の飛躍があろうとも色褪せないその広大さは、そのまま長回しという技術が持つ美をも祝福するものだ。

だが現実はあまりに非情だ。このダンスの後に、イネスは劇的に体調を崩し、そして祖母の命もまた尽きていく。母は全てに絶望して鬱に沈んでいき、父は酒やギャンブルの金を稼ぐためか、とうとう麻薬密売にまで手を出すことになる。もうここから逃げるしかないという思いが日に日に増していき、ヘノは決断を迫られるのだ。

そしてヘノの心証風景とも言うべき、現実という地面から浮遊したイメージの数々が現れることにもなる。宇宙服を着て好きなアイドルグループに会いに行く妄想、第2次世界大戦時にユダヤ人たちが直面したような凄惨な虐殺の悪夢。それらをGabriel Lema ガブリエル・リマによる煌めくような、揺蕩うようなエレクトロの響きが彩っていきながら、そのどれにもヘノの世界への諦め、ここではないどこかへの切望、もしくは絶望が宿っているのだ。

ヘノを演じるIran Zeitunは間違いなく今作の核となる存在だろう。ヘノは常に不機嫌そうな表情を浮かべ、ふてぶてしげな態度を崩すことはない。だがそれは孤独の裏返しのように思える。自分に関心のない両親、自分に悪意を向ける同級生たち。信頼できる存在は祖母やイネスくらいしかいないが、彼女たちは病に苦しみ、本当の意味で頼れるのは自分しかいない。その孤独を隠すためにこういう強がりを取るしかない、そんな繊細さがZeitunの演技から滲むのだ。

さて、ここからは少し、私が児童文学やヤングアダルトを読むなかで学んだことについて書いていこう。私がこれらを読んでいる時、子供たちが自分なりに頑張って生きていこうとする姿にある1つの言葉が思い浮かんだ、それは“必死”という言葉だ。この日本語がいかに成り立ったかはそこまで詳しく知らない。だが“ひっし”に“必ず死ぬ”という漢字を当てたのは先人の知恵だろう。必死になると実際、死んでしまう。“過労死”なんて言葉が流行語になる日本では、肌身にそれを実感せざるを得ない。そして、児童文学を読み考えたのは、生きてきた時間、何かを学ぶ時間がまだ少ないからこそ、必死になって生きなくてはいけない瞬間が子供たちにこそ多いということだ。

そういう時間は当然だがあまりあるべきではない。しかし、どうしたって避けることもできないだろう。今、私たちがこのクソ社会に目を向ければ、これもまた一瞬で分かってしまうことだ。それゆえの子供たちの必死さに、懸命に、懸命に寄り添おうとする大人としての責任、その結実こそが児童文学なのだ。私にもこれがやっと分かり始めたのだ。

“98 segundos sin sombra”に戻ろう、私は観ながらこんな思いを抱いた訳である。必死にならなければ世界を生きられない子供たちがいる。そして、抱えるには重すぎる“生まれたことの絶望”に押し潰されようとしている子供たちがいる。しかし、彼らの心に何とか寄り添おうとする大人たちも、確かにいるのだ。

今作はボリビアの作家Giovanna Rivero ジョバンナ・リベロの同名小説を映画化した作品で、Rivero自身も脚色に参加している。本国でこれが児童文学/ヤングアダルトとして扱われているかは知らない。これらが持つべき誠実さを映画である本作も持ち合わせていると私が感じたのだ。頗るシビアな現実で生きる子供たちへの責任を、作り手である大人が何とか、何とか全うしようとする映画。“98 segundos sin sombra”は、そんな切実さそのものなのだ。難病と診断されるなど激動を味わった2021年の最後に、私はこの映画を観れて本当によかった、そう思っている。